第444夜 吉岡治「天城越え」(昭和六一年七月発売 歌・石川さゆり 作曲・弦哲也)
詩     
    天城越え
隠しきれない移り香が/いつしかあなたに浸みついた/誰かに盗られるくらいなら/あなたを殺していいですか/寝乱れて隠れ宿/九十九折り 浄蓮の滝/舞い上がり揺れ墜ちる/肩の向こうに あなた 山が燃える/何があってももういいの/くらくら燃える火をくぐり/あなたと越えたい天城越え
(以下略)
問題点  
1)  石川さゆりが歌う有名な歌の歌詞。「誰かに盗られるくらいなら/あなたを殺していいですか」の一節は読む者・聴く者の感情を驚かせるに十分だ。この詩は男女の禁じられた恋の情念を描くとともに、〈恋〉はどういう状況下にあっても〈生きた存在〉であることを伝えている。いやむしろ禁じられているからこそ〈生きた存在〉はさらに〈生き生きとした存在〉になるのだろう。禁忌の愛は近世の近松浄瑠璃に遡るまでもなく近代以降の小説にも数多く登場する。近松浄瑠璃の〈心中もの〉に見られる悲劇、つまり男女の心中で終わる悲劇の結末とこの詩はどう違うのか。あるいは三島由紀夫『春の雪』の悲劇とこの詩はどう違うのか。演歌はむしろ不貞のテーマが中心となってきたとさえいえる。にもかかわらず演歌の歌詞には倫理的反省が入らないのが普通だ。正確にいうと反省が入らないというより、そうした倫理的反省の時期はとうに過ぎ、この詩のように二人の関係はもはやあと戻りの出来ない状況に立ち至り、逡巡やためらいを振り切り、もはや前へと進むしかないところに二人がいるため、反省や後悔の念が表面に表れなくなっているのだ。近松の〈心中もの〉でいうなら、心中を決意した二人の男女のクライマックスである〈道行〉にあたる部分が、この詩の内容にあたる。もっとも三島の『春の雪』もそうだが、浄瑠璃や小説は単に〈道行〉だけを描くのではない。心中にいたるまでの二人の男女の宿命的ともいえる経緯そのものを描いていく。近世的物語では不運が重なり二人の男女が運命的な死へと追い込まれていく過程を、近代的物語では男女の心理のメカニズムが複雑にからむ中で死が必然性をもって立ち現れてくる過程を。
2)  「何があってももういいの/くらくら燃える火をくぐり/あなたと越えたい天城越え」「戻れなくてももういいの/くらくら燃える火を這って/あなたと越えたい天城越え」と第一連第二連の結末でうたわれる「あなたと越えたい天城越え」は何を意味するのか。「燃える火」を「くぐり」そして「這って」行く道の向こうに何があるのか。「何があってももういいの」「戻れなくてももういいの」という決意からすると、道の向こうに〈別の世界〉を見ていると捉えてよいだろう。そこが〈死の世界〉かどうかは分からないが、確かにそこには近松浄瑠璃の〈道行〉的発想と似かようものがあり、浄瑠璃の心中が〈生の悲惨な幕引き〉ではなく〈別の世界の始まり〉であったように、新たな二人だけの別誂えの世界を〈天城越え〉の彼方に見ていたといってよい。
3)  この詩の語り手は女性である。女性の相手である男性がどのような男であるかは実は分かりにくい。女性の思いの深さと男性の思いの深さには温度差がある。しかしここでは男性が女性にどのような態度や気持ちで接しているかは記さない。読者の想像にまかせてよいところだ。この詩は女性に視点がおかれ、彼女の気持ちの深まりが相手である男性の気持ちとズレが生じていることで、より一層純粋に高まっていることを確認しておけばよい。「あなたと越えたい天城越え」の「あなた」はもちろん目の前にいる「あなた」なのだが、女性は心の中で理想化してきた〈内なるあなた〉に向かって歌いかけているといってよい。
4)  「寝乱れて隠れ宿/九十九折り 浄蓮の滝」「わさび沢隠れ径/小夜時雨 寒天橋」「走り水迷い恋/風の群れ 天城隧道」の言葉の併置のありようは興味深い。ほぼ五音節で構成されたこれらの言葉の併置は、「寝乱れて隠れ宿」「わさび沢 隠れ径」「走り水迷い恋」といったそれぞれ前半部の二句が人物のありようを示し、「九十九折り浄蓮の滝」「小夜時雨 寒天橋」「風の群れ天城隧道」の後半部二句が人物の心理や行動に景物を添えることである暗示的な意味を加えている。「九十九折り」は二人の心模様の複雑さや入り組んだ様を、「浄蓮の滝」は二人のたぎる思い(「滝」のイメージ。紅「蓮」の炎のイメージ)とその後の「浄」化のさまを、「小夜時雨」「寒天橋」は心のなかで「時雨」が降りこめるような気鬱さとそれに伴う「寒」さを、「風の群れ」「天城隧道」は惑う心をいっそう乱させる心の底から湧き上がってくる恋心と、そうした恋心が「天城隧道」の暗く奥深いトンネルのような心の奥底から冷たい情念のように噴き出してくることを暗示する。
1)石川Sayuri唱的有名的歌的歌詞。「要是被誰取的可以殺死/你嗎的」一節使之感到吃驚讀的人·聽的人的感情充分。這個詩描繪男女能禁止的戀愛的感情的同時,怎樣的狀況下有<戀愛>也傳達著<活的存在>。哦倒不如正因為被禁止<活的存在>並且成為<作為活潑的存在>吧。禁忌的愛無需追溯到近代的近松淨琉璃近代以後的小說也許多登場。被近松淨琉璃的<一同自殺東西>看的悲劇,這個詩與由於總之的男女的一同自殺結束的悲劇的結果怎樣不同?或是三島由紀夫『春的雪』的悲劇和這個詩怎樣不對?演歌倒不如不貞的題目連成為了也中心能說。象也儘管倫理的反省不進入演歌的歌詞普通。因為說不有反省正確說,那樣的倫理的反省的時期老早過去,象這個詩一樣地二人的關係到到已經後邊恢復原狀不完成的狀況,甩開逡巡和猶豫,已經前前進以外二人在沒有的地方,反省和後悔的念頭變得不呈現在表面上。相當於是如果用近松的<一同自殺東西>說,決心一同自殺的二人的男女的頂點的<上路>的部分,相當於這個詩的內容。最三島的『春天的雪』也是那樣,不過,淨琉璃和小說只僅僅不是描畫<上路>。描畫達到一同自殺到為止的二人的男女的宿命的也可稱作的經度和緯度本身。以近代的故事男女的心理的機械裝置在複雜糾繞中死必然性豎立出現的過程近代的故事不幸重疊二人的男女命運性的死被趕進的過程。
意味「想與「想爬是「想鑽過是有2)什麼也已經好的/眩暈燃燒的火與/你越過的天城越過」即使不能返回也已經好的/眩暈燃燒的火與/你越過的天城越過」和第一連串第二們的結果稱譽的你越過的天城越過」什麼?so做在「爬」去的道的對面有「燃燒的火」什麼「鑽過」?可以捉住從「是「有什麼已經也說」即使不能返回已經也好的」的決心做的話,在道的對面看著<另外的世界>吧。是不是<死的世界>不明白那裡,不過,可以說確實那裡有與近松淨琉璃的<上路>的構思相似的東西,淨琉璃的一同自殺不是<純粹悲慘的幕提拔>象是<另外的世界的開端>一樣地,在<天城越過>的那兒看著只新的二人的另外(區別)訂做的世界。

