目前日期文章:200610 (114)

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近年因懷舊風潮回流,漢式喜餅逐漸受到新人青睞。但早年送餅可是一項大學問,怎麼送、送多少?面子、裡子都要顧!

送餅、吃餅的禮俗,在婚禮中不可少,但你可能不知道,此項習俗是源自古代的「搶婚」,女方因不甘損失而向男方要求賠償,「餅」就是其中的一項賠禮。

民俗專家阮昌銳指出,送餅的禮俗已經有好幾千年了,古代行「納徵(相當於現今的訂婚)」之禮,即由男方扛著大餅到女方家,數量愈多愈顯得體面;現代社會當然不用那麼麻煩,一通電話,餅店送貨到府,且大多先經雙方議定數量,再由女方自行選購喜愛的款式與口味。

不過,早年的農業社會,「吃多少餅」可是面子問題,訂多少盒、送哪家製作的餅?常被親朋好友間拿來議論,看起來好像有點勢利,但也可見喜餅的重要性,除了與眾人分享喜氣,更有向人炫躍「女兒嫁得有多好」的成分在,和「聘金」的重要性不相上下。

■漢式喜餅三款 心意各不同

其實,從喜餅的餅模多半刻有「兩姓合婚」、「囍」字,或是龍鳳呈祥的圖案,可知這項珍貴的禮,就是用來通知親朋好友好事已近的消息;當親友們品嘗著喜餅,不僅吃到可口的餅,也分享著當事人的喜悅。至於吃到的是什麼餅?現代人好像沒那麼在意。

一般大眾似乎對西式喜餅較熟悉,對傳統漢式喜餅則較感陌生。

擁有八十年歷史、以北港大餅聞名的長益食品行老闆施植才對傳統漢式喜餅相當有信心:「漢式喜餅具有份量足、料實在與濃厚在地情感的特色,不像西式喜餅拆掉美麗的包裝外殼,就只剩一些由杏仁、巧克力、核果與麵粉組成的點心而已。」

傳統漢式喜餅大致可分為「盒仔餅」、「大餅」與「對餅」三種。所謂「盒仔餅」,是指一盒六個漢餅的形式,每個約重六兩;早期口味變化不多,多為一盒三款六個,有錢一點的人家才做六款,現今已無此門檻限制,完全依客人喜好自行搭配。不過大致離不開棗泥核桃、滷肉豆沙、蓮蓉、烏豆沙蛋黃、鳳梨酥、冬瓜肉、咖哩等口味。

「大餅」又稱為「日頭餅」,是一大塊圓形上灑芝麻、論斤計重的禮餅,早期農業社會認為「大」有面子,因此中南部訂製二斤以上的大餅時有耳聞,且數量都以百來計算。

「對餅」顧名思義就是以兩個大餅為一組的禮盒,喻有「永結同心」之意,早期送餅最流行這種形式。

■怎麼送、吃多少?面子問題

至於該怎麼送?送什麼餅?即使在台灣,各地也略有不同。施植才表示,以北部禮來說,如果是至親好友,除了「盒仔餅」,多半還加上一個「大餅」;如果只有普通交情,則只送個「大餅」分沾喜氣,這也意味著收到餅的人不需要包紅包添妝。因此,當你收到喜餅時,可要惦惦斤兩,別會錯意才好。

而雲林地區則以送「對餅」為多,更早期還會再加上一個「凸餅」,現已不多見。土庫和興餅店的林源和表示,近一兩年對餅訂單有漸多的趨勢,多為一斤二個一組,比較不時興北部大(盒仔餅)加小(大餅)的組合方式。

可見「送餅」這回事,學問還真不少。早期農業社會人情往來密切、講究禮數,往往應付一個村子的喜餅就可能訂上千份。淡水老字號三協成餅店老闆李志仁透露,早年對岸的八里坌便有「喜餅送全村」的習俗,因此淡水街上常流行一句「娶某不娶八里坌」的俗諺,說明想娶八里坌女孩為妻的人,可別自不量力。

北港長益食品行施植才也表示,店內曾有一次訂購4000斤喜餅、以2000盒作對餅的案例。由此可知,喜餅訂量之大,往往考驗著男方的經濟能力,若有人問:「你家嫁查某仔,吃幾斤餅?」說白了就是想藉此衡量男方的家境富裕與否。

近年懷舊風潮回流,講究真材實料的漢式喜餅又逐漸受到青睞,甚至也有人將大餅當成零食享用,如淡水的新建成餅店,除了供應婚禮消費外,上門的還包括一般觀光客。

高雄知名的舊振南餅店一貫主打「六色餅」,強調餅大、盒大的氣派禮盒組合,近來更迎合現代人低油、低脂、少糖的飲食標準,為傳統漢式喜餅帶入健康概念。

可見送餅、收餅、吃餅之間,隱含著許多繁文縟節、人情世故,當人們品嘗著餅的美味的同時,除了祝福新人、感念製餅師傅的巧思之外,或許也會有所了悟:「結婚,原來是要付出這麼大的代價!」

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化妝品圈在名媛貴婦熱之後,最新興起的是名媛與企業第2代、第3代,紛紛將原本愛用的產品投入市場當起老闆,包括三二行館董座的邱泰翰引進美國dermalogica;有外商背景的林昭慧則引進法國富裕名媛喜愛的高檔純天然有機品牌PATYKA…… 賣的就是自己圈子內的名媛好友們,並集中在年輕白金貴婦雲集的微風廣場。

名媛定義與存在感隨時在改變,只會參加派對秀買多昂貴服裝、有幾雙鞋…並不會受到各界與家族重視,有自己的專業和事業才易受肯定;讓許多原本可當閒閒美代子的名媛們,紛拿事業當美麗的胸章,下海證明自己有兩把刷子。

也許就因都是企業圈的公主王子,使這些名牌負責人,都將第一個專櫃設在好友孫芸芸經營的微風廣場彼此幫襯,無形間也使成立初期受限於微風條款,無法引進八大集團品牌的微風,突破2線品牌與本土味品牌侷限,且一樓精品有GUCCI、卡地亞當「門神」,更吸引第2代公主王子牌進駐,使其逐漸微調成「貴婦牌」集中地,包括dermalogica、patyka進駐外,還有學術氣息濃厚的澳洲純品牌 aesop在此成立第一間護膚室、美國貴婦牌chantecialle也將在明年4月成立護膚中心。

三二行館董座邱泰翰代理的dermalogica,由美國專業醫生、美容師等共同研發,其實主要操刀者仍是太座王君怡和好友紅豆食府蔡篤清女友林牧潔,該品牌最有名的就是將臉部分成14區,名為face mapping手部觸診,除五官,還精分到耳區、髮際線甚至領子以上的前胸部位是否老化與阻塞,再以精確的觸診結果安排使用產品,二位嬌貴的名媛老板常解說產品到沙啞。

就像食物鏈般,三二行館善於經營頂級客人,因此前任總經理被美國頂級名牌 chantecaille網羅,看好其經營頂級客層的豐沛人脈關係,準備打入第3代公主圈吸金;也因針對白金級貴婦,因此光其鑽石級面膜50ml要價可達 5600元,訴求的就是普通大眾也許使用是90%的化學成分,但貴婦用的卻是90%純天然高檔成分。

法國名牌patyka台灣負責人林昭慧,亦因朋友圈多半是微風貴客、看好其精品高檔客而選擇微風。原本純天然有機品牌定價就不便宜,但訴求更純淨更高檔純有機的patyka,則追求就算使用有機一樣要很享受,使其成為金字塔客專用的有機品牌,在法國也只在BON MARCHE、春天百貨等精品百貨販賣。光在日本賣最好的100%純天然有機麝香野玫瑰胺瓶,就因用超昂貴的麝香野玫瑰,萃取富含的天然維他命A,取代成本更便宜的生化維他命A,42ml就要價12600元。

已是美侖飯店少奶奶的何如芸引進價格較親切,走紅歐美宛如泰國aveda般天然時尚品牌hanne&thanne,近期包括精油與全球聞名的茶品也陸續引進其華納威秀店。

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Google搜尋引擎小兵立大功,寡佔60億美元廣告市場,eBay、亞馬遜網路書店連番崛起,都是「長尾理論」奏效。「長尾理論」(The long tail)的全新概念是繼「藍海策略」火紅退燒的熱門理論,網路時代來臨,全新的經濟思維也後浪推前浪,《長尾理論》中文版甫由天下文化出版。

「長尾理論」是由《Wired》雜誌總編輯克里斯.安德森(Chris Anderson)在2004年10月提出的全新概念,顛覆傳統「80/20法則」經濟思維,並被美國《Business Week》評選為「2005年最佳概念獎」。今年安德森將理論寫成書後,陸續擠進《華爾街日報》、《紐約時報》及亞馬遜網路書店商業類排行榜,發行逾10 萬冊,中文版近日發行。

《長尾理論》中提及傳統商業認為企業80%的利潤來自20%的暢銷產品。若將同類商品依銷售量高低排列於座標的橫軸,縱軸為銷售量,可繪出一條「長尾」曲線。位於曲線頭部的商品,是銷量傲人的少數暢銷商品;在曲線長尾的部分,則是其他表現平平的商品。過去長尾尾端被企業視為拖油瓶,但現在這些商品卻鹹魚翻身。

企業向來只看重暢銷商品,長尾商品因不具銷售力,備受漠視。網際網路的崛起打破80/20法則,99%的產品都有機會銷售,長尾市場後勢看漲,規模驚人。而Google、eBay等網站都是搭上長尾浪潮的佼佼者,台灣的無名小站、博客來網路書店崛起也可用「長尾」來解釋。

《長尾理論》中文版未推出前,早在台灣博客來網路書店外文館創下銷售佳績,至今仍在外文書排行榜不墜。而「長尾」完全得建立在網路產業上嗎?安德森提出,傳統產業也可在長尾找到生機。博客來網路書店創辦人張天立,也舉出台灣的「台鹽」就利用網路口碑宣傳,開發新的商業利基。未來業餘創作者、數位出版裡的隨需印刷(print-on-demand)都可在長尾市場找到生存之道。

【2006/10/01 民生報】

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喜び悲しみ・・・歩いた道を語ります
 いつのまにか年の瀬になってしまいましたが、この1997年は私にとって、一生忘れられない年になりそうです。
デビュー以来お世話になっていたホリプロから独立したのが年の初め、そして、4月にはデビュー25周年記念コンサートのスタート。
 一年かけて全国を回る計画のこのコンサート、すでに70ヶ所以上を回りましたが、どこへ行っても、超満員のお客さまの温かい拍手や声援にむかえられ、改めてファンの皆さまのありがたさを身にしみて感じています。
 中には、東京、名古屋、大阪、九州と行く先々に駆けつけてくれる方々も大勢いらっしゃいます。皆さん、昔からの私のファンで、ステージからお顔を拝見していると、どなたもついこの間までは若者だったのに、今やリッパな中年。
 ―――皆さんずいぶん年取っちゃったのねェ。
来年は40歳の大台に乗る自分自身をタナにあげ、そう思ったりしますが、同時に、
 ―――ああ、私は歌い手として、この人たちとともにずっと歩いてきたんだ。そうして、いつのまにか25年という歳月がながれたんだ・・・。
 そんな思いが胸の奥からこみあげてきます。
 「その歳月を書いてみませんか?」というお話をいただいた時、文章なんてろくに書いたことがありませんから、初めはとまどってしまいました。実際、お断りしようとも思いました。
 でも、こうして書き始めたのは、作家の水上勉先生が以前おっしゃった言葉を思い出したからです。
             ♪              ♪
 ご存じのように、水上先生はまだ少年の頃にお坊さんになられましたが、日々の修行のひとつに、高僧のあとについて、100人ほどのお坊さんがお経を唱えながら歩く行があったそうです。その行をしながら、少年の水上先生はふと気づきました。
 ―――大勢が一斉に声を出してもただ騒がしいだけで、まわりの人たちの心には届かない。一人がひとりに対してなにかを訴えてこそ、まわりの人も耳を傾ける。
 この思いが、作家になってからも先生の心に宿り、
 「だから、僕は小説を書く時、いつもひとりの人だけに向けて書いているんだよ。」
 やさしい笑顔でそうおっしゃられた時、私はハッと胸をつかれたような気がしました。大勢のお客さんの前で歌う私は、ひとりの人の心の奥深くまで届くように歌っているのだろうか。みんなに受けるような歌い方をしているんじゃないだろうか・・・。
 たったひとりの人に向けて歌う。歌い手としてはそれは、目がさめるような発見でしたが、この文章を書くにあたって思い出したのが、やはり水上先生のその言葉でした。
 ―――そうだ、文章がつたなくともいい。ひとりの読者、あなただけに向かって素直に語りかければいいんだ。そうすれば、私の本当の心が届くかもしれない・・・。
 そう自分自身にいい聞かせながらペンをとったのです。
 水上先生といえば、私には実は”宝物”があるんです。5年前の20周年の時、記念アルバムの題をご相談したところ、色紙に書いてくださったのは「道」という一文字。
 その字を前に私、生意気にも口走ってしまったのです。
 「先生、”道”って地味じゃないですか。”華”とか”雅”とかのほうが・・・・」
すると先生は静かにこうおっしゃったのです。
 「私はあなたを花より、草にたとえたいな。草は花よりもっと土に根をおろし、強くたくましい、そして可憐だよね。あなたは20年、この道を歩いてきた、そしてこれからも歩いていくんでしょ。道には石ころが転がっていたり、花が咲いていたりいろんなことがあって、道草をを食うこともある。でも、それはとても素敵なことなんだよ」
 これで”道”という言葉がすっかり好きになり、先生にいただいた色紙は私の大事な宝物になっています。
 それから5年、今度は先生に「行」という字をいただきました。「道」を「行」く。うまずたゆまず、でも焦ることなく自分の道を一歩一歩行きなさい――そんな先生の励ましが字の奥から聞こえてくるようです。
               ♪              ♪
 この25年、歌を通して様々な女性を表現してきました。耐える女、情念の女、愛らしい女・・・・でもそれは、別々の女性ではなく、私自身をふくめあらゆる女性が女性が内に秘めているものだとおもいます。
 14歳でデビュー、順風ばかりではありませんでした。下積みも経験しましたし、私生活では結婚、出産、離婚と言葉にできないほどの喜びや悲しみを味わいました。そんなひとりの人間としての変化や成長が投影されたのが、私の歌かもしれません。その意味で私にとって、歌は人生そのもののような気がします。
 この3月、25周年記念として、5枚のシングルを同時発売しました。5枚10曲、つまり10人の名だたる作詞家・作曲家の先生方が私のためにオリジナルをプレゼントして下さったのです。
 詞も曲もまったく色合いが異なる10曲を歌う私は、10人の女を演じているともいえますし、自分の中の女の要素をすべてさらけ出しているともいえます。
 たとえばメインで歌っている『歌麿』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)には、厳しい恋が描かれています。「火を抱いて闇の中」「刃を渡るきつい恋だから」・・・・そんなフレーズと切り結ぶように私も全身でぶつかって歌い、それを和楽器が劇的に仕上げています。すごく大きな歌で、私の代表作になるような予感もあるほどです。
 もうすぐ年末、恒例の紅白歌合戦では、『歌麿』と同じ作詞・作曲家による名作『天城越え』を歌います。そして新しい年の3月いっぱいまで全国コンサートを続け、充実した25周年をしめくくりたいと思っています。
 自分の道を歩いて得る友を「道友」と呼ぶのだそうです。25年の歳月を振り返りつつ歩くこの連載、あなたも「道友」になってくださいね。
  
