・・・歌詞あるいは歌われざる詩・・・




2001/10/29《仮想状況》
 今回は「夜桜お七」である。作詞は林あまり,作曲は三木たかし,歌は坂本冬美である。
 まずこの歌の主人公,夜桜お七とはどういう女性であろうか?。以前の東映やくざ映画の女主人公,緋牡丹のお竜さん流の二つ名を持っているから,やくざに近い存在なのであろう。夜桜は,ライトアップされた夜桜の美しさを借り,また夜桜の坂本さんが黒地に白の桜の花を刺繍した着物姿(すてき!(笑))で歌っていたから,そういうビジュアル的なイメージで付けたのであろう。
 問題はお七のほうにある。これはおそらく八百屋お七の説話のイメージを借りたのである。その説話の基本設定は次のようなものである。
 江戸の本郷だか駒込だかの八百屋の娘お七は1682年12月の天和の大火で焼け出され,一家で菩提寺の円乗寺へ避難したが、そこで,お七はある美しい小姓(もちろん男)と出会う。その小姓の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁になり,互いに思い合う仲になってゆく。翌年正月新しい自宅にお七一家は戻るが,お七はその小姓のことが忘れられずに悶々とし、火事になればまた会えると思い込み,自宅に放火(付け火)をする。ただし,火をつけたものの怖くなり,自ら火の見櫓に登って半鐘を叩き,その結果,実害のないボヤで消し止められたという。しかし,お七は放火の大罪(たとえボヤでも)で捕らえられ、取り調べの奉行がその若さを憐れんで年少者は罪一等を減じるという規定を使いたいと思い、お七に「その方は15であろう?」と謎をかけたが、純粋ないし世間知らずのお七はその意味を解せず「いいえ16でございます」と正直に答えるばかりで,ついに1683年3月鈴が森で火あぶりの刑にされた。見せしめのために遺体は三日間さらしものになったという。恋のためのいちずな行動だったこと、わずか十六歳の少女でありながら,火あぶりという極刑に処せられたことから江戸庶民の同情をかい、お七は 井原西鶴の「好色五人女」、紀海音の浄瑠璃「八百屋お七」,歌舞伎「お七歌祭文」などにまで登場することになったのだそうだ。
 また,円乗寺の本堂前に「俗名八百屋お七 妙栄禅定尼 天和3癸亥年3月29日」と刻まれた丸い小さな墓があり、今でも訪れる人は絶えないそうである。また,噂によると,恋愛に何より大切なのは恋する情熱だそうで,しかも,実は今の女性に一番欠けているのは、この情熱なのだそうである。そこで「お七の情熱」をいただきにおおぜいの女性がお参りに来るのだという。しかし,恋人に会いたいといって放火しちゃいかんのう。
 作詞の林あまりさんも,この「お七の情熱」のイメージを重ねたかったのだと思う。ただし,この歌には,フェミニストの嫌う「始めての男が忘れられなかった女」というお七説話の原型は含まれていない。あるいはお七の身体が,ファーストセックスから口淫矢のごとし,墓の上や本堂床下などデンジャラス・ゾーンにおける突発的,野獣的性交の失神性によって,その小姓を欲望したのかも知れないが,そういう観点はこの歌にはない。
 逆にこの女主人公は,男との離反に残る傷跡を味わいながら,その離反への未練を毅然として鮮やかに断念する女である。これは坂本冬美さんの歌う姿,面構えにもぴったりである。かっこいい!(笑)
 地を蹴って人生を歩む夜桜お七さんの「赤い鼻緒がぷつりと切れた」。ちょっとした人生の躓きだが,誰も助けてくれはしない。その男は去ったし,代わりの男もいないし,いや友さえもいないのである。「すげてくれる手ありゃしない」なのである。彼女は男に「置いてけ堀を」食らったが,それを瞬時に「けとばして 駆けだす」。たとえ裸足の足の「指に血がにじむ」とも。下駄なんかなくたっていい。そして,「血がにじむ」傷の痛さがむしろ気持ちいいのである。
 「いつまで待っても来ぬひとと 死んだひととは おなじこと」はもともと林あまりさんの短歌の一部だが,人間関係上の死(別離)と生理的な死(死別)は同じなのである。大好きな人の離反は,個人にとってその人の生理的な死に等しい。その対象喪失の傷跡を味わえ。しかし同時に,決然とその不在を断念せよ。この歌はそう歌っている。
 「さくら さくら」「さくら さくら はな吹雪 燃えて燃やした肌より白い花 浴びてわたしは 夜桜お七 さくら さくら 弥生の空に さくら さくら はな吹雪」は,美しい夜桜が,その毅然たる断念を成し遂げた主人公を賛美し,祝福しているのである。黒い背景に白い花が乱れ散る。それはあたかもシューベルトの「死と乙女」のように暗く噴出する賛美であり,祝福である。「燃えて燃やした肌より白い花」とはどういうことか?「燃えて燃やした肌」は上気して赤くなるはずではないか?だが,それが白いのは,たぶんこの主人公,夜桜お七の情熱が,そこに個人が充満してはいるが,直撃的に性器的なものであるからである。際どいが,性器が部分化しているのではなく,個人性が充満し一時的に突出した全体となっているのである。主人公は男と性愛している時にも,いつでもひとり,個人であることを全面的に忘れたことがなかった。燃えても燃えても「白い」肌のままの性交とは,白く寒い雪山での,たがいに孤絶して性器だけが露出して燃えたぎっているドギィスタイルの性交にも似ているのだろうか?(知らんけど(笑))。
 「口紅をつけてティッシュをくわえたら 涙が ぽろり もうひとつ ぽろり」。口紅をつけると,男が「熱い唇おしあててきた あの日」を思い出す。しかし,その「あんた」は「もういない」。涙は悲しみの放出だが,ただの放出ではなく,それは塩辛い傷跡の味わいなのである。主人公は「たいした恋じゃなかったと」「肩」を「すくめる」。その「肩に風が吹く」。まあいいか,性愛なんかそんなようなものだわと再び離反への未練を断念する。それは剣術使いの若衆姿の女性のように凛々しいのである。そしてまた桜が夜を乱れ散って,主人公を賛美し,祝福するのである。所詮性愛などというものは,「抱いて抱かれた 二十歳の夢のあと」。自立する女にとっては,性愛は巨大な個人の世界の出店で,抱いたり抱かれたりする年齢相応の一陣の「夢」のようなものなのである。
 漫画「ガラスの仮面」でも八百屋お七は取り上げられているらしい。ライバルのバレリーナ,亜弓とマヤ。亜弓は,燃え上がる火の動き,火のリズム,火のイメージを新体操で演じようとし,マヤは「会いたい、会いたい、せめてもう一度だけ。火事さえおこれば、もう一度おまえに会える。たとえどんな罪を犯しても、会いたい。会いたい会いたい、おまえに…。」と念じて心の火を演じようとしたのだそうだ。そして月影という指導者に,「マヤ。今の八百屋お七、アナタの目には恋の狂気がなかった。…観客が舞台に引きつけられるのは、そこに本物の香りがあるからです。本物の恋をしなさい。」と説教されたのだそうだ。だが,個人を根こそぎ失うような「本物の恋」など,自立せんとする個人にとってははた迷惑なだけなのである。夜桜お七さんは個人を決して失わない。いつでも「さよならあんた」と言う気概を持っている。夜桜お七さんは,生者必滅会者定離への毅然たる断念に支えられて,男女の暫時遭遇の夢に生きているのである。八百屋お七から情熱だけを切り取ってはいけないのだ。いやむしろその愚かさを学ぶべきなのである。

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