娯楽という華美な衣装を纏った歌手たちを透視したとき、そこに<歌>としての真実の姿があるべきなら、今まさに石川さゆりは真骨頂であると思う。何故なら、彼女の唇から投擲される大衆歌謡のひとつひとつは、物語の伝達と伴奏しながら言葉が内蔵するエネルギーの流露を私たちに体感させてくれるからだ。

それは神道における祝詞(のりと)、仏教における声明(しょうみょう)に通じる吉凶の祈念である。無論、表現者自身はそこまで考えて歌唱している訳ではなかろうが無意識下にトランスメーションされた歌は、一気に現実の壁を突き破り彼女に接触したすべての者を芸能の原野へと錯行させる勢いを持っている。いわゆる芸能の本卦がえりだ・・・。

今回、歌手生活25周年を記念する全集の再録音に何日か立ち会って感心したことは、石川さゆりが歌を劇的に表現する方法よりどの楽曲も実に緩やかに語ろうとしている点だ。発汗した肉体の表皮より寡黙な内奥を語ることによって情緒の豊かさをより増幅させられる歌唱法をいつのまにか会得していたのだ。

元来、日本の芸能は語り部の歴史でもある。彼女の歌唱の奥底には「平曲」やら、浄瑠璃やら、瞽女うた、浪曲、都々逸など我が国が誇るべき芸能の血脈がない交ぜとなって継承されていると私は確信した。それでなくてなんで歌謡曲に祝詞や声明を体感するだろうか。

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石川さゆりの声には魔性があると僕は考えている。いかにもおどろおどろしいような、そんな魔性ではなく、無垢で純情なおぼこ娘が実は蛇の化身であるといった類の魔性だ。

そう、例えば長唄『京鹿子娘道成寺』の白拍子。実は清姫の亡霊で、最後には蛇となって鐘にとりつくのだが、それまではなんとも可憐な町娘の風情で踊ってみせる。石川さゆりの声には、白拍子に化けた清姫の胸にある冷たい炎のような情念が感じられる。

彼女の歌を聞いていると、このおぼこ娘は一体いつ正体を見せるつもりなのかという期待と不安で息苦しくなってくる。この緊張感がたまらない魅力だ。

石川さゆりは決して正体を見せてはくれない。むろん見せないことが素晴らしいのだが、蛇の息づかいや、身のうねり、肌ざわりは確実につたわってくる・・・。
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