目前日期文章:201610 (2)

瀏覽方式: 標題列表 簡短摘要

民國82年10月,臺北市博愛路上的功學社,幾位青年背著電吉他,分別在隔成小間的教室裡教著學生。熱衷搖滾樂的他們,例如石錦航和溫尚翊,那時候還不知道自己將成為臺灣流行樂界的知名人物;另一位靦腆的年輕人林煒盛,也不知道自己將和其他同事們走上全然不同的音樂道路。

民國104年10月,林煒盛穿著輕便、提著一把從隔壁菜市場剛買的蔥,走進咖啡廳接受訪談。在爵士樂好手雲集的紐約歷練十餘年的他,回到臺灣,依然像個樸實誠懇的鄰家男孩。

出生於台南的林煒盛,自幼就對音樂極感興趣,小學舉家遷至臺北後,學了好一陣子的小提琴,卻一直沒有進到音樂班的正規訓練之中。之後,他聽起西洋音樂,因為熱愛六、七零年代的搖滾樂,在高中開始接觸吉他,尚就讀於臺灣大學哲學系一年級時,便已成為博愛路功學社的電吉他教師之一。不過,那時夢想著「當個哲學家」的他,和爵士樂仍是毫無關係的兩條平行線。開始教琴之後,林煒盛慢慢接觸到搖滾樂之外的其他樂風:「那時候偶然聽到一些爵士樂的CD,可是都聽不太懂,不知道他們到底在吹什麼?」一位朋友告訴滿心困惑的林煒盛,如果想要聽得懂爵士樂,得像學習搖滾樂一樣,向老師自基礎樂理、和聲學從頭學起。於是林煒盛找了一位老師,和五、六位同學一起到老師家上團體班樂理課。某次樂理課課後,吹薩克斯風的董舜文詢問林煒盛,他們想要組一個爵士樂團,不知道林煒盛想不想一起玩?「只是,」董舜文說,「一個爵士樂團可以沒有吉他,但絕對不能沒有貝斯。」林煒盛思考一陣之後,便轉行去學貝斯。

那時,林煒盛跟隨的老師金木義則,白天在聯合管弦樂團(即現在NSO國家交響樂團)拉低音提琴,其他時間也在林暐哲所創的Baboo樂團彈奏電貝斯,林煒盛決定向老師從電貝斯學起。過了一段時間,老師建議他,如果真的想學習爵士樂,還是得練習低音提琴,因為在一般認知的爵士樂領域裡,電貝斯仍較為少見,於是林煒盛也就一併學了低音提琴。金木老師有時接了數個場子,難免分身乏術,學了半年之後,大學二年級的林煒盛就過起白天在學校上課,晚上到大飯店幫老師代班的日子。「遇上學校的期中考、期末考,其他樂手坐在那裡放空等著上臺,我卻要抓緊時間拼命唸書」,回憶起當年景況,林煒盛依舊印象深刻。

幾次上臺之後,林煒盛慢慢認識了音樂圈內的人,也有人在看了表演之後,主動遞上名片要找他合作。因為數次美好的經驗,林煒盛在大學三年級時決心要成為一名樂手。然而,當年在臺灣的資訊取得非常不易,金木老師因此勸告林煒盛,務必要前往紐約繼續深造。考量到時間與金錢,林煒盛計劃到紐約唸兩年碩士,用最精省的方式完成自己的學業,但在準備托福與錄製徵選錄音帶(audition tape)的過程中,林煒盛也數度懷疑,真正的學習必然是在夜晚的jam session等舞臺上,那麼進了學校究竟能習得什麼?當他想通這點,決定把學生身份做為安心待在紐約的憑證時,申請的學校紛紛寄來了錄取通知,數所學校甚至給了他全額的獎學金。最後,林煒盛選擇了紐約州立大學普切斯分校(Purchase College, State University of New York),踏上了他的音樂冒險旅程。