こころの詩を・・・石川さゆりVol-1




心一つに燃えた「天城越え」秘話 
明けましておめでとうございます。よいお年を迎えられたこととおもいます。
 私もこの一月末で40歳、不惑の年です。果たして惑うことなくやっていけるのかどうか・・・たとえ惑うことがあっても、自分の道を信じつつ歩いていこう、改めてそんな誓いを立てた元旦でした。
 ところで、大晦日のNHK紅白歌合戦、ご覧になっていただけましたか?
私にとっては20回目の出場となる記念の舞台でしたが、いっしょにステージに立つ歌い手の皆さんがどんどん若くなっているのを、年毎に感じさせられます。年齢だけでなく、歌そのものもどんどん変わっていってます。
 「歌は世につれ」といいますから、歌の世界の変化もやむをえないことでしょう。でも、どんなに時代が変わっても、そうたやすく変わらないものもあるはずです。
 たとえば、人の心。親子の絆、夫婦愛、男と女の恋や別れ・・・・そこにこめられた喜びや悲しみ、いとおしさ、切なさ、つらさ、苦しさ、迷い、未練・・・・これらはいつになってもそう変わるものとは思えません。
 ただ、歌という形をとるとき、その表現方法が時代や年齢に応じて変わってくるのではないでしょうか。その意味では、若い人たちの歌も、時代という枠の中で、自分たちの心を自分なりに表現しているのかもしれませんね。
                            ♪
プロの芸を見せてくれよ!
 20回目の紅白歌合戦で私は『天城越え』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)を歌いました。11年前にも歌ったこの歌は、初出場のときの『津軽海峡・冬景色』と並んで、私の代表曲と呼ばれ、ファンの方たちにも最も親しまれています。
親しまれると同時に、『天城越え』についてよく耳にするのは「いざカラオケで歌うとなると、すごく難しい歌」という感想です。
 そんな感想を聞くたび、私自身、「そうだろうなァ」と思います。というのも、この歌をいただいたとき、作詞の吉岡先生は、まず、こうおっしゃったのです。
 「カラオケの人がとても歌えないような、これがプロの芸だ、というものを、この歌で見せてくれよ」
カラオケ好きの方には、ずいぶん意地悪な言葉かもしれませんが、先生の真意はもちろん、意地悪にあるわけではありません。
 演歌がすこし元気のないこの時代、いままでにない歌を作ろう、そのために歌い手の私も、自分の持てる力を全部そそぎこめという意味です。
 実際、この『天城越え』という歌にかける先生の意気込みはすごいものでしたが、それは吉岡先生だけじゃなく、作曲の弦先生、ディレクターの中村一好さん、みんな、同じでした。
 歌の舞台になる伊豆の宿に皆さんでこもり、議論を重ね想いを練ったあげく、出た結論は、「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」―――なんともコワい話だったのです。
 可愛想なのは、そんな”密約”を知る由もない私、できあがった歌詞を見せられ、呆然としてしまいました。
 新しい歌詞をいただくたびに、それをバラバラにほぐしながら、自分なりに主人公の女性をイメージし、それを組み立てていくのが、私のやり方です。
 ところが、目の前に突きつけられたのは、夫の不倫現場に踏み込み、修羅場を演じる妻がテーマの歌詞・・・・中でもあとですっかり有名になったフレーズ、「誰かにとられるくらいなら あなたを殺していいですか」
―――こんな言葉を口にする女性を、いったいどうイメージすればいいのだろう。とても私には歌えない・・・・
 といって、プロの歌い手である以上、いただいた歌を投げ出すわけにはいきません。数え切れないほど歌詞を読み返しながら、懸命にその世界に入っていこうとしました。一方でそれは、女としての自分の無意識の部分、闇の領域に入り込むような作業・・・・


「紅白のトリ」をとらせるぞ
 『天城越え』の歌詞と苦闘したのは、私だけではありませんでした。作曲の弦先生も同じだったのです。あとで知ったことですが、当時、作曲家に転身してまもなかった先生は、この歌に作曲家としてのご自身の将来をかけておられたのです。
 中村ディレクターもまた、「この歌でさゆりに、初の紅白のトリをとらせてみせる」という意気込みに燃え、和楽器を取り入れるなど、工夫に工夫を重ねていました。
 こういう全員の思いが結集してできあがったのが、昭和の名曲のひとつともいわれる『天城越え』だったのです。
いま思い出してみても、あのときの全員の熱い思い、それはすさまじいものでした。たがいに力を合わせる反面、これはギリギリの闘いです。最高の表現を得るために、それぞれがたがいに渾身の力をふり絞るのです。
 ですから歌手にとって、作詞家、作曲家、ディレクター、さらに編曲の先生もふくめ、皆さん実に心強いチームメイトであると同時に、手強い闘い相手でもあるのです。
 そういう相手に恵まれた私は、本当に幸せな歌い手、しみじみそう思います。
 こんなプロセスを経て生まれた『天城越え』ですが、私自身は「カラオケの人が歌えないような」歌い方を意識して歌っているわけではありません。
 ほかの歌も同じですが、自分の中のイメージをいっぱいにふくらませ、曲にこめらられた思いを聴いてくださる方に伝えようと、ひたすら念じて歌っています。
 余談ですが、「『天城越え』を歌う会」というのがあるんです。女優の浅丘ルリ子さん、加賀まりこさんら、この歌が好きな方たちの集まりです。私も一度お招きいただきましたが、どなたもご自分の『天城越え』にしていらっしゃり、逆に教えられたものでした。
 歌は世に出たときから、独り立ちします。あなたも、難しいなどと思わず、どうぞ、歌ってみてくださいね。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-2


島倉千代子さんにあこがれて・・・
ふるさ
と―――だれもが心に秘めている自分だけの”心のふるさと”。
 地方から東京や大阪など大都会に出てきた人たちはもちろん、生まれ育った土地にずっと住む人にとっても、心のふるさとというものがあるのではないでしょうか。
 幼いころの自分をつつんでいた自然や人との触れ合い、町のたたずまい、お母さんの手料理・・・・そういう何でもないものが、本人にとってはかけがえのない心のふるさと、そんな気がします。
 私のふるさとは、熊本県飽託郡というところです。今はすっかり熊本市のベッドタウンになっていますが、当時は一面に田園が広がるのどかな農業地帯でした。野菜や果物の栽培が盛んで、「肥後でこ茄子」は今も全国的に知られる特産物です。
 昭和33年(1958)1月30日、長女として生まれた私は、幼稚園のころまでは父の実家に住んでいました。
 家の前がバスの停留所で、私の家でタバコやバスの切符を売っていました。その売り場というのが、テレビの画面のような小さな四角の窓口になっていたんです。
 で、二、三歳の私がそこに立つと、ちょうど顔から胸のあたりまでが外から見えるわけです。つまり、テレビ画面に映っている感じですね。
 この窓口が、私の歌手への道のスタートだったのです。

バス停前でミニコンサート
 バスの発車時刻が近づき、目の前のバス停に人が並び始めると、店番をしている祖母が幼児の私を呼び、
 「ほら、歌ってごらん」
 といいます。司会ですね。呼ばれた私はとことこ歩いて窓口の前に立ち、胸を張って歌い出します。歌は決まって島倉千代子さんの「恋しているんだもン」。二、三歳の私にとって、これが最初から最後まで歌える唯一のレパートリーだったのです。
 母が島倉さんの大ファン、しょっちゅうこの歌を口ずさんでいましたから、私もごく自然に覚えたのでしょう。やがて、祖母に教わった『カチューシャの唄』とか『船頭小唄』、『かえり舟』などがレパートリーに加わりました。
 バスの発車時刻のたびに開かれるこのミニコンサート、いつしか近所の名物になってしまい、豆歌手の私が窓口に立つと、バスに乗らない人たちまで集まってきて、やんやの拍手喝采、リクエストやアンコールの声もかかり、私はいい気持ちになって歌いまくったものです。
 とはいっても、実際のところ、このころの記憶はありません。記憶がないのに、そうして歌っている幼い自分自身が、まるで絵に描いたようにくっきりと見えるのです。
 祖母や母に何度も聞かされているうち、そうなったのでしょうが、これが歌い手としての私の、いわゆる原風景といえるかもしれません。
 小学校へ上がる時、母の実家の飽田町へ移りました。父は熊本市の交通局に勤めていましたが、母が実家の八百屋を継ぐことになったのです。
 この母はとにかく元気な働き者、朝早くから車を運転し市場通いです。小学校3年生の時、私の下に弟が生まれてからは私が母親代わりで、毎朝ミルクをあげ、おむつを取り替えたりしたものです。
 働き者の母は歌も大好きでレコードも沢山持っていました。幼児期の歌の”先生”が祖母なら、それ以後は母とでもいえるでしょうか。とくに小学2年の時、熊本市で開かれた島倉千代子さんのコンサートへ母に連れて行かれ、それが私にとって、歌との運命的な出会いとなったのです。
 生まれて初めて見る歌謡ショー、幕が上がった瞬間から私の目はステージに釘付けになってしまいました。そこはまったく別世界でした。
 色とりどりの鮮やかなライトにつつまれ、着物姿でマイク片手に立つ島倉さん。その紫色の着物をいまもはっきりと覚えているほどです。
 ―――私もあそこに立ち、ライトを浴びて歌いたい。
 そんな思いが胸にきざしたのです。はたから見れば、子供っぽく他愛ないあこがれだったのでしょうが、幼いなりに私は真剣でした。「歌手になりたい」が、いつしか「歌手になる。きっとなる」という私だけの秘めた”決意”になっていったのです。

ふるさとは私の心の中に・・・ 
小学5年のとき、熊本から横浜に引っ越すことになりました。父の職場が縮小され、両親は私と弟を連れ、都会に出たのです。
 大都会に出ることは、歌手を夢見ていた私にとって、その夢に一歩近つ`くような喜びでした。でも、一方では、自分を育んでくれたふるさととの別れという寂しさ、つらさもありました。
 そのころの日本は、高度経済成長が始まり、何もかもがものすごい勢いで変貌していました。横浜という大都会に移ってみると、それをまざまざと目のあたりにします。
 昼夜となく煙を吐く巨大な工場群、林立するビル、おびただしい車の洪水・・・・ついこのあいだまで、少女の私が犬を連れ走り回っていた熊本の田舎とくらべると、同じ日本とは思えないほどです。
 私はふるさとが恋しくてしかたありませんでした。豊かな自然や静かな町のたたずまい、人との触れ合いのぬくもり・・・・失ったものの大きさに初めて気付かされる思いでした。
 生まれ故郷を出てもう30年になりますが、7年ほど前、飽田町が熊本市に合併されるとき、私も記念イベントに招かれました。
 その席で私は、
 「町はなくなっても、煙突の立つ工場地帯にはなってほしくありません」
そんなお話をしました。故郷は心のふるさととして、今も私の中で生きています。
 のちに、『20世紀の名曲たち』というシリーズで、過去のすばらしい歌を自分なりに歌い直す作業を始めたのも、日本人の心のふるさとを掘り起こし、それをきちんと残しておきたいという思いがあったからです。
 日本の女性を歌うオリジナルと並び、このシリーズ、私のライフワークともなりそうです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-3




