2001/4/28《仮想状況》 『津軽海峡冬景色』です。阿久悠の作詞,三木たかしの作曲,石川さゆりの歌である。
 この歌の主人公は,政治や経済や文化の中心である東京の雑踏から,「上野発の夜行列車」で北へ帰ろうとしている。夜行列車の単調な列車音を聞きながら,主人公は暗い夜の窓を見て,物思いにふけっていた。夜行列車を「おりた時」,すでに「青森駅は雪の中」にあった。雪は音を吸収する。主人公は静けさの中に一人立っている。
 地理をなぞれば,主人公は北海道に帰るということになろうが,これは違う。主人公は極北に帰る,つまり孤絶の極北に帰るのである。いや主人公だけではない。「北へ帰る人の群れは 誰も無口で 海鳴りだけをきいている」ように,夜行列車の乗客たちはすべて無口で自分の中に沈んで孤絶し,自らの心の中の叫びにも似た海鳴りを聞きながら,孤絶の極北へ向かっているのである。そして乗客たちと同じく「私もひとり 連絡船に乗り こごえそうな鴎見つめ 泣いてい」る。「こごえそうな鴎」は自分の孤絶の心象であり,乗客たちもそこに自分たちの姿を射影している。そして,それ自体「こごえそうな鴎」とも言うべききゃしゃな石川さんが「ああ 津軽海峡冬景色」と海鳴りのような悲しい叫びを発するのである。実生活で噂のように,石川さんが生意気でもわがままでもそれはどっちでもよい。彼女が放つ海鳴りの声が感動的なのである。
 孤絶は自らの力で感覚するものである。そしてよくある逆説だが,孤絶の実感こそ,他者との通路を産みだし,真に他者に優しくし得る基礎となるものであると思う。「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が 指をさす」が,それは少し知ったかぶりの孤絶者の余計なお節介である。極北は自ら見出すものである。主人公は「息でくもる 窓のガラス ふいてみたけど はるかにかすみ 見えるだけ」で極北は見えない。自らの力で感覚するしかないのである。
 誰にも依存できない,誰にも保護されない,誰にも受容されない,その孤絶の極北から,再び人に見えるのでなければならない。出会うのでなければいけない。今何度も「ああ 津軽海峡冬景色」という孤絶の叫びが私の耳の中に反響し,そこに何やら私の悟達のようなものが現れ始めている。
 主人公は「さよならあなた 私は帰ります」と言う。だが,この「あなた」は特定の誰か男なのではない。これは他者一般の抽象である。その証拠にこの「あなた」は全く描写されていない。さよなら,他者よ,私は孤絶する。「風の音が 胸をゆする 泣けとばかりに ああ 津軽海峡冬景色」。胸が張り裂けそうだし,泣き崩れてしまいそうだが,だが,行かなければならない。「あなた」に「さよなら」して,孤絶の極北へ。その感情をとことん味わい尽くして,とことん表出しきって,その後に現れるものを信じよということであろうか。


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