到了紐約,林煒盛平日白天上課,晚上便開一個半小時的車到曼哈頓參加jam session。大部份的jam session時間約是半夜12點到清晨5點,參加人數眾多,在報名表單上簽了名字之後,等待兩、三個小時才上臺也是常有的事。有時林煒盛提早到了現場,就會從後車廂拿出準備好的睡袋、調好鬧鐘,先在車上小睡一下。但好幾次實在是睡得太熟,一覺醒來,外頭天已悄悄地亮了。這樣的日子過了大約兩個月,林煒盛覺得自己只要再多加強一些不足之處,應該能夠在當地生存。為了儘早達成自己的目標,林煒盛戒掉了吉他,專心彈奏低音提琴,「因為紐約是非常專業的地方,並不允許一個半調子。」

對於林煒盛來說,jam session既是殘酷舞臺,也是進步契機。儘管上臺時間只有短短的十幾分鐘,又常會因經驗不足遭人擺臉色,而其他時間也僅能坐在臺下等候或觀看,林煒盛卻不以此為苦。他仔細觀察樂手們的互動,聽到不認識的歌,會詢問身旁樂手後把曲名抄下,過幾天便到唱片行買下CD回家聽熟,有時被他人嘲笑或白眼以對,他也不以為忤,反而藉此來審視自己的真正程度,並且努力張開耳朵聆聽,讓自己一次比一次更加進步。「爵士樂是非常依賴耳朵的藝術」,林煒盛說。jam session舞臺上,不僅不能帶譜,若有樂手要求轉調,也得立刻照做,這並不僅是依靠記憶能力,而是真正的通曉和聲,將和弦內化在心中。透過一次又一次jam session的磨鍊,林煒盛從曲目的熟習到心態的輕鬆,終於一步步地邁向職業樂手之路。

林煒盛說:「做為一名職業樂手,和聲是最基本的語言。好的職業樂手靠的不是默契,而是實力。」身在「世界爵士之都」的紐約,爵士人才濟濟,出門做場時遇到的樂手總是不同,表演前也不會有排練的機會,但是到表演現場後,第一個音落下,全團的拍子卻能緊密地結合在一起。聽眾常以為這樂團至少已經為此排練無數遍,但事實上,一次都沒有——樂手們甚至不認識彼此!

關於爵士樂的學習,林煒盛說:「學音樂應該要用耳朵去學,而不只是用頭腦去學。」許多人在學習樂理後,知道哪個音階可以搭配哪個和弦,之後每次solo遇上那個和弦便永遠都只跑那個音階,林煒盛認為,「這樣根本就是在算數學!」然而,學校並無法直接教導學生如何感覺音樂,只能傳授音樂上的規矩,面對這個狀況,林煒盛分享:「我在美國遇到很多樂手,他們都是從小開始接觸樂器,東玩西玩後就知道哪個音好聽、哪個音不好聽。當他玩了好一陣子,甚至在外頭有個樂團、有點名氣,才進到學校學習規矩。這種人進到學校,是讓規矩印證自己所學,而非學了規矩後,一輩子都被限制在框架之中,而不靠耳朵和感覺。」

民國88年旅居紐約至今,熱愛音樂的林煒盛,從一個惶恐的小伙子,蛻變成目前紐約唯一臺灣出身的職業爵士樂手。林煒盛認為在音樂的世界裡,答案並不是他人給的那個唯一,而須透過長時間的嘗試才能獲得。就算自己找出了最佳解答,這個答案也將隨著時間與個人學習歷程而有所變動。「音樂永遠沒有標準答案」,林煒盛堅定地說。

砂山 發表在 痞客邦 PIXNET 留言(0) 人氣()



歌は世に連れ、という言葉がいつからあるのかは定かではない。でも、大衆音楽という言葉が広まった頃から、そういう言われ方はされていたのではないだろうか。ヒット曲とその時代、世相や社会背景、そして、その歌い手の人気。いくつもの要因があってヒット曲が生まれる。

でも、そうした曲の中で、どんなに時が流れて時代が変わっても廃れない歌がある。“名曲は時代を超える”というもう一つの永遠の真理がそれだ。時を超えて歌い継がれ語り継がれる歌。この10年あまりのカバーブームは、そうした曲達に対してのリスペクトの表れでもあるだろう。