牛乳配達をしながら「歌の勉強」
 小学5年生の時、故郷の熊本から横浜へ引っ越してきた私は、6年生になってから歌のレッスンに通うようになりました。
 熊本で、母に連れられ島倉千代子さんのコンサートを見て以来歌手への夢がめばえ、年を追うごとにその夢がふくらんでいたのです。
 当時、父は運送会社勤め、母は保母として働き、生活は楽とはいえませんでしたが、「歌を勉強したい」という私の願いを両親ともに許してくれました。母は「最後まで投げ出さずにがんばるのよ」と励ましてくれましたが、こう釘をさされたんです。
 「塾の月謝は払ってあげるけど、歌の月謝はなんとか自分でやってみなさい」
で、中学生になってからアルバイトです。何のバイトか分かります?これがなんと牛乳配達。というのも、中学生ができるバイトというと、新聞配達か牛乳配達くらいで、新聞は日曜日も休みなしですが、牛乳だと土曜日に2本配れば日曜日が休めますから、歌のレッスンにも通えるというわけです。
 でも牛乳って、毎朝5時には全部配り終えてなくちゃいけないんです。まだ真っ暗なうちに起き、牛乳瓶を40~50本も詰め込んだ布袋をかかえて、一軒一軒配るわけです。おまけに私の担当地域が団地、重い袋を引きずるように5階まで歩いて上がるのです。女子中学生には、けっこうハードな仕事です。
 時には寝坊して、母に手伝ってもらったりしましたが、決して休みませんでした。これも歌のためと、最後までネをあげなかったんですから、われながらエライ!
 そんなことをしながらレッスンに励んでいた私に、思いがけず歌手への道が開けたのは中学3年の時でした。


こども歌謡大会代打出場で優勝 
その頃、フジテレビの夏休み企画に「こども歌謡選手権」という番組があり、私の歌友だちが応募していたんです。ところが大会が夏休み中で、彼女は田舎に帰るので出られないというのです。
 「じゃ、私が代わりに」
と、テレビ局に出かけ、怖いもの知らず、彼女あての応募ハガキの宛名を消し、自分の名前を書き、受付に・・・・さすがにドキドキしましたが、なぜかすんなり通ってしまったのです。
 それからあとは、もうあれよあれよという間、予選に合格し、チャンピオン大会に出場、『船頭小唄』を歌って優勝――司会者に「おめでとうございます!」といわれた時は、夢でも見ている感じ。
 そこへ、今度はフジテレビの連続ドラマ出演の話です。今時のタレント志望の若い子なら跳び上がって喜ぶのでしょうが、その時の私は歌手しか頭にありません。
 「ドラマ?私、歌手になりたいんです」
 「だけど、ドラマはいろいろ勉強になるよ」
こうして、訳が分からないまま、石坂洋次郎原作・岡田太郎演出「光る海」にレギュラー出演しました。共演者は沖雅也さん、島田陽子さん、中野良子さん、芦田伸介さんなどすごい顔ぶれで、私は沖雅也さんの妹役でした。
 14歳の芸能界デビュー、スタジオで見るもの聞くものすべて初めて、ひたすら言われるままに演じていましたが、果たして演じていたのか、地のままだったのか・・・・。
 このドラマは半年間続きましたが、実はその間も例の牛乳配達をまだやっていたんです。で、いつものように団地で配っている時、ある家の奥さんが、
 「あら、あなた、どこかで見たことあるわ。あ、テレビに出てるでしょ、あなた?」
別に悪いことじゃないのですから、「ハイ」と答えればいいものを、私は、
 「い、いいえ、違います」
そういって、逃げ帰ったのです。恥ずかしいせいもありましたが、やはり女優じゃなく、歌手として認められたいという気持ちがあったんですね。それほど私の中で、歌手への夢は強かったのです。


森昌子や山口百恵と一緒に合宿
 ちょうどその頃、歌の先生に紹介していただき、レコード会社へひとりで訪ねて行ったこともあります。あいにく紹介してもらった相手の方は留守、でも、そのまま帰るのがもったいなく、ひとり椅子に座って社内の雰囲気をうかがっていました。
 昭和47年(1972)の当時、歌謡曲の全盛時代、壁には大勢の歌手の新曲ポスターがずらりと並び、沢山の社員の人たちが威勢のいい口調で電話をかけたり、忙しそうに走り回っったりしていました。さらには、テレビの歌番組でいつも見ている有名歌手の方が、「おはようございます」とにこやかに挨拶して通り過ぎたり・・・・。
―――そうかァ、こういうところで歌が作られてるんだ。ああ、私も早く歌手になりたい・・・・。
 そんな思いにかられたものでした。
 ホリプロからスカウトされたのは、ドラマ出演の最中でした。ホリプロといえば、歌謡界の大手プロダクション、願ってもない幸運です。
―――これで、私もあこがれの歌手になれる!
 天にものぼるような気持ちでしたが、その半面、なんだか現実感がなく、ホントかなァ・・・・そんな感じ。長いあいだ夢見ていたものがいざ実現するとなると、かえって信じられないものなんですね。
 無理もありません。私の娘がもうすぐ中学3年になりますが、その年頃です。大人のようで子供、子供のようで大人という微妙な年齢ですね。
 こうしてホリプロに入った私は、デビューしたばかりの森昌子ちゃん、私のすぐあとに入ってきた山口百恵ちゃんたちと顔を合わせました。
 みんな同じ年頃、海や山での合宿なんかの時は、みんなでふざけ回って遊んだり、感想文を書くのにたがいに頭をひねったものでした。
 そして昭和48年3月、『かくれんぼ』(山上路夫作詞・猪俣公章作曲)で、いよいよ歌手デビューすることになったのです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-4




「スタ誕3人娘」に追いつくぞ!
 生まれて初めていただいた自分の歌、詩も曲も私のために書かれた一生に一度の歌、それがデビュー曲です。
 『かくれんぼ』の譜面を初めて手にした時の感動は、25年たった今も、鮮明に覚えています。
 ―――これが私の歌なんだ、歌手になったんだ・・・・!
 胸の底から、そんな思いがこみあげてきたものでした。
 この歌は、ほのぼのとした画風で有名な故谷内六郎さん、その絵の世界を歌に表現するという企画でつくられました。
 レコード会社は日本コロムビアでしたが、当時デビューする新人歌手には、キャッチフレーズがつけられる習わしで、私についたのは「コロムビア・プリンセス」。
 「コロムビア・プリンセス石川さゆり」と自分でつぶやいてみて、なんだかおかしくなりました。プリンセスがついこの間まで牛乳配達をしてたなんて・・・・。
 喜びの半面、不安も大きいのがデビュー曲です。無事にレコーディングも終わり、発売は昭和48年(1973)3月25日と決まりましたが、それからが不安でした。その日に間違いなく自分のレコードがお店に並ぶのだろうか、ちょっと怖いような思いで、あと30日、あと25日・・・・と、カレンダーを塗りつぶしては待ち焦がれながらも、
 ―――もし、だれか会社の偉い人が「あのレコード、発売は止めにしよう」などといい出したら・・・・。
 そんな空想をしては、15歳の胸を痛めたものでした。
 そしてその日、ドキドキしながらレコード屋さんに入っていきました。私の目に真っ先に飛び込んできたのが、レコードジャケットの中、純白の帽子をかぶって笑う私の写真。
 ―――やった、やったァ!
 まわりに人がいなければ、そう叫んで跳び上がりたい気持ちでした。


どうして私だけが置いてけぼり
 デビューと同時に、キャンペーンが始まりました。まもなく東京の堀越学園高校に進学した私は、横浜の自宅から通うのは大変だからと、ホリプロの現在の副社長さんの家に住むことになりました。
 はじめて両親のもとを離れ、他人の家で暮らすのは心細いものでしたが、これも歌のため、それに会社のほうもこんなに気使ってくれてるんだから・・・・そう、自分にいい聞かせたものでした。
 当時ホリプロでは、同じ年の3人の新人を「ホリプロ3人娘」として売り出す計画を立てていました。森昌子ちゃん、私、山口百恵ちゃんの順です。いわば同じ事務所のライバルですが、みんなまだ14、15歳、ライバル意識より遊び仲間の気分でした。
 計画通りにデビューしたものの、そこから少し様子が変わってきました。昌子ちゃんのデビュー曲が大ヒットし、その年の紅白歌合戦に最年少で初出場、翌年には百恵ちゃんも紅白出場。
 同じころに、別の事務所から桜田淳子ちゃん、アグネス・チャンさんなどもデビューし、脚光をあびていました。
ところが、私のデビュー曲はある程度売れたものの、とても大ヒットとはいえません。「ホリプロ3人娘」に乗り遅れたばかりか、日本テレビでは「スタ誕3人娘」として、昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんがぐんぐん人気をあげていったのです。
 私ひとり置いてけぼり・・・・「鬼の私はさがしてた」というフレーズが『かくれんぼ』にありますが、鬼ごっこをしているうち、私だけがはぐれてしまったような感じでした。
 おまけに、当時はアイドル歌手が沢山出ていて、テレビのオーディションなどで、あまり歌が上手とは思えない新人が合格する、そんな光景を見ると、
 ―――芸能界は実力だけで動いてるんじゃないんだ・・・・。
 15歳で気付くには残酷すぎる事実を思い知らされたものでした。でも、心の底から歌が好きな私は、一生懸命歌うしかありませんでした。


出席率バツグンの”劣等高校生”
 2曲、3曲、4曲・・・・と、つぎつぎに出すレコードは、そこそこに売れても相変わらず大ヒットは出ません。
8曲目の『あなたの私』(千家和也作詞・市川昭介作曲)の時は、市川先生のお宅へレッスンに通い、初めてファルセット(裏声)を入れるなど、工夫もしましたが、やはり今ひとつです。
 当時、音楽記者の方たちに「石川さゆりの歌唱力は申し分ないのだが・・・・」というような批評をよくされました。ヒット曲は上手下手とは別に、時代の風に乗ることが必要です。あのころの私は、それに乗りきれなかった、今になるとそれがよく理解できます。
 いつのまにか、デビュー3年がたっていました。私の通っていた堀越学園高校芸能コースにはタレントや歌手が多く、生徒同士では出席率が悪い者ほど”優等生”視されていたものです。売れっ子ほど学校に来られないわけです。そんな中で私は出席率がよく、従って”劣等生”・・・・。
 それでなくとも多感な青春期、いやでも落ち込み傷つく私をいつも支えてくれたのは母でした。
「あなたの歌のうまさは、だれより私が分かってる。大丈夫だよ、そのうちきっとみんな聴いてくれるから。必ずそうなるよ」
 働き者で楽天的な母は、にこにこ笑いながらそういうのです。母はまた、洋裁が得意で、デビューしたてのころは一生懸命に衣裳を縫ってくれたりしました。こんな母にどれほど励まされたことか。
 それと、スタッフも大きな支えでした。
 「さゆりちゃんの歌は演歌っぽいから、本当のよさがなかなか分からない。でも、いつかみんな分かってくれる」
毎週のようにベストテン番組に出演し、新幹線のように突っ走る昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんを横目に、ひとり自分にこう言い聞かせていたものでした。
「たとえ鈍行電車でも、いつか大ヒットを出すまではやめないゾ。大ヒットを出したら、歌手をやめてやる!」

こころの詩を・・・石川さゆりVol-5


新宿コマで初のワンマンショー
 歌手にとって、デビューのつぎに晴れがましい舞台といえば、なんといってもワンマンショー。自分だけでお客さまを呼び、自分の歌を中心にステージを作る。新人歌手ならだれもが夢見るものです。
 私の初めてのワンマンショーは昭和51年(1976)3月末、新宿コマ劇場でした。デビューして3年、まだ大ヒットもなく紅白歌合戦出場も果たしていませんでしたが、中ヒットはいくつかあり、それでワンマンショーを開いていただいたのです。
 この晴れのステージには、同じホリプロの森昌子さん、山口百恵さんが友情出演してくださいましたが、なにより私が感激したのは島倉千代子さんの応援出演でした。小学年のとき、郷里の熊本で島倉さんのコンサートを見て歌手をめざすことになった私が、その島倉さんと同じステージに立つのです。
 島倉さんは日本コロムビアの大先輩でもありますが、当時のコロムビアには、美空ひばりさん、島倉さん、都はるみさんをはじめ歌謡界のスターが歌手がそれこそキラ星のごとくいらっしゃいました。
 そういう先輩の中でも島倉さんには、とくに妹のように可愛がっていただきました。歌手といってもまだ子供の私は、お化粧のしかたから教えていただいたものです。それだけじゃなく、
「つらいことがあっても、それを無駄にしないで自分の身につけていくのよ」
 そんなふうに、歌と人生の先輩としてのアドバイスもいただきました。大ヒットが出ず悩んでいた私には、それがとても大きな励みでした。