3) 這個詩的解說人是女性。作為女性的對手的男性是怎樣的男人其實不易懂。女性的所想的深度和男性的所想的深度存在溫度差。可是這裡男性與女性以怎樣的態度和心情接觸著不記。可以讀者的想象託付。由於這個詩視點被放在女性,她的心情的加深作為對手的男性的心情和zure產生的事,預先確認提高到更進一步純粹的事就行了。不用說是眼前有「想與你越過的天城越過」的「你」的「你」,不過,女性可以說面向在心中理想化了的<裡面變成的你>唱。

??」即使不能返回已經也好的」的決心做的話,在道的對面看著<另外的世界>吧。是不是<死的世界>不明白那裡,不過,可以說確實那裡有與近松淨琉璃的<上路>的構思相似的東西,淨琉璃的一同自殺不是<純粹悲慘的幕提拔>象是<另外的世界的開端>一樣地,在<天城越過>的那兒看著只新的二人的另外(區別)訂做的世界。

4)「睡亂隱藏宿驛/九十九折 淨蓮的瀑布」「山榆菜澤隱藏直徑/夜間的陣雨寒天橋」「跑水迷惑戀愛/風的群 天城隧道」的言詞的附設有樣子很有興趣。大體上用五音節被構成的這些的言詞的附設,「睡亂隱藏宿驛」增加著作為「山榆菜澤隱藏直徑」「跑水迷惑戀愛」的各自前半部分部的二句表示人物有樣子,「九十九折淨蓮的瀑布」「夜間的陣雨寒天橋」「風的群天城隧道」的後半部二句在人物的心理和行動上添上景物的事的暗示性的意義。「九十九折」是二人的心花樣複雜和錯綜複雜了的那樣,「淨蓮的瀑布」二人沸騰的所想(「瀑布」的印象。「風的群」「天城隧道」暗示與「夜間的陣雨」「寒天橋」在心中下「時雨」象放入一樣的氣憂鬱那個伴隨的「冷紅「蓮」的火焰的印象)和此後的「淨」化的sama,」,象從越發使之擾亂困惑的心的內心深處湧出上的戀慕心和,那樣的戀慕心「天城隧道」很暗地從象深的隧道一樣的心深處冷的感情一樣地刮起的事。
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