とは言え、中には曲の知名度を頼っただけの心ないカバーも少なくない。それら凡百のカバー作品の中で、抜きんでているのが、女性では坂本冬美の「Love Songs」シリーズであり、男性では徳永英明の「VOCALIST」であることは言うまでもない。心ある音楽人と心技の備わった歌い手が、時を超える名曲達に新たな命を吹き込んでゆく。その両方の作品に特筆しなければいけないのは、歌い手自身にとってもそれまでの自分のスタイルにはなかったチャレンジだったことだろう。そのことがより一層原曲の魅力を引き出すことになり、リアルタイムで原曲を知らなかった聴き手に届いてゆく。それは、“歌のつたわり方”の理想的な形といって過言ではない。

前置きが長くなっている。でも、坂本冬美の「ENKA~情歌~」は、そうした流れの中で語られてこその作品ではないだろうか。すでに「Love Songs」シリーズを6枚、60年代のカバーポップスや70年代のフォーク、ポップス、ニューミュージック、更に洋楽のラブソングまでを網羅、オリジナルのアルバムも一枚あった。どれも、選曲だけでなく、小節を封印した歌い方も含め、彼女の本来の演歌路線とは違うアナザーサイド的な発見に満ちたアルバムでもあった。

この「ENKA~情歌~」は、そうではない。どれも彼女が生きてきた世界を象徴するような曲が並んでいる。オリジナルを歌っているのも、“その道の大先輩”ばかりだ。

今、なぜ、このアルバムなのか。プロデューサーの山口栄光は、こう言った。

「「Love Songs」のシリーズは6作で一区切りにして終わろうと。ただ、坂本冬美のカバーというのは浸透してきたし、今年はデビュー30周年ですからね。3月と8月に演歌シングルも出しましたし、今年は演歌の年にしよう。演歌に対するリスペクトと感謝を込めて、「Love Songs」の延長でカバーしようと。これは色んなところで彼女も言ってますけど、坂本冬美は、小学生の時に、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」を聞いて初めて演歌歌手になりたいと思った。彼女の中には色んな演歌がある。基本的に、彼女が影響された、育てられた演歌を選んでいます。「Love Songs」もそうだったんですけど、いつも候補曲を、20~30曲は選んで、スタジオでギター一本で歌ってみるんです。アップテンポの曲が少ないから構成上これも入れようとか、合い過ぎる歌をあえて外したりとか、で決めていきました。」

石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」を聴いて演歌歌手になりたいと思ったーー。

そういう意味では、“坂本冬美を作った10曲”ということになるのかもしれない。ただ、“「Love Songs」シリーズの後に歌うと”というところを見落としてはいけない。

そのパートナーに選ばれたのは、アレンジャー・プロデューサーの坂本昌之だった。徳永英明の「VOCALIST」シリーズや平原綾香のデビューに関わったプロデューサーである。山口栄光は「心中覚悟でお願いした」と言った。

坂本昌之「30周年のターニングポイントになるアルバムに丸々関わらせて頂くという大役を演歌でやる。とてもシビレました(笑)。徳永英明さんのアルバムは経験してますけど、演歌にジャンルを絞るということは自分が音楽の世界で生きてゆく上でかなりの覚悟も要るでしょうし。大丈夫か、みたいなすごく重い物がありました。一応、全部原曲は知っておりました。若僧と言いながら、自分も50になってしまったんですけど、演歌という様式美の世界というか、演歌の決まりごと的なものが、あるじゃないですか。それが本当に強い楽曲と意外とそうでもない曲がある。そこに何か新しいといいますか、香り付けといいますか、それが一番難しかった。どれも素晴らしいし、そこに勝つとか負けるとかじゃなくて、奉納するという気持ちでした。」

奉納、である。

去年50才になったポップス系音楽家にそう思わせてしまう曲が並んでいる。

そして、どれも従来のカバーとはひと味違っている。その要因が、アレンジにあることは間違いない。そこに彼女の歌が相乗効果のように加わっている。演奏が歌を刺激するのか、歌が演奏を牽引するのか。アルバムの聴き所はそれだ。