島倉大先輩から振り袖の贈り物
 島倉先輩にいただいたものといえば、ステージ衣裳の着物もあります。小学生のときに見た島倉さんの着物の美しさは今も覚えていますが、そんな話をした私に、「さゆりちゃん、よかったらこれ、着なさい」と素晴らしい振り袖をくださったのです。舞台で着てらしたものですが、あこがれだった大先輩の着物に袖を通すことができる、こんなうれしいことはありませんでした。
 それに、着物ってすごく高価ですから新人のころはなかなかきることができません。私自身、最初のころはそうそう着物が作れなくて、ウールの安いものをずっと着てたりしてたんですね。そこに、あこがれの島倉さんから素晴らしいプレゼントだったのです。
 話は、はるか後年に飛びますが、数年前私は「演歌ルネッサンス」というコンテストのゲストとして呼ばれたことがあります。これは吉岡治先生がまだ陽の当たらない新人の歌い手のために、瀬戸内海の小豆島で毎年開いている催しですが、一生懸命に歌う新人の皆さんを見ながら、ふと昔の自分が胸をよぎり、
 ―――私にできることは何だろう・・・・そうだ、着物をプレゼントしよう。
 かって先輩にしていただいた喜びを、今度は後輩の方に差し上げたい、そう思ったのです。でも、自分の着物を差し上げるなど、変に思われないだろうかと吉岡先生にご相談したところ、「いやァ、それはいいね。励みになるよ」
 というわけで、優勝者の方に着物をプレゼントさせていただきました。目録を差し上げながら、遠い日の自分自身の感激を思い出したりしたものでした。


歌い手も震える阿久悠先生の詞
 話がずいぶん飛んでしまいましたが、私の初のワンマンショーは、島倉さんたちの応援もあって成功のうちに終わりました。
 このワンマンショーの日、私は堀越学園高校を卒業しました。本当は大学へ進んでもっと勉強がしたく、実はいろんな大学の受験資料なども取り寄せていたんです。でも、周囲の事情でそれは無理、また私自身、歌手として中途半端なままでした。
 「これが石川さゆりの歌」と呼ばれるような大きなヒット曲を出したい、そのためにはもう学生気分はふっ切らなくちゃ、そう思いながら社会人第一歩を踏み出したのです。
 そして、卒業の翌日にリリースしたレコードが『十九の純情』(阿久悠作詞・三木たかし作曲)でした。この歌を皮切りに『あいあい傘』『花供養』と、阿久先生、三木先生のコンビによる歌が続きました。
 阿久先生とはそれまで「スター誕生」などの番組でご一緒してましたが、私たち少女歌手にとっては”寡黙な怖いお父さん”っていう感じでしたから、とてもこちらから声をかけることなんてできませんでした。
 当時から先生はいろんな歌い手に詞を書いてらっしゃいましたが、いつだったか岩崎宏美ちゃんが、
 「阿久先生って、どうしてこんなに私たちのこと、よく分かるのかしら。レコーディングしながら私、思わず涙が出ちゃった」
 そんなことをいったことがあります。実際、多感な少女の思いや胸のうちを、まるですぐ傍で見ていたような詞なんですね。それがろくにお喋りもしたことのない先生から生まれるのですから、フシギでしかたありませんでした。
 私も素敵な詞を書いていただきました。最初のレコーディングの時、阿久先生は姿をお見せになりませんでしたが、それ以後もずっと同じです。「歌い手の現場には立ち会わない」、これが作詞家としての先生のスタイル、それでいて、どこからか時代や歌い手をじっと見すえている―――だからこそ私たち歌い手も驚いてしまう、そんな詞が生まれるんでしょうね。
 一方、作曲の三木先生にはレコーディングにも必ず立ち会っていただき、細かくアドバイスしていただきました。それだけじゃなく、「こういうレコードがいいよ」など音楽のいろんなことを教えていただきました。
 寡黙なままじっと歌い手や時代を見すえる阿久先生、いつも新しい音楽を志向する三木先生のお二人が、『津軽海峡・冬景色』をうみだしたのです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-6


「津軽海峡・冬景色」で紅白初出場
 高校を卒業して名実ともにプロの歌い手として歩き出した昭和51年、その秋に大阪の新歌舞伎座でコンサートを開くことになりました。
 早速、スタッフの方たちがステージの構成を練り始めたのですが、まだ大きなヒット曲がなく、コンサートを締めくくるエンディングにふさわしい曲がありませんでした。頭を悩ませながら考えこんでいたスタッフの一人が、
 「あれはどうだろ、今度のアルバムの最後のあれ・・・・」
 その頃私は、「365日恋もよう」というタイトルアルバムを出したばかりでした。阿久悠・三木たかし両先生によるオリジナル12曲で、ちょうど暦のように1月から12月までの歌がおさめられていました。スタッフがいう「あれ」はその12月の歌です。
 「あ、あれ? 私もいいと思います。すごくいい歌」私もすぐに同意しました。
 『津軽海峡・冬景色』というタイトルのその歌をレコーディングした時、いつもと違う感触があったのです。
―――これは聴いてほしい歌だなァ・・・・。
 すでに十数枚のレコードを出していましたが、そんな思いがしたのは初めてでした。ヒットしてほしいいう願いとは別に、とにかく聴いてほしい・・・・。
 そんな思いを起こさせる何かがその歌にはありました。歌詞を読み返すたびに、北の冬景色が鮮やかに目の前に広がり、その景色の中にひとりリンと立つ女性の姿が浮かび上がってくるのです。
 阿久先生の詞の鮮やかさに加え、三連音符を駆使したメロディもすごく新鮮でした。作編曲ともに三木先生でしたが、まるで海鳴りのようなイントロからすでに最高の音――こちらがドキドキするほどの鮮烈なメロディでした。
 「じゃ、エンディングはあれで行こう」
私もふくめスタッフ一同うなずきましたが、その「あれ」がどんな運命をもたらすことになるのか、だれ一人気付いていませんでした。


「聴いてほしい」の思いをこめて
 初めて立つ新歌舞伎座のステージ。私はただひたすら「聴いてほしい」という思いをこめて『津軽海峡・冬景色』を歌いました。今でこそ、自分なりの歌の組み立て方を身につけていますが、その頃はただ歌にしがみついているという感じでした。まして、それまで歌ったことのない新しいタイプの曲、振り落とされないようしがみつくのが精一杯でした。
 そんな状態ですから、会場のお客さまの反応もよく分からなかったというのが正直なところです。手応えがあったような、ないような・・・・。
 ところが、次の日から事務所やレコード会社に電話が入り始めたのです。
 「あの最後の歌、もう一度聴きたい」
 「いつレコードになるんですか?」
 連日のように問い合わせの電話があり、会社は急遽アルバムからシングルカットすることにしたのです。
こうして昭和52年1月1日、『津軽海峡・冬景色』が私の15枚目のレコードとしてリリースされました。
 その前日の大晦日、紅白歌合戦では同期生の森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さんたちが華やかなステージに立っていました。コタツに入ってテレビの中の彼女たちを見る気持ち・・・・ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば嘘になります。
 こんな思いも重なり、『津軽海峡・冬景色』のキャンペーンにはそれまでになく力が入りました。全国各地の放送局やレコード店さんを回りましたが、どこへ行っても「この歌はいいね。きっと大ヒットするよ」と励ましていただいたものでした。
 たとえば、青森放送のディレクター西沢弘さんは、真っ先に私をラジオ番組のゲストに呼んでくれたばかりか、3週間でレコードがすり切れるほど『津軽海峡・冬景色』を毎日、何度も番組で流してくれたのです。歌い手として、こんなありがたいことはありません。そういう皆さんの応援にこたえなければと、私も行く先々で一生懸命に歌い続けました。


ベストテン番組に同時に3曲も
 その年の冬は、東京でも例年になく雪が多かったのですが、そんな春先の寒い夜のことです。
 自宅で遅くまで寝つけずにいた私は、ふと戸外の小さな歌声を耳にしました。聞くともなく聞いていると、
♪♪こごえそうな鴎見つめ泣いていました・・・・
 そっとベランダに出て下を見ました。サラリーマンらしい中年男性が道の向こう側で立ち止まったまま歌を口ずさんでいましたが、よく見るとどうやらオシッコ・・・・やがて用を足した男性は歌い続けながら千鳥足で闇の中に消えていき、お世辞にも上手とはいえない『津軽海峡・冬景色』の歌だけが尾を引くように残りました。
 胸の奥に何かがポッと灯ったような感じでした。
その小さなできごとがまるできっかけみたいに、3月に入ってから急にレコードが売れ出したのです。いったん売れ始めたかと思うと、あとはぐんぐん伸び、あっという間に50万枚、60万枚・・・・おまけに『津軽海峡・冬景色』に続いて出した『能登半島』『暖流』も発売と同時にすごい売れ行き、テレビのベストテン番組に3曲が同時に並んだのです。
 いったい何がどうなってるのか訳が分かりません。私にとっては、自分の歌が大ヒットしているという実感より、突然嵐のような忙しさに巻き込まれた感じばかり。テレビ局からステージへ、ステージからテレビ局へと一日中駆け回る生活でした。
 そんな地に足がついていない状態が続き、年末が近ずくにつれ、今度は音楽賞ラッシュです。テレビ各局の音楽賞はじめ、日本レコード大賞歌唱賞、日本歌謡大賞放送音楽賞・・・・。
 まるで夢でも見ているようでしたが、最後のうれしい悲鳴が紅白歌合戦初出場決定の知らせでした。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-7




快挙を共に喜んでくれた人たち
 デビュー5年目の『津軽海峡・冬景色』の大ヒット、数々の音楽賞受賞、そして紅白歌合戦初出場決定―――盆と正月がいっしょに来るといいますが、本当にそんな感じで、紅白出場決定のお知らせをいただいた時は、なんだか現実感がありませんでした。
 その夜、わが家の食卓には母の手作りの赤飯や煮物が並びました。子供の頃からなじんだそのお祝い料理を前にして、やっと喜びがこみあげてきたものでした。
 何よりうれしかったのは、まだ売れてない頃からずっと応援してくれていた方たちの祝福の言葉でした。とくに、キャンペーンで歩いては、いつも励ましていただいた地方の方たちから、
 「ほらね、きっと大ヒットすると僕がいった通りになったでしょ」
 「さゆりちゃんは、いつか必ず陽が当たると信じてたけど、本当によかった、よかったね」
 そんな電話が次々に入り、温かい言葉に思わず胸がキュンとなったものでした。
 そして、大晦日。どんな歌い手も初めての紅白歌合戦の舞台はひどく緊張するといいます。それだけ歌い手にとっては晴れの大舞台、まして5年目にして初めてそこに上がる私、さぞやガチガチに緊張と思うでしょ?
 ところが私ときたら、まったく緊張感なし。何しろうれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、
 ―――お、これが紅白歌合戦のセットかァ・・・・!
 要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまったのです。



不遇時代の苦労なんかなかった
 紅白出場でようやく一人前の歌い手として認められ、新聞や雑誌の取材も一気に増えましたが、インタビューで必ず出たのが、「ヒットに恵まれないあいだ、苦労したでしょ?」という質問でした。
 それに対して私は「ちっとも苦労したという思いはありません」と答えていましたが、別に負け惜しみをいってたわけじゃないんです。ずっと励ましてくれる方々もいましたし、それより何より、歌うことが好きで好きでしかたなかったんですもの。
 たとえば、テレビの歌番組ではリハーサルがあります。売れっ子の歌い手さんはよく”本番飛び込み”といって、リハーサルには代役を立て、本番に駆けつけ歌うことが多かったのです。そんな時私は、自分から「私、歌いまーす」と代役を買って出たものでした。たとえ人の歌でも歌ってさえいれば幸せ、そのうえそれがずいぶん勉強になったんです。
 勉強といえば、ヒット曲に出合う前にいろんなお稽古ごとをしました。でも、これは勉強というより私の癖で、何か素敵なものに出合うと、
 「私にもできないかなァやってみたい」
 という気持ちがムクムク頭をもたげてくるのです。そうやって三橋美智也さんに民謡を習い、さらに二葉百合子さんに浪曲まで習いました。
 何かの役に立ててやろう計算してお稽古したわけではありませんが、そのどれもがあとになって活きたような気がします。生意気なようですが、不遇時代にこそ本当のしっかりしたものを身につけることができるのかも知れませんね。


「津軽海峡・・・」は女性の自立の歌
 先日、NHKが行った「1000万投票 BS20世紀日本の歌」の発表がありましたが、その上位100曲の中に、『天城越え』とともに『津軽海峡・冬景色』も選んでいただきました。本当に歌手冥利につきます。
 『津軽海峡・冬景色』が発売されてからもう21年たちますが、今でも冬になると、いろんな番組でかけていただいたりしています。そんな時ふっと、白いドレスを着て夢中で歌っていた当時の自分のことがよみがえってきます。
 「あの歌で僕は、自立していく女性を書いたんだよ」
 いつだったか作詞の阿久悠先生がそうおっしゃったことがありした。それまでの歌に登場していた女性像といえば「待つ、耐える、忍ぶ」、そういうイメージばかりでしたが、そこから抜け出て、自分の言葉や行動をもって生きていく女性を、阿久先生は雪景色の中に立たせました。
 「さよなら あなた 私は帰ります」
このフレーズだけで、そういうリンとした女性像が浮かんできます。それは、同じ阿久悠・三木たかし両先生による『能登半島』『暖流』にも共通しています。これらの歌がヒットしていた頃、ファンの方々からいろんなお便りをいただきました。
 「さゆりさんの歌、自分の言葉や思いを代弁してくれているようです」
 「あの歌を聴きながら、一人で現地へ行ってきました」
 女性自立という時代の風に揺れながらも、現実生活ではなかなか思い切れない、そのもどかしさが歌の中だと越えられる・・・・そういう思いで私の歌を聴いていただいていたのかも知れませんね。
 歌というのは、本当にふしぎだナと思います。作詞・作曲の先生方から歌い手に渡され、歌い手から聴き手に届けられる、そこから先、聞き手の中でどう流れていくのか、それは予測しようもなく、だからこそ限りなく深い・・・・そう思えます。
 ラジオから流れる21年前の自分の歌声を聴きながら、
 ―――ああ、あの頃は歌にしがみつき、必死で歌っていたんだなァ。
 ふと、当時の自分自身がいとおしくなりなす。
 最初に歌をいただいた時、どう表現するかなど考えるゆとりもなく、ただ無我夢中、聴いてほしい初めての歌にめぐりあえた、その思いだけで一杯でした。それ以後も歌い続け、のちに三木先生に、歌とともに年齢を刻み成長した代表例としてこの歌をあげていただいたことがあります。十代の終わりの年にそういう歌にめぐりあえたことは本当に幸せでしたが、まだまだ新しい出会いが私を待っていたのです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-8