山口栄光「ジャンルとしては演歌であるけれども、ポップス的、ロック的な要素を持っていたり、フォーク的な要素を持っていたりする歌が、沢山あります。ロックテイストに仕上げてもらった「石狩挽歌」もそうですけど、その洋服を変えて、今の時代の洋服を着させてあげれば、といっても10代〜20代は無理かもしれませんが、30代〜40代ぐらいの若い世代の人たちが演歌っていいねと、ちょっとでも目を向けてくれたらというのが、根っこにあります。」



1・「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼/作曲・浜圭介)

ロックテイストに仕上げてもらった。洋服をちょっと替えてみる。その代表がこの曲ということになる。1975年、北原ミレイが歌った曲で知られている。ニシンが捕れなくなってしまった海を舞台にした挽歌。バンドのグルーブが醸し出す、北の海を思わせる低く重いうねりのような“底流感”。誰もが知っているフレーズを生かしつつ、ロックバンドならではの“揺れ”は、この曲の生命線だろう。間奏のギターソロも効果的だ。身をよじるようなヴォーカルのタメの快感。演歌でもロックでも、ソウルでもブルースでもいい。

ここにジャンルはない。

ミュージシャンのクレジットを見て欲しい。(*山木秀夫(D)、高水健司(B)、今剛(G)、坂本昌之(Key))近年は井上陽水や福山雅治、70年代から一線で活躍するミュージシャンたち。生演奏でしか作れない“うねり”であることは言うまでもない。

レコーディングで最初に取りかかったのが、この曲と「舟唄」だったと言う。

山口栄光「この曲のサウンドで冬美本人が最初に仮歌を歌った時に、「鳥肌が立った」と言ったんです。このメンバーは彼女は初めてですし、坂本昌之さんじゃないと集まってくれない。今度は、バンドのメンバーが、彼女が仮歌を一節歌っただけで、やっぱりすごい鳥肌が立ったって。それまで接触のなかったジャンルの人たちがお互い震えたんですよ。」

坂本昌之「その時は本当にすごかったですよ。大役というプレッシャーもありましたし、このアルバムがどうなっていくかという船出でしたから。この曲は日本のソウルだと思うし、それをこのリズム隊でやったらどうなるか。自分でも心中出来るミュージシャンを集めて一発目のレコーディング。 音決めが終わって、譜面をみて説明して、それでは1回演ってみましょうかと、軽く仮歌をお願いしての1発目の時に、既に、凄かったんですよ。僕は、こん風になったらいいな、と思って譜面は書くわけですけど、そこから先は生身の人たちがどんな魂を入れてくれるかしかない。たぶん、冬美さんの歌に導かれて、この素晴らしいメンツが、ほとんどテイク1。自分も感動してしまいました。」

2・「大阪しぐれ」(作詞・吉岡治/作曲・市川昭介)

この心地良さは何だろう、というのが最初に聞いた印象だった。1980年に発表された都はるみの後期の代表曲。口ずさみたくなるメロディーはそのままで、跳ねたリズムが歌に軽やかさを与えている。“洋服を変える”ということはこういうことだという一曲だ。

レコーディングの最後の曲だったそうだ。

山口栄光「この曲が一番“遠い”と思ったんです。合う洋服が見つからない(笑)。ド演歌と言えばド演歌ですからね。それで最後にした。順番は僕が決めました。一番難しかったのはリズムの組み方ですね。一番時間がかかった。すごく悩んでもらってやっと見えたというのが、このリズムでした。」

坂本昌之「どんな洋服がこの曲に似合うか、色んな着せ替えを一番やった曲でしょうね。歌謡曲をポップスにするという一般的な、ことではなくて、「大阪しぐれ」というど真ん中の演歌で、歌をどう聴かせるかのアンサンブル感とかを見たかった。たとえばギターだけでやるとか、そういうそぎ落とし方だけでは駄目で新しいグルーブを作らないといけないと。演歌のリズムの“跳ね”と洋楽の“跳ね”とあると思うんです。何度やっても“違う”と曲から言われているみたいな気がして。でも、そこから逃げちゃいけないと思いましたね」

3・「津軽海峡・冬景色」(作詞・阿久悠/作曲・三木たかし)

様式美という意味では「大阪しぐれ」とこの曲は双璧だろう。聴き手にすり込まれているイメージの強烈さも含めてだ。更に、自分が小学生の時に聞いて、演歌歌手になりたいと思ったという運命を変えた曲をどう自分の色に染めてゆくか。アコースティックギターとストリングスの叙情。ピアノをバックにささやくような歌で始まってゆく。誰もが知っている景色でも、こんなに違って見えるのかという一曲だ。悲しみを抑えこんだ語りかけるような歌い方は、これまでの坂本冬美にあったのだろうか。あの歌の中の叙情性を濾過するとこうなるのだと思った。

山口栄光「それは「Love Songs」6作品の産物でしょうね。彼女がデビューした「あばれ太鼓」からずっと“直球ボール”か“切れのあるボール”が持ち味で、変化球というか、歌で言うと“語り”とかがあまりなかったんです。若い時は直球でいいんですが、都はるみさんが「北の宿から」で“語り”に変わったみたいなこともあっての「Love Songs」でしたから。この曲は以前から歌ってますけど違う感じが表現出来たと思います。」

坂本昌之「色合いとしてそんなには変わってないですけど、ちょっと水彩画と言いますか。オリジナルのイントロも好きですけど、あえて違えている。アコースティック感と言いますか。冬美さんの声を中心にした時のトータルなアコースティック感を大事にしてます。個人的にはエンディングのメロディーが本当に好きで、絶対に使いたかったんですよ。」

4・「舟唄」(作詞・阿久悠/作曲・浜圭介)

劇的で叙情的、更に叙事的で物語性に富んだ曲。日本の歌謡曲が生んだ史上屈指の名曲がこれだろう。歌唱力という範囲に留まらない歌い手の表現力が問われる曲。八代亜紀がロック系のイベントに出てこの曲を歌った時に、冷やかし半分で見ていた若い観客がボロボロ泣いていたという話は有名だ。この歌を歌う時のうっすらと笑みを浮かべた八代亜紀は、まさに横綱相撲の貫禄を感じさせる。坂本冬美にとっては、相手にとって不足がないという曲だろう。そして原曲とは違う、しなやかさと健気さで歌いきっている。バンドのメンバーは「石狩挽歌」と同じく山木秀夫(D)、高水健司(B)、今剛(G)、坂本昌之(Key)である。“歌心”というのは、こういう演奏を言うのだと思う。

坂本昌之「冬美さんの自然体にこちらがついてゆく感じでしたね。歌に引っ張られてこうなった気がします」

山口栄光「仮歌の一発目から一番良かったのがこの曲ですね。まさに語りの歌で、彼女がこの5,6年やってきた良い部分が出ている気がします。ゴツゴツした感じがなく、しなやかな語りが出来たと思いました。」

5・「千曲川」(作詞・山口洋子/作曲・猪俣公章)

気がつかれただろうか。全10曲、前半4曲と後半4曲が女性の歌だ。折り返し点の5曲目と最後の10曲目に男性の歌が入っている。1975年の五木ひろしのヒット曲。作曲の猪俣公章は、坂本冬美の育ての親。「あばれ太鼓」の作曲者でもある。ただ、あの歌とはかなり世界が違う。ご当地ソングの定番であり、ジャンルを超えた唱歌として広く親しまれている曲だ。イントロからアレンジャーがピアニストだということを再認識させる仕上がりになった。

坂本昌之「五木さんって、声に力があるというか、“来る”じゃないですか。「津軽海峡・冬景色」は、あの曲のある要素を救い出した感じですけど、これは、新しい服を探しに行った感じが特にします。ピアノ叙情歌というか。メロディーが良い意味で唱歌、川の音が聞こえてくる感じで良いかなと思ったんですよ」