「火の国へ」歌う心はふるさとへ
 『津軽海峡・冬景色』が大ヒットしたのは昭和52年、その翌年には『火の国へ』を発表しました。火の国、つまり私のふるさと熊本を舞台にした歌です。この頃はずっと、私の歌の作詞は阿久悠先生、作曲が三木たかし先生のお二人で、『火の国へ』もそうでしたが、チョット面白いエピソードがあるんです。
 阿久先生は最初に歌を書いていただいた時から、どうやら私を”石川県出身”と思っていらっしゃったようなのです。それで、『津軽海峡・冬景色』のあと、ふるさとの歌を書いてあげようということでできたのが『能登半島』だったらしいんですね。
 なにかの時にそんな話になり、「私、石川というのは本名で、ふるさとは実は熊本なんです」ということをお話ししたところ、じゃ、改めてふるさとの歌をと、『火の国へ』を書いてくださったのです。
 そんないきさつから生まれたこの『火の国へ』も大好きな歌のひとつで、コンサートでは今も歌っています。歌うたびに、心の中でふるさとへ帰るような気がします。
 コンサートといえば、昨年4月にスタートしたデビュー25周年記念コンサートも、そろそろ終わりに近ずいてきました。そのコンサートと並び、もうひとつ私の歌を聞いてくださる皆さんに喜んでいただける事は・・・・と思い、行ったのが私の歌の中から新たにレコーディングをした39曲です。
 全国のレコード屋さんやファンの方々からアンケートをいただき、私のこれまでのすべての歌の中から39曲を選びました。39というのは”サンキュー”、私からの感謝の気持ちをこめたものです。
 デビュー曲『かくれんぼ』から昨年の『歌麿』までの曲の中には、もちろんこの『火の国へ』も入っています。こちらのほうも、ほぼ全部のレコーディングを終えましたが、1曲ごとに当時の自分自身や忘れていたいろんなことが、ふと思い出されたりしたものでした。


20歳を記念してバイクの免許を\plain
 『火の国へ』を出した昭和53年(1978)、私は20歳になりました。人生で一番輝いている年齢でもあり、同時に一番悩みもかかえている年齢、それが20歳ではないでしょうか。
 成人式当日、私はNHKの「青年の主張」にゲストとして招いていただき、自分自身の成人式には出席できませんでしたが、同じ年齢の方々が力強く将来の夢や抱負を語るのを聞きながら、ふと思ったものでした。
 ―――これから自分はどうやって大人になっていくんだろう・・・・歌が好きで今まで夢中になってやってきた。ヒット曲が出るまでは絶対やめないぞって頑張ってきて、『津軽海峡・冬景色』という大ヒットにめぐりあえた・・・・でも、これから先私は、何を見つけて、どうやって歌っていくんだろう・・・・。まぶしいほど輝いているようでいて、でも、まだよく見えない未来。それを前にした20歳の夢と不安を、私もかかえていたのです。
 自分なりに考え、出した結論はこうでした。
 ―――歌を歌っていたせいであれができなかった、これもダメだったという言い訳はイヤだな。そんな言い訳を自分に残すことはしたくない。
 そう思ったとき、パッとひらめいたんです。
 ―――そうだ、原付きの免許を取ろう!
 何とも単純な結論で、おかしいでしょ?でも、何であれ自分で行動し、それを一つずつ形にしたかったんですね。で、運転免許試験場へ行き、原付バイクの免許取得。次の年には、普通免許も取りました。
 こんな単純なことでも、すごく満足感がありました。だれかに決められるのではなく、自分で考え自分で行動することの大切さを、身をもって知ったわけですね。


休日には電話をシャットアウト
 仕事の面でも、そんな自分の考えを活かすことにしました。当時は、朝起きてから夜寝るまで、すべてスケジュールが決められていました。テレビスタジオ、ステージ、インタビュー・・・・と休むまもなく駆けずり回る毎日で、それは歌い手にかぎらず、タレントさん、役者さんも忙しくなった時にみんな通る道です。
 でも、ふっと自分は何をしているんだろうと思うことがあります。ただ決められたスケジュールを消化しているだけじゃないの・・・・このままだと、自分自身を見失うところまで行っちゃう・・・・。
 で、また決めたんです。
 ―――休みの日に、自分で何をやっていいのか分からない状態になるのはやめよう。
事務所に電話しました。
 「オフの日、私に連絡が取れないかもしれません。緊急の場合は別にして、オフの日には電話をしないでください」
 担当マネジャーはびっくりしてしまいました。無理もありません、それまではただスケジュール通りに動いていた私が突然そういったのですから。私の考えを聞いたマネジャーは、
 「そうかァ、さゆりも大人になったんだなァ」
感心したようにいったものです。でも私のホンネは、大人になるため、まずオフだけでも自分でスケジュール管理をしてみよう、ということだったんですね。
 こうして休みの日は完全に私のものになりましたが、といって別に何か立派なことをしようというわけじゃないんです。何をするにしても、またしないにしても、それが自分の意志によること、自分で決めて歩いてみたい。
 で、実際に休みの日に何をしてたかというと、近くの多摩川を散歩したり、赤いバイクを乗り回したりと、実にたわいないんです。でも、そんなことをしながら、それがだれかに決められたのじゃなく、自分自身の意志でそうしているのだと思うと、結構、充実感

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小吃在台灣,早已多到繁不勝數的程度,以前人們一提到小吃,總會想到肉丸、魷魚羹、蚵仔煎、蔥油餅…這些印象裡尋常到不能再尋常的名目,這幾年經濟嚴重衰頹,五星級飯店裡的披薩、義大利麵,竟也跟中式小吃一樣,普及的出現在街頭巷尾間,幾天前,我就在陋巷裏,發現一處這樣的天堂。

到華視去找朋友,正好趕上吃飯時間,在延吉街裡繞啊繞的,面對一些熟悉的店舖,卻怎麼都不想踏入,一個乍似國外Patio〈屋外前庭〉陳設的所在,吸引了我的注意,這家店看來好像開張不久,屋外的搖椅還好新。透過玻璃窗,也能讓人望見牆上的新漆,天花板上紅綠白相間的色彩,顯然說明,這是一個義式風味餐館。

走進名叫「Ti Amo」的這家小館,我有股挖到寶的感覺,倒不是因為主廚留著老外般的落腮鬍,店裡還有造型勁爆的洋人吃客,而是除了Coke飲料機外,我看見了沙拉吧、自助檯上的「五星級」調味醬,成本理應嚴控的小餐館,可選的調醬種類原本就有限,可是,來這裡用餐的顧客,竟能嚐到如此正統的西餐專用調醬!

菜單裡的價格,更是讓人竊喜,最便宜的「兒童餐」130元,最貴的「干貝蘆筍麵」跟「墨魚手工麵」也不過290元,還有我喜歡的「海鮮飯」跟「手工薄片 Pizza」也不過220元,我突然心裏一陣酸楚,能夠打出這樣的價格賣口味道地的洋食,台灣小生意人買賣難做的光景,不用強調也夠清楚明白了。

我們點了「墨魚手工麵」、「海鮮飯」跟「手工Pizza」,老闆娘親切的告知我們,只要點了店裡任何一樣主食,就可以自由取食吧台上的沙拉與湯。哇!還有湯喔?我還沒發現呢!她還補充說,現代人都怕胖,所以她們供應的湯,有濃湯與清湯兩種,清湯是用低熱量的蔬菜熬煮出來的。

愛湯一族的我,這下把餐飲順序拋到腦後,清湯、濃湯前後各半碗地喝了起來,朋友說我真該先吃沙拉,在我拿湯時,老闆娘又詳細的把店裡提供的沙拉醬,對她詳細的解說了一遍。千島跟凱薩醬除外,主廚還調製了紅酒醋、陳年紅酒醋以及辣醬汁,這點,我也從她沙拉盤裏傳來的香氣直接感受到。

看到薄皮Pizza上桌,我真是開心的不得了!猶記一位來台工作的義大利籍大廚對我提過,他們真的很不了解台灣人,何以對美式厚片披薩那麼偏愛,是因為對義大利麵食認識不夠嗎?正統的義大利披薩其實是薄片的,看我吃著他做的薄片披薩,滿是津津有味的神情,他都無法確信這是真的!

走出廚房的主廚,在我們離去前,不忘過來徵詢滿意度,這位王師傅之前曾在西華飯店服務,還到義大利取過經。巴不得這樣好吃的小館,能有伯樂支持永續經營,老饕想解饞就一點都不難囉!

Ti Amo 電話:〈02〉2731-7768
地址:  台北市延吉街131巷9號1樓

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二○○一年法國和阿爾及利亞兩國的國家足球隊,在法蘭西體育場進行了阿爾及利亞獨立以來的第一場兩國友誼賽,身為阿國後裔的法國明星球員席丹原以為可以踢一場標誌兩國走向和解的歷史球賽,卻在球場上看到了寫著「Zidane- Harki」的橫幅,迫使一向低調的他終於站出來反擊。

「我的父親不是Harki。他是一個阿爾及利亞人,以自己的祖國為榮,我也以我的父親是阿爾及利亞人驕傲。唯一要強調的是,我父親從來沒有和自己的國家為敵。」
法國的禁忌 席丹的痛處

Harki是從阿拉伯文「軍事行動」的harka而來,在阿爾及利亞獨立戰爭之後,就專指法國在當地雇傭協助法軍對抗「阿爾及利亞民族解放陣線」(FLN)的殖民軍人,Harki被阿國當權者視為叛國賊,又曾被法國遺棄,所以在法國一直是個人人不願觸及的禁忌,這解釋了為什麼席丹會這麼激動地為自己的父親辯護。

二○○一年在訂立九月廿五日為Harki的紀念日時,法國總統席哈克表示,這段在法國不被承認、被扭曲、被抹去的歷史,在等待著法國,等待司法,還這些士兵光榮、忠誠和愛國的名譽。

畢竟,一九六二年當阿爾及利亞宣布獨立,他們當中的幾萬人遭受了慘絕人圜的大屠殺,因為戰敗的他們在獨立戰爭中為法國效命,其中一些人雖然遠渡法國逃離了這場災難,但是四十年來被視為是與法國合作的「漢奸」─他們無法回家,不受阿國歡迎,在法國又因法國的罪惡感不願正視這段歷史而受到漠視。

接受法招募 從軍以餬口

第二次世界大戰期間,法國軍隊人數不足以應付戰爭需求,使得法國開始向殖民國招募軍人,尤其在對阿爾及利亞的獨立戰爭中,四十萬法國大軍中有十八萬是屬於Harki。

在這個並非兩軍直接對峙的戰爭中,法國只能利用熟悉地形、語言和當地風俗習慣的Harki打心理戰,而這些人大多是回教徒的農民,面對農業危機的大環境束手無策,只能到軍中尋找一份工作以微薄薪餉養家活口。

戰爭時期,法軍和FLN都試圖影響民眾,不斷地恐嚇和煽動民眾,FLN屠殺許多回教徒, Harki也對FLN抄家的殺戮行為展開以牙還牙行動,直到戴高樂宣布阿爾及利亞人享有自決權,Harki還不自覺法國軍隊已經嘗試要收回他們手中的武器,也沒料到等待他們的是一場兄弟鬩牆的大屠殺。

兩軍簽協定 「漢奸」墜煉獄

一九六二年FLN與法國在艾維昂簽訂協定後,是Harki悲慘的開始,十五萬手無寸鐵的Harki及其家人被各種酷刑殘害致死,「所有人都被趕盡殺絕,幸運一點的是被毒打,被視為賤民,甚至奴隸」。

他們當中僅七千人來到了法國,被安置在南部鐵絲網圍起的營區中。法國當局不希望有太多的 Harki抵法,一是不希望過多的回教徒入境,二是懷疑有FLN的間諜混在其中,三是避免北非出身的法國人與Harki串聯製造恐怖主義反對戴高樂政權。

一位Harki老兵就見證他原在返回法國的名單中,但正要離開時,他不是Harki的哥哥前來道別,法軍懷疑他在玩雙面遊戲,不讓他前往法國,他後來被FLN逮捕,歷經九死一生才逃出魔掌。

因為法國曾經遺棄他們,所以這段令法國為難的歷史在法國成為禁忌,右派戴高樂時期的沉默是因為怕被輿論批判遺棄Harki,反殖民的左派也很尷尬,因為Harki接受的是反動的殖民意識。在阿爾及利亞,則不利於國家獨立神話的誕生,因為當權者強調的是全國一心上下聯合對抗殖民母國,Harki卻是叛徒。

被法國遺棄 被祖國唾棄

這群Harki和他們的家庭在法國富裕的年代中,是生活在艱難、嚴寒、擁擠的刻苦環境裡,雖然從八十年代起,Harki有了在法國居留的特殊身分,經濟和就業也都有了保障,但是這個遲來的承諾已無法彌補大人們忍受自己同胞叛國賊的譏諷,小孩們不知所以然地被嘲笑甚至自殺,成為一輩子永難抹去的傷痕。

所以在四十年之後,倖存者與其孩子們控訴法國當年的遺棄,總共有兩百五十位見證人期盼司法還其公道。

今年已是Harki紀念日的第六年,歷史學者的研究著作和記者的調查採訪都陸續問世,獲得坎城影展最佳男演員獎、談論前殖民地軍人的電影「光榮歲月」也在這星期上演,迫使政府正式宣布,二次世界大戰期間和本國軍人一起作戰的前殖民地軍人,其退休金標準和法國軍人一樣,而新的標準將於明年一月一日開始實施,約有八萬名前殖民地軍人將終於受益。

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理專或投資理財顧問其實與醫生相同,它不只是個可以賺錢的工作而已,更容易因為利益衝突,進一步造成投資人虧損或受害...
長久以來,由於醫生與病人間的資訊不對稱,所衍生的醫療糾紛從來不曾間斷過。理財專員雖然不像醫生一樣,能夠影響一個人的生死,卻也能一定程度地掌握投資人的財務盈虧權力。

這也是筆者常常喜歡,拿醫生與理財專員(理財顧問或業務員)相比的理由。因為理專或投資理財顧問其實與醫生相同,它不只是個可以賺錢的工作而已,更容易因為利益衝突,進一步造成投資人虧損或受害。

前一陣子國內某家雜誌,針對國內十多家醫學中心,做了一份「聰明人完全就醫指南」的專題。筆者不想替這份醫學中心評鑑結果的正確性做任何背書,倒是贊同文中所列的「就醫前、中、後應注意事項」。

事實上,如果能擬出一份「選醫生的十不原則」,同樣的內容也適用在「選擇理專十大禁忌」上,而且分毫不差。

一、不要選「名不符實」的醫生。醫界人士都知道,有些所謂的「名醫」,只是被病人拱出來的光環而已,不見得具有真才實學。一般大眾如果不信的話,可以去問問不同的分科醫生:那一科中的哪一位醫生,醫德與醫術俱佳?

只要你跟這位醫生很熟,對方做人也都誠實無欺,應該都可以明白地告訴你:檯面上經常被病患「點名」的各個「名醫」,哪些是「名符其實」?哪些則又是「言過其實」?

事實上在金融界裡,這種知名「專家」、「名嘴」也是不曾少見過。但是如果一般大眾分不清誰是真正能幫投資人解決問題的專家,而不是「專門騙人家」,就很難在投資理財之路走得順遂。

二、不要找「不對等」的醫生。真正的名醫當然能解決各種疑難雜症,只是中國人有句名言—殺雞焉用牛刀。如果自己身體上的毛病,沒有大到足以要找「專門解決疑難雜症」的名醫來診治,說實話,不管是對醫生或自己,都是時間與金錢上的浪費(至少大醫院的掛號費與指定醫師費都比較貴)。

反觀投資理財活動當中,一般大眾真正要找的理財顧問,應該是肯花時間傾聽投資人心聲與需求的人。這位顧問如果具有真才實學更好,但是在此同時,投資人也要衡量自己的狀況而定。

也就是說,如果自己的資產不多,又不是那麼在意頻繁進出,一般大眾最好仔細思考一下:是不是非得花大錢,找一位媲美巴菲特的投資大師,來幫自己的小財打點?

三、不要找錯專科醫生。如果是頭痛,找了一個專長不在醫頭痛的醫生,那不是把自己的身體健康當兒戲?當然現在醫院分科分得很細,不具有醫學專業知識的一般大眾,根本很難自行研判該看哪一科。此時,看家醫科恐怕是重要的第一步。

因為有的醫生只是開刀的技術一流,並不強於治病;有的則是檢驗做得多,精於得病與否的判斷,卻也不見得能真正能讓病患痊癒。如果找不對醫生,病患輕則無法恢復健康,重則可能延誤病情。

家醫科醫生雖然「樣樣通,卻樣樣不精」,至少能提供病人進一步就診或檢驗的正確方向。這絕對不是專精一科,無法整體了解病人全身狀況的醫生所能完全取代的。

對一般大眾來說,在還不知道自己的財務狀況是否健康之前,首先要看的是類似家庭醫師的理財規劃師,之後再根據個別的需要,去找各個投資領域中的專家。

四、不找他人捉刀醫治的醫生。筆者一些朋友就曾經深受其害:有些名醫並不是自己做檢查,更可能是由他人動刀。如果是這樣,不但無法得到正確的治療,更是拿自己的生命健康開玩笑。

雖然投資理財界比較少見到真正「他人代操」的情況發生,但是卻常發生:明明應該是代操機構或基金公司,盡到善良管理人責任,以投資人的最大利益為優先,但是投資人反而變成這些金融機構「刀下魚肉」的情況。

五、不要找無法維護個人隱私的醫院與醫生。特別是在教學醫院裡,醫生常因為見怪不怪的心理,習慣性地把人當實驗品,而不是一個需要被人性化對待的病人。

這是因為教學醫院負有「訓練醫師」的重責大任。所以當病人在看診時,總是有一大堆的實習醫師在旁圍觀;或是不管病人的隱私,在其他病人眾目睽睽之下,就直接進行檢查或講述病情。

對理專來說,客戶就是個人最重要的資產,不會有以上的情況發生。但是沒有人希望自己的名字,成為理專向他人四處推銷時的活廣告,也沒人願意變成旗下各個金控公司,不同業務人員輪番電話攻勢的對象。


六、不要找把自己當實驗品的醫院與醫生。當然,經驗要從實習中累積。只是,如果醫生與實習者都沒有尊重病人的隱私權,隨意的品評與看診,不把病人當人看,未來就不可能成為好醫生,病人也就不可能藥到病除。

熟悉醫院生態的人都了解,到大型教學醫院就醫還有另一個疑慮,那就是「動不動就會對病人做各種的檢驗」。適當的檢驗當然是必要的,但是教學醫院的目的並非全是快速有效且讓病人無痛苦地痊癒,而是以累積實務經驗為主。

事實上,有些檢驗需要病人自費付擔,有的則會造成病人的痛苦或不適,同時又不見得真正有其需要。而投資理財也是一樣,如果理專不時慫恿投資人投資這,購買那,結果不但多花了冤枉錢,也可能無法達到原先的目的,徒然是肥了理專的荷包而已。

七、不要選病人太多,根本沒太多時間理你的醫生。許多名氣大的醫生,總是有川流不息的求診病患。就算他願意不眠不休地看診,一人一天也都只有24小時的時間。病患一多,自然就會擠壓到每一位病換就診的時間。如果每位病患只有一分鐘左右的時間,與醫生對話或互動,又怎麼能期望有高醫療品質?

因為經驗不足,是可以由其他方式來補足,而對病患的同理心,卻是成為良醫的首要標準。所以投資大眾不論是找理財專員,或金融投資的專家,都要極力避開那些「只想單方面收你的大錢,卻不肯多付出一點時間,仔細傾聽你說話與需求」的人身上。

八、不要選沒時間進修的醫生。前面曾經提到,醫生的醫術由生澀到爐火純青,勢必要經過一段時間與經驗的累積。但是在知識管理時代,經驗可以靠自行摸索,也可以靠其他方法來達到。其中「多多進修」與「博覽病歷」,則是醫術可以不斷精進的唯二法門。

雖然古人曾說「讀萬卷書,不如行萬里路」,但是也有「讀書破萬卷,下筆如有神」的說法。因此,就算是剛入行的醫生,如果能多多進修,也一樣能累積多人的智慧;資歷深的醫生一旦不知進修,醫術恐怕也很難「日行千里」。

特別是瞬息千變萬化的投資世界當中,一旦理財專員們無法緊扣大環境脈動,如何能夠做到「幫助投資人看守好資產」,甚至是「幫助投資人完成各項投資理財目標」的境界?

九、不要選「把賺錢看得比什麼都重要」的醫生。雖然醫生也是365行中的一項,賺錢糊口也是天經地義。但是,這職業畢竟需要一些人道關懷與犧牲奉獻,要不然也不能做好這一行的工作,更不要說做到善盡「照顧病人身體健康」的責任了。

所以一般大眾在找合適理專之前,最好不要直接就把錢交給理專,馬上就進行大筆的資金進出。可以試著與理專聊天,從對話與交往觀察中,慢慢了解這個人的個性與企圖心。

十、找個性與自己合的醫生。醫生也是人,也有一定的個性與人格特質。有的醫生因為專業背景的差異,對於同一種疾病在醫治上的輕重緩急,也都有顯著的差異。

例如外科背景出身的醫生,診治大約都不會脫離「可以一勞永逸的動刀切除」方式;至於內科醫生,則是萬不得已,不會隨便主張病人採用「侵入性的各項手術」。

在投資理財領域當中,每一位理專也都具有不同的個性。有的可能積極,有些可能較為保守。這些都無所謂是非對錯,因為最重要的是:投資人應該選擇適合自己個性的理專往來,未來失望的機率也會比較低些。

筆者以上的「十不原則」無意對醫界人士有任何不敬,只是希望從一般大眾常常接觸,同時印象深刻的醫療過程為例,讓投資人迅速掌握選擇理財專員的大原則。謹以上述論點提供給理財大眾參考,並期望每位投資人都能在稱職的理專或顧問帶領下,順利達成自己的各項理財目標。

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身高較矮的人,若從事文書工作,較容易頸部不適?至少一項最新研究看起來是如此,學者推測這可能因電腦設計多為外國規格,較不適合東方人身材,而辦公桌椅高度也有關。

這項研究蒐集電腦科技公司全職文書工作者共157人,調查過去一年中是否曾發生頸部痠痛、壓痛、刺痛、麻木不適等情形,結果56.7%的受訪者都曾頸部不適。

進一步追蹤沒有頸部痠痛的文書工作者,六個月後,51人有12人發生頸部不適,即半年發生率23.5%,年發生率47%,相較之下,國外常坐終端機前的人,頸部不適發生率才36%,國內明顯偏高。

這項研究由台大物理治療所副教授曹昭懿、博士生陳志鳴共同完成,昨於公共衛生學會年會中發表。陳志鳴說,分析頸部不適的危險因子,身高是重要關鍵,有頸部不適者平均身高165.9公分,無頸部不適者平均168.4公分,兩者具統計差異。

為何身高較高,較少頸部不適?陳志鳴推測,可能因電腦多按外國人身材設計,身高較高者反而合適。不過他強調,這項研究的樣本少,且同質性高,尚難論斷身高與頸部不適的關係。

此外,公司桌椅也可能與頸部不適有關,若桌椅較高,高的人用起來自然舒服;桌椅較矮,則矮的人用起來順手,應較少頸部痠痛。

研究同時發現,頸部不適者的年資比較高;且工作完全不需移動者,發生頸部不適的危險性也比需要偶爾走動者高。陳志鳴指出,這顯示長時間盯著螢幕看的工作,容易頸部不適,與國外研究發現工作面積愈小,愈容易頸部不適的理論,不謀而合。

本身是物理治療師的陳志鳴表示,從事靜態工作者,環境應符合人體工學,桌椅高度應與身高相符;且勿老是靜止不動,要常變換姿勢,才能工作得更健康。

【2006/10/01 民生報】

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 美國務院新近公布的一九六九到一九七二年的中美關係文件,有不少蔣介石總統和尼克森總統的函電往來,以及羅吉斯國務卿訪台和美駐華大使馬康衛多次晉見蔣的談話記錄,當然也有一九七○年四月蔣經國訪美與尼克森會談的記錄。這些文件展現的蔣介石先生,基本上是以不變應付變動不居的變局,而蔣經國為了要做孝子,則是緊守父訓,亦步亦趨,結果當了陪葬的祭品。從好的方面說,蔣介石是堅守原則,擇善固執;從壞的方面看,蔣長期活在夢想(反攻大陸)的天地裡,已與真實(reality)完全脫節,造成他思想的僵化,不為外物所動。這樣的領袖,主宰台灣命運數十年,自是難免種下許多惡果,台灣今日外交與國際處境的艱困,蔣老先生是難辭其咎的。現在看看文件告訴我們的一些實例。

一九六九年八月羅吉斯國務卿訪台,在三號那天和蔣總統舉行會談,馬康衛大使事後給國務院的電報記載,蔣對羅吉斯說:「美國的外交政策在杜勒斯時代是正確的,而自杜以後,就不是界定得那麼清楚了。」(not so well defined)這句話反映蔣仍沉緬在杜勒斯時代中美之間的崢嶸歲月,可是杜勒斯是冷戰時期美國反共最力的國務卿,他的時代早已一去不復返。蔣不思與時俱進,卻仍陶醉於往昔的好日子中(good old days)。從另一角度看,蔣這句話對羅相當不禮貌,無疑指羅遠不如杜勒斯。但蔣似乎不大知趣,接著問羅尼克森總統是否「仍傾向鼓勵中華民國(ROC)重返大陸,解救中國人民,還是要把ROC『凍結』(freeze)在台灣。」

這時羅吉斯就不怎麼客氣了,說是美國「不能把時鐘倒轉(cannot turn back clock),再回到杜勒斯─艾森豪或是甘迺迪時代」。至於中華民國回大陸之事,羅說:「如果ROC以和平的政治方法回大陸,美國將樂見;但如用任何軍事冒險的辦法,就不切實際了」。

馬康衛給國務院的電報指出,蔣把一九四九年以來,自由世界在亞洲的災難,都歸咎於美國讓中共攫取中國大陸,這是蔣彈了多年的老調,彈了二十年還在彈,羅吉斯怎麼聽得進去?