山口栄光「猪俣公章先生って、どちらかというと、洋楽好きで、演歌でもおしゃれな曲が多いと思っています。この曲も叙情歌のような作品なので、アレンジもそのような方向でお願いしました。」

6・「越冬つばめ」(作詞・石原信一/作曲・篠原義彦)

日本語の特徴の一つに“擬音語・擬声語”がある。音や状態を表した言葉。そこには意味がないだけに、イメージが広がってゆく効果もある。もし、この曲に“ヒュルリ”という言葉がなかったら、どうなっていただろう。83年に発売された森昌子の代表曲。石川さゆりの歌でも広く知られている。作曲の篠原義彦は、円広志の本名だ。この曲もピアノが、印象的だ。哀しみを増幅させ、これでもかと涙を誘うのがオーケストラだとしたら、この曲は、そうではない。細やかで密やかで、壊れそうな哀しみを抱えている。

坂本昌之「事前に山口さんにアレンジのデモを聞いてもらったんですが、イントロがあまり悲しくないという意見があって。僕の中では、それなりに悲しい感じだとは思ってましたけど、もっとどうしようもないくらい悲しいものをというテーマで。そこから“哀しみの扉”を開けていきました。感情を過剰に表現する、という演歌は多いですけど、そうならないのがポップス系の演歌かもしれない。オケの厚い薄いで言えば薄いんですけど、水増しじゃないんですよね。関西のうどんみたいにしっかり味がついてます。」

山口栄光「坂本冬美はこの6年の間に、“歌いすぎない世界観”の作り方を自分で体得したというか、自信になったと思います。Love Songsのレコーディングで体得した語りの歌唱が、もっとも生かされた一曲になったと思っています。」

7・「人生いろいろ」(作詞・中山大三郎/作曲・浜口庫之助)

歌謡曲のヒット曲で知られている作曲家の中には意外なキャリアの人が少なくない。「大阪しぐれ」を書いた市川昭介が、ハワイアンをやっていたという話は、不勉強ながら今回初めて知った。歌謡曲の土台を作った人たちが、ジャズやハワイアンなどの洋楽出身者だったというのは興味深い事実だろう。この曲を書いた浜口庫之助もその一人だ。ハワイアンバンドを組んでいたこともある。歌謡曲の中に“軽さ”という要素を持ち込んだ一人と言っても良いかもしれない。1987年、島倉千代子がこの歌を発表したのは49才。50代になって大ヒットした。1950年代、10代でデビュー、純情歌謡として一斉を風靡した彼女が、可憐な大人の歌手として蘇った曲だ。アルバムの中で、原曲よりも分厚い印象があるのはこの曲だけだろう。

坂本昌之「これは「越冬つばめ」と逆でしたね。最初のスケッチを聞いた山口さんから、ちょっと哀しすぎるって。「人生いろいろ」の中の哀しい面を表現しようとしてしまったんですね。哀しみを明るい感じで包むという。アレンジ的にはめちゃめちゃ、歌謡ポップスにしたかったんです」

山口栄光「この曲は、完全にアップテンポのポップスにアレンジして欲しいとお願いしました。」

8・「愛燦燦」(作詞・作曲/小椋佳)

島倉千代子の次は、美空ひばりである。女性歌手のLEGEND的大御所の代表曲が並んでいる。とは言え、この曲が選ばれているのは意外かもしれない。作詞作曲は小椋佳、発表は86年。美空ひばりのキャリアの中では後期の代表曲。これも彼女が49才の時の曲だ。島倉千代子と美空ひばり。戦後の歌謡曲の二人の歌姫が共に“人生”を歌った49才の曲というのは偶然だったのだろうか。有名な曲というよりは“坂本冬美を作ってきた曲”。しみじみした郷愁感は、若い時には出せなかった味だろう。

山口栄光「最初に15曲から20曲くらいを選んでこの中からやろうと言ってたんですが、それ以外に本人が希望したのが「愛燦燦」と「かもめの街」なんです。この2曲ともギター一本で歌って貰った時のしみじみ感がとてもいいと思いました。」