一九六九年元月加拿大、義大利將承認中共的報導甚囂塵上,美國對ROC如何因應此一變局至為關切,訓令馬康衛面見蔣「轉達美國希望蔣堅持到底,不主動斷交的期待,看看能否拖延時間或是中共因ROC不撤館而拒絕。蔣對馬回顧了一九六四年與法國締交的痛苦經驗。蔣說當時他聽了美國的勸告,ROC在巴黎的外交人員堅守崗位不撤退,結果在那幾個星期內,ROC在法國的外交官受盡屈辱,ROC的尊嚴掃地,到頭來ROC的外交官幾乎是被戴高下令驅逐出境。基於此一慘痛教訓,蔣說他無法接受美國關於加義兩國將承認中共的勸告。他毫不猶豫的表示,只要左翼的義大利政府宣布承認中共,ROC在義國的外交人員一天都不會多留。

蔣介石告訴馬康衛,他這樣斷然的作法,除了能保存國格外,說不一定還會有「嚇阻效果」(adeterrent effect),因為這些國家必須在ROC與中共之間有所選擇,而不能左右逢源,其言下之意是這些國家會選擇ROC,這真是愚不可及的想法。道理很簡單,假如他們選ROC,何必考慮與中共建交呢?

一九七○年四月蔣經國以行政院副院長身分訪美,二十一日那天晚上尼克森在白宮設國宴款待蔣,宴會之前,二人舉行了一個小時的會談,美方的翻譯是華沙會談的譯員安德生(Donald Anderson,後來做過駐香港總領事),據安德生所作的會談記錄,蔣先給尼一封他父親的親筆信,然後對尼說,他要「轉達他父親對幾樁有關共同利益事情的想法」,所以蔣只是遵父命轉述他爸爸的想法,而非他自己的想法。究竟這是蔣為了孝順,向他父親臉上貼金,還是假借他父親的名義,說出自己的想法,無從可考。此事不難叫人看出,蔣經國終其一生,都活在他父親的陰影下,少了獨立的自我,因而影響他可能有更大成就的機會和潛力。以下是蔣向尼克森提出的他父親的六點想法:

(一)國際局勢與尼克森主義:蔣支持尼克森主義(The Nixon Doctrine)。

(二)台灣的安全:蔣憂慮中共會以珍珠港的突襲方式攻擊台灣。

(三)大陸情勢:中共面臨蘇聯的威脅,正利用美國藉華沙會談來減輕蘇俄的壓力,分化美與ROC的關係。

(四)中蘇關係:毛澤東政權最終會因蘇聯壓力或內鬥而崩潰,美國須考慮一個蘇聯控制的中國大陸的後果。

(五)亞洲集體安全:蔣一貫的一廂情願的想法,欲藉亞洲集體安全制度把美國套牢。

(六)美國對台軍援:蔣說他並不想向美國要求更多的現代武器,只是要美國協助提升台灣防務的「質」而非「量」。

就這樣蔣經國結束了他一小時和尼克森的對話,無一語及於已經嚴重的美與中共關係「正常化」的新局,更糟的是,他只是他父親的傳聲筒。

一些研究中美關係的學者專家們認為,尼克森把蔣經國請到華府,待以國賓之禮,不過是要透過兒子向爸爸說「再見」(good bye)而已,從此尼克森就可以坦蕩蕩的追求新的愛人中共了。蔣氏父子竟不察,仍為尼信守對ROC的承諾甘言所惑,相信尼是始終不渝的摯友,恐怕這就是兩蔣真正的悲劇了。

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年度台北國際牛肉麵節網路票選活動將於9月3日熱鬧登場!只看票數、無人背書的網路名店真的好吃嗎?不如先聽聽6位美食名家的現身推薦,不論是老店、新開還是去年的排行遺珠,達人掛保證還是比較實在啦!

美食達人團出列

曾秀保 前亞都麗緻飯店行政主廚

人稱「保師傅」的曾秀保,入行後專攻蘇杭菜、川菜、湘菜等,對台灣小吃研究甚深,曾多次擔任國宴主廚。

葉怡蘭/美食家

曾任週刊、網站等媒體主任,現經營個人網站「Yilan美食生活玩家」,對美食的獨到解析及對生活的輕鬆態度,獲得版友們的廣大迴響。

費奇/美食家

資深媒體工作者,對味道是絕對的挑剔,與6位友人架構「美食蝴蝶結之老饕俱樂部」網站,提供網友最新美食速報。

Mary/美食家

因為懂吃、愛吃,曾經有廠商邀請她擔任品牌大使,希望以Mary的美食經驗讓飲酒與美食有更美好的結合。有《Let's Party》等多本美食著作。

梁幼祥/美食家

身兼美食作家、美食節目主持人及美食家多重身分,不但愛吃,也懂得吃。不但講究吃,也燒得一手好菜,為美食界當中鮮少「食」能知行合一者。

錢嘉琪/美食家

曾任報社資深美食記者,擁有相當豐富的採訪經歷,對於各類美食不僅涉獵廣泛,且具有非常靈敏的味覺。

鼎泰豐 精選黃牛肉

標榜精緻風格的鼎泰豐不惜成本,每日購入單價甚高的本地黃牛肉,當日現宰的新鮮風味融入熬上12小時的牛骨高湯裡,搭配彈Q有勁的雞蛋細麵,湯鮮味美的獨到滋味教人無法抗拒。

曾秀保推薦 紅燒牛肉麵/200元

紅燒湯頭濃郁夠味且清淡爽口、口口回甘,實屬難得佳作,三肉一筋的分配得宜巧妙,可以同時享受柔嫩與彈Q的雙重口感。

鼎泰豐(信義店)

電話︰(02)2321-8928
地址︰ 台北市信義路二段194號
營業時間:
週一~週五10:00~21:00.週六、週日09:00~21:00
店休:無

史記正宗牛肉麵 嚴選食

史記老闆史大正表示,到店裡吃牛肉麵的客人有兩種,一是美味秘訣看到報導上門湊熱鬧,一種則被口碑吸引。店裡使用的材料由於都是精心尋找,因此無法大量供應,因為用心、材料好,讓很多人一吃上癮,成為忠實顧客。牛肉湯風味絕佳,切片牛肉直逼入口即化的口感,教饕客讚不絕口。

梁幼祥推薦 清燉牛肉麵/130元

白濁的湯頭是以牛骨加上碎肉滾36小時以上熬煮而成,味道出乎意料地清爽。切片的牛肉軟而不爛,充分顯現老闆的好手藝。

史記正宗牛肉麵

電話:(02)2563-3836
地址:台北市民生東路二段60號
營業時間:
(平日)11:30~15:00/17:30~21:00
(假日)11:30~14:30/17:30~20:30

大塊紅燒牛肉麵 手工麵香Q

老闆姚恆毅表示,店內使用的湯底一定要選用帶骨髓的大骨慢熬3天以上,時間太短不香、過長則又顯得腥,完成的湯底再與牛腿肉、近20種中藥材精燉,鮮美的肉汁與湯底融成一氣,加上滿滿的蒜苗適度減去油膩感,絕美的滋味教人吃到碗底朝天才捨得放下。

費奇推薦 清燉牛肉麵/110元

煮得徹底通透的半筋半肉,搭配清澈爽口的清燉風味,再淋上些許店家自製的朝天椒辣油,香辣鮮美,十足過癮。

大塊紅燒牛肉麵

電話︰(02)2392-8278
地址︰台北市杭州南路一段79號-1
營業時間:11:00~20:30
店休:週日

西井村牛肉麵 獨門秘方

西井村開店6年多,但是配方卻花了創始人30年功夫。西井村也就是因為有了獨門秘方,才能做出最清爽的紅燒牛肉麵,恰到好處的口感也令人難忘,牛肉的彈性與適當的調味,大人小孩都愛吃。來到西井村,除了吃牛肉麵,別忘了來盤豬腳,色紅軟爛的豬腳有QQ的彈性與噴鼻的香氣,有種別於牛肉的口感。

Mary推薦 牛肉麵/120元

湯汁色澤清爽清澈,喝在口中甘甜滋味立刻散開。

大多數的紅燒牛肉麵都帶辣味,西井的湯頭卻甘醇爽口,略厚的家常麵嚼勁夠,越吃越香。

西井村牛肉麵

電話:(02)2749-2288
地址: 台北市新東街19號(近民生東路五段)
營業時間: 11:00~15:00/16:30~21:00



美食家領航 牛肉麵大觀園走一遭

嗎哪精緻麵食 風味絕倫

源自希伯來文的嗎哪,意思正是「天上掉下來的麵食」,舉凡店家獨創的椒麻封雞湯麵、泡菜肉末乾麵等,道道風味非凡,尤其湯頭甘醇不膩,微辣口感待入口片刻後才於喉間綻放的紅燒牛肉麵更是一絕,完美融合辛、香、醇的多重滋味令人驚喜,搭配彈Q有勁的雞蛋細麵,教人一嘗難忘。

葉怡蘭推薦 紅燒牛肉麵/140元

紅燒湯頭夠味又清爽,搭配最能細品湯頭的細麵,滋味獨到。另外,泡菜肉末乾麵也很值得推薦,店家使用高粱酒自釀的四川泡菜,酸度清香爽口,令人胃口大開。

嗎哪精緻麵食

營業時間:10:30~14:00/17:00~20:30
店休:每月第二、四個週一
嗎哪:台北市安和路2段74巷4號 電話:02-27064436 。

穆記小吃牛肉麵館 湯濃肉嫩

穆記牛肉麵承襲清代宮廷的御膳配方,選用本地牛的胸腱肉、椎腱肉,完全按照清朝御廚作法,先切塊、後川燙,再用秘傳醬料炒出香味,最後下鍋熬煮6小時以上,煮至牛肉入味、牛筋嫩Q,雙重滿足的絕讚口感。

錢嘉琪推薦 紅燒半筋半肉麵170元(小),190元(大)

紅燒湯頭濃郁不膩,搭配手的刀切家常麵,彈性十足,很有口感。

真的好牛肉麵 精心研發

老闆趙鳳山吃遍大江南北,從「蘭州牛肉麵」到四川麻辣口味,讓他有了創新的想法,首次將牛肉麵結合海鮮或者泡菜、咖哩,在牛肉麵的世界大玩mix and match,因為有了傳統道地牛肉麵當靠山,創新的新口味更令美食家一吃難忘。

梁幼祥推薦 招牌清燉鰻魚牛肉麵/150元

以新鮮海鰻用紅糟醃過再裹粉炸,吃起來酥軟鮮嫩,味道與清燉牛肉麵超match!

真的好牛肉麵

電話:(02)2363-2718
地址: 台北市羅斯福路四段78巷1弄15號1樓
營業時間:11:00~22:00

揭家牛肉麵 熟悉的滋味

開了半世紀的揭家牛肉麵,50年來只賣紅燒一種口味,滷至軟嫩通透的牛腿肉,透著濃醇甘甜的醬油香,搭配拌上豬油、麻油的平板細麵,熟悉的家常滋味一如記憶中媽媽的味道,簡單卻很有味。

曾秀保、錢嘉琪 推薦 牛肉乾麵/85元

紅燒湯頭裡吃得出醬油和牛骨高湯混合的香氣,屬於舊日眷村的滋味。店裡的滷味如豬肚、豬腸等清洗得十分乾淨,雖說是小菜,受歡迎的程度可是不輸牛肉麵。

揭家牛肉麵

電話︰(03)531-6510
地址︰新竹市東大路2段424號
營業時間:10:30~14:00/17:00~20:30
PS:建議欲前往用餐的民眾,先行打電話確認。

老張牛肉麵 口感十足

目前傳至第二代的老張牛肉麵,只賣單一紅燒口味,帶著炸牛油香氣的湯頭是30年來不變的招牌特色。先將老薑、蒜放入牛油中炸,接著放入牛肉、番茄醬慢燉完成的紅燒原汁,與牛大骨、6種中藥熬了4小時的高湯互兌,搭配勁道十足、略厚的手工麵,湯濃麵Q,豪邁的賣相尤其受到運將的歡迎。

費奇推薦 紅燒牛肉麵/100元(中)

浮著一層牛油的湯頭香氣撲鼻,引人食指大動,入口瞬間卻有濃郁而不膩的驚喜發現,嚼勁極佳的手工麵條更為整體加分。

老張牛肉麵

電話︰(02)2395-2396
地址︰台北市金華街111號
營業時間:10:30~21:00
店休:無

日品山西刀削麵 鮮甜爽口

位於民權大橋橋頭的日品山西刀削麵,在客人點菜之後立刻現削,吃起來更香Q帶勁。番茄口味的牛肉麵清新爽口,尤其是新鮮番茄在燉煮過後,每塊都十分多汁,不但有些微的酸味,更顯鮮甜,不習慣吃番茄口味,沒問題!店裡也有原汁牛肉麵,口味也一樣順口。