坂本昌之「小椋佳さんの曲って、すごい郷愁感があるなって子供の頃に感じたんですね。切ないというか、懐かしいというか。「木戸をあけて~家出する少年がその母親に捧げる歌」というのがあって。普段は思い出さないですけど、この曲のクレジットを見た時、そういう封印されていたものが、バーっと出てきましたね。僕、北海道でしたから、千春さんとか、そういうフォーク的なものがルーツにはあるんでしょうね。」

9・「かもめの街」(作詞・ちあき哲也/作曲・杉本真人)

坂本冬美本人が強く希望したというもう一曲がこれだ。ここ数年、静かなブームになっている「黄昏のビギン」ではなく、88年にちあきなおみが発売したアルバム「伝わりますか」の中の曲というのも、彼女の中の時代性とのリアリティの表れだろう。山口栄光が何度となく口にしている“語りの歌”という意味での真骨頂。台詞の入った作り方といい、これ以上ないという曲だ。波止場のかもめに託した悲哀。行く場所も帰る場所もないさすらいの人生。アコーディオンが詠嘆感を一層深くする。アルバム最大の聴き所。この曲のための曲順だったと言っても過言ではないと思う。

坂本昌之「ちあきさんはBOXで知ってましたけど、アルバムの中でこの曲を聴いた回数が一番少なかったです。原曲のアレンジをしていた倉田信男さんを超リスペクトしていまして。他の曲と色合いが違うんです。最初にラインアップの中で「大阪しぐれ」とこの曲は難易度が高いなぁ〜と。どうしようかなと。最後は、こういうタイプの曲ですから、冬美さんの歌に導かれていこうと、開き直りましたね。この曲は、人生で初めてクリックなしで全編を指揮しました。今までちょっと恥ずかしさもあったんですけど、こんな風に歌って頂いて進行役がいないと無理だな、恥ずかしいとか言ってられないと思ってやりました」

山口栄光「究極の語り、ですから。この曲だけクリックを使ってない。指揮棒を振ってやったのは、この曲だけですね。ちあきなおみさんの曲を何か入れたいねって。これと「紅とんぼ」のどっちかだった。」

10・「星影のワルツ」(作詞・白鳥園枝/作曲・遠藤実)
 

アルバムの最後は、海外でも広く知られている曲だ。千昌夫の66年のヒット曲。特に中国や台湾に行ってこの曲の浸透具合に驚いた人も多いだろう。牧歌的でおおらかなスケールが「かもめの街」とまさに対極。ジャズバーで聞いているような上品さも曲が内包しているからこそだ。アレンジが変われば世界も変わる。一枚のアルバムの中の劇的な起承転結。配信でしか音楽を聴いてない人には未体験かもしれない。

山口栄光「この曲はフォークと言ってもおかしくないと思います。感情を入れ過ぎずに歌ってもらいまいた。歌い継いでいきたい1曲です。」

坂本昌之「ジャジーというか。ドビッシーとかショパンまで行かないですけど、おしゃれ寄りなクラシックと言いますか、叙情派な感じと歌謡曲を融合出来たら良いなと思っていました。」



全10曲。どれも新たな装いをまとっている。それでいて曲の根底に流れているものは変わらない。むしろ、より鮮やかに情景や物語が浮かんでくる曲も多い。そして、どの曲も、ジャンルという区分けをすることに意味を感じさせない。

アルバムのタイトルは「ENKA~情歌~」である。「ENKA」という言葉は彼女自身から出たのだそうだ。炎歌でもなく、艶歌でも怨歌でもない。人と人の人情、それぞれの人の喜怒哀楽という感情。英語で言うと、エモーショナルソング、ということかもしれない。

“情歌”と書いて“ENKA”と読ませる。

取り上げるべき曲は、まだまだありそうだ。

音楽評論家 田家秀樹
Copyright (c) 2016 T&K Music All rights reserved.

砂山 發表在 痞客邦 PIXNET 留言(0) 人氣()

找更多相關文章與討論