Mary推薦 番茄牛肉刀削麵/110元

雖然是紅燒牛肉麵的一種,卻洋溢著番茄的自然甘甜,為了避免番茄過酸, 還加入糖提味。刀削麵條也是一絕,Mary認為店家對火候的掌握非常精準,因此麵吃起來有種脆脆的感覺,非常過癮。

日品山西刀削麵

電話:(02)2769-8285
地址:台北市民權東路五段15號(民權大橋下)
營業時間:11:00~14:00/17:00~21:00



原汁湯頭 肉質鮮嫩ㄛ伊西 中南部名店推薦

記者周冠宏、朱正庭、武純淳/台中、台南、高雄報導
攝影/記者潘自強、陳建宏

台中 東佳牛肉麵 清爽濃郁任君選

香噴噴的牛肉麵一向是老少咸宜,尤其是面對「麵好、湯濃、肉大塊」的誘惑時,更是難以抵擋。位於公館路上的東佳牛肉麵,以十多種中藥材與香料組成的湯頭,香濃卻不膩口,小菜櫃上隨時陳列多種平價而獨特的手工現作小菜,擄獲許多饕客的心。

費奇推薦 清燉牛肉細麵/90元

融入肉與大骨精華的清澈湯頭,多了蔬菜、少了辣度,喝起來不覺油膩,反而有一種甘甜的鮮美。配合上溫潤養生的枸杞與大量的細蔥點綴,除了提味,視覺效果也更上層樓。

東佳牛肉麵

電話:(04)2375-6272住址:台中市公館路265號營業時間:11:00~14:00/17:00~20:00店休:每個月的第一與第三個週六

台中 黃牛肉水餃館 清甜不膩

外省口味的紅燒牛肉麵清爽不油膩,以實在的料理方式和清爽口感廣受主顧客喜愛。每天限量的自製小菜是搭配麵類的最佳選擇,沒有界定自家菜色的屬性,選用的澳洲進口牛肉,禁得起燉煮,口感不易軟爛,品嘗時湯汁無比濃郁,清淡中釋放甘甜。

費奇推薦 紅燒牛肉麵/80元

選用上等的腱子肉切成稍薄的肉片,麵條則選用容易吸汁的細直麵。撒上蔥花,整體屬於較清爽甘甜的牛肉麵種類,口味較偏甜辣,鹹度適中,教人垂涎不已。

黃牛肉水餃館

電話:(04)2320-5480
住址:台中市東興路3段202號
營業時間:11:30~14:00/17:00~20:30
店休:週二

台南 阿銘牛肉麵 慢工出細活

阿銘牛肉麵與其他店家最大的區別就在於湯頭的顏色,老闆李錦銘表示,光是燉煮牛肉就分為前奏和後奏,前奏指得是以大火快煮,讓湯色顯現;後奏則是用慢火細燉6個小時,使牛肉軟嫩入味。李錦銘表示,只要牛肉夠新鮮,湯頭裡就不必再添加中藥、醬油,只要以炒過的冰糖調味,即可品嘗到原汁牛湯的風味。

葉怡蘭推薦 牛肉麵/100元

用新鮮現宰牛肉熬煮出的原汁湯頭,滋味溫潤、甘醇含蓄,和北部重辣、鹹、油的牛肉麵口味很不一樣,再搭配上略顯粗硬的圓麵條,咀嚼間還有一股飽滿的辛香感,呈現出單純紮實的好滋味。

阿銘牛肉麵

阿銘牛肉麵
電話:(06)263-5523
地址:台南市健康路二段252巷17號
營業時間:11:30~19:30

高雄 三牛牛肉麵 食材紮實不打折

三牛的紅燒牛肉湯頭以一天兩次不斷重新加入洋蔥、牛骨等材料燉煮,不斷累積原湯精華,湯頭滋味更顯鮮甜、濃郁。店內的清燉牛肉麵口味,牛肉部分特別選用腱子肉頭筋較多的部位,口感同樣令人驚艷。

曾秀保推薦 牛肉麵疙瘩/80元

使用洋蔥等蔬果增加自然甜味,再加上牛大骨熬出精華的湯底,口感不膩;牛肉部分相當入味,筋肉比例恰到好處、軟硬度適中; 麵疙瘩則採手工揉製,嚼勁口感佳。

三牛牛肉麵

電話:(07)588-7264
地址:高雄市左營區勝利路85號
營業時間:11:00~20:30
店休:週一

高雄 高雄王冠牛肉麵 老店好滋味

自民國50年營業至今的王冠,第一代老闆在退休後苦心研究,融合家鄉安徽和四川口味的道地牛肉麵,受到鳳山附近官校、眷村族群的歡迎,名聲也逐漸遠播。為配合現代人較為清淡的口味,第二代老闆也特別將原來重辣的口味加以改良,但依舊保留了牛肉湯汁的濃醇,美味絲毫不打折。

費奇推薦 牛肉乾拌麵/80元(大)

將原來以牛骨慢熬出來的牛肉湯,再加料燉煮、濃縮成為乾拌麵的醬汁, 滋味濃郁,加上燉煮入味、軟硬度恰當的牛肉,十分合拍。

王冠牛肉麵

總店地址:高雄縣鳳山市光復路138號
總店電話:(07)747-2316
營業時間:10:30~20:30



五星蔡家牛肉麵 簡易上手DIY

記者馮亦寧/報導 攝影/記者陳俊良

經多年摸索、精心秘製而成的喜來登飯店蔡家牛肉麵源自蔡家私廚,不但受國泰蔡家喜愛,也成為用來招待政商名流、中外貴客的麵點,這樣的美味在家也能輕鬆做!本期邀請喜來登12廚副主廚陳春生,以量販店就能買到的材料,重現「蔡家牛肉麵」的好滋味!

大廚小撇步 陳春生/副主廚

「要做好蔡家牛肉麵並不難,其中最主要的麵條、小白菜、蔥花、牛肉都能在一般超市或量販店購得。只要懂得挑,不必上山下海,憑著好眼力就能挑到最適合的食材。

蔡家牛肉麵雖然是紅燒牛肉麵,但是整體口感稍帶辣味且偏甜,最重要的是,以牛骨、牛碎筋、雞骨熬成的高湯湯底還帶有膠質。平日在家若想要做出好喝的高湯,可以到傳統市場買牛骨熬煮,湯底就會變得更加濃醇。」

蔡家牛肉麵破解

材料:(10人份)
滷牛肉及牛大筋
老薑、紅辣椒、大蒜10g
米酒20c.c.
醬油30c.c.
八角、花椒1g
冰糖7g
青蔥35g
陳皮1g
草果1/2粒
水850ml
月桂葉1/3片
牛肋條1公斤

牛肉麵湯頭

材料:(10人份)
丁香1/3枝
八角2g
花椒、乾辣椒、桂皮1g
老薑12g
辣豆瓣醬14g
醬油10ml
冰糖10g
青蔥30g
牛大骨350g
牛碎筋200g
雞骨100g
水1公升

Tips

一般家庭都備有大部分材料,少部分香料則可以在中藥材舖子購得。

跟著主廚精明挑

選麵條

春生表示,由於市售冷藏拉麵麵條較扁平,可吸附較多湯,吃起來汁液淋漓, 很適合做蔡家牛肉麵。厚度則可增加咬勁,避免麵條被牛肉湯浸泡過後容易軟爛的缺點。

選青菜 主廚推薦

小白菜/15元
除了新鮮的優點之外,有機小白菜或者水耕小白菜的口感更顯鮮脆多汁。

宜蘭蔥/89元
宜蘭蔥香氣濃郁、口感鮮嫩, 是牛肉麵的最佳拍檔。

選調味料

蔡家牛肉麵最獨門的調味料就是豆瓣醬。陳春生強調,一定要挑選「辣豆瓣醬」,如果不是辣豆瓣醬,口味就沒有那麼棒了!

Tips
加了豆豉的豆瓣醬會影響牛肉麵的口味,選購時要避免選擇豆豉豆瓣醬。

跟著主廚做

熬高湯

STEP1 燉骨頭
將各式大骨洗淨後過熱水汆燙,接著放入水中熬9小時。

STEP2 爆香
將蔥、薑、乾辣椒、花椒以熱油爆香,再加入辣豆瓣醬慢炒之後,即可盛起備用。

STEP3 燉煮
把爆香的材料加入大骨高湯後,共同繼續燉煮3小時,高湯即可完成!

滷牛肉

STEP1 切塊
將牛腩切成長條狀,並過熱水汆燙以去除雜質。

STEP2 爆香
把蔥蒜放入鍋中以熱油爆香。

STEP3 裝滷袋
將陳皮、月桂葉等辛香料裝入棉布袋中,並放入高湯將牛腩滷至透味。

煮麵

STEP1 將水煮滾
一定要等到水滾了之後再把麵條放入水中,麵條才不會過於軟爛。

STEP2 攪拌
麵條煮熟起鍋之前稍微攪拌一下,才不會糊在一起。

STEP3 美味上桌
將之前完成的高湯、滷牛肉以及麵條一起裝入大碗內,完成美味的蔡家牛肉麵。

協力拍攝/大潤發中崙店

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研究報告發現,感冒的旅客到旅館投宿,離去後旅館房間的電視遙控器、電燈開關,甚至旅館提供的筆,都會沾染病毒。

這種細菌檢驗是在清理房間前進行,因此可能誇大旅館客人面對的風險。儘管如此,這種情況顯示客人退房後,旅館如果只換床單和擦洗浴盆,可能無法避免散播病毒。

維吉尼亞大學這項研究主要在檢驗鼻病毒(rhinovirus)的存活期。各種感冒約有一半是這種病毒引起,尤其是兒童感冒。

研究計畫安排15名得了鼻病毒感冒的人到附近一家旅館分別投宿,等他們退房後,檢驗他們曾觸摸的10種物品,發現其中大約三分之一沾染鼻病毒。

這些房間的14個房門把手有七個受到病毒汙染,15個電燈開關、電視遙控器和水龍頭有六個受到汙染,15具電話也有五具受到汙染。浴簾、咖啡機和鬧鐘也有病毒。

研究人員並未檢驗床單之類的東西,因為布料會使細菌乾掉,不像在平滑或潮濕的表面那麼容易存活。

幾個月後,有五個人回到這家旅館。研究人員事先把他們感冒時產生的黏液加以冷凍,抹在一些房間的一些東西上。由於他們已對這些細菌產生免疫力,醫師可以研究他們再度感染病毒的概率,而不致讓他們再度生病。

研究安排每名志願人員造訪兩個房間,事後雙手接受檢驗,發現在已讓黏液乾燥至少一小時的房間待過後,他們手上沾染病毒的可能性高達60%。在黏液已乾一個晚上的房間,感染病毒的可能性為33%。

旅館業人士說,他們對房間更換住客時如何消毒,訂有嚴格政策,並設法把各種共用物品變得更容易清潔。希爾頓飯店系統內務主管派克說:「從遙控器到電話,我們什麼東西都擦得乾乾淨淨。」

專家表示,家裡更容易受細菌汙染,除了用一般清潔劑擦拭家具、櫃檯、把手和電燈開關,最重要的還是多洗手。

【2006/10/01 聯合報】

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●如何洗米?

1.選用其他鍋子裝米,避免在電鍋內鍋洗米,以免米粒刮傷電鍋內側。

2.量杯量米時要刮平,現在電鍋多半是微電腦處理,米量越精準越好。

3.第一次洗米時,放入米量兩倍的水,稍微用手輕撥一下,就迅速將水倒掉。水倒到剩下一點點,若稍有懈怠就會使米吸收水分,也容易將水中的雜質、髒污一起吸收進去。

4.手呈爪狀,如同洗衣機般,快速順時鐘乾洗米30下,再倒入清水,這時不再攪拌,只將混濁的水倒掉。如此動作重複三次。

5.待水接近透明狀,盡其可能倒乾水分從第一步驟到目前為止,需在3分鐘內完成。

6.將米倒回電鍋內。

7.以礦泉水倒入鍋內,到指定的位置。煮出好吃的飯的三大關鍵,米、電鍋、水,因此水占的因素很重要,使用純淨的礦泉水,增添米飯的魅力。

8.以抹布擦乾電鍋的外鍋,以免影響使用年限。

●讓米好吃的魔法?

1.蜂蜜:煮飯前稍微加入一點蜂蜜,可讓蜂蜜中的酵素滲透到米裡去,增添甜味,不過蜂蜜倒入鍋內時,要與水稍微攪拌一下,否則鍋邊容易焦掉。

2.備長炭:可去除保溫時米飯的異味。

3.沙拉油:可增加米飯亮度,但不能增加米飯美味。

●如何保存米?

1.最好每次購買兩周內可食用完畢的米,保持新鮮度很重要。

2.未吃完的米,要將米裝入封口袋內,空氣太多會使米氧化,產生米糠臭,因此要將空氣擠出,放到冰箱最底層的蔬果保鮮室保鮮。

●如何保存白飯?

1.未吃完的白飯,可捏成一碗碗大小的飯糰,用保鮮膜或小塑膠袋包裝,或裝在保鮮盒內,盡量不要有空氣在裡面。

2.將飯糰放入冷凍庫,需食用時,依人數控制數量,再放到微波爐內加熱,就成了現成的白米飯。

【2006/09/30 聯合報】

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《商業周刊》前一陣子跑來採訪我老公(曾秀保),請他推薦熟食。只見他不慌不忙,從冰箱裡搬出瓶瓶罐罐,搬出電鍋、拆開海苔,擺出立即可食的「保式米飯宴」,讓採訪記者大吃一驚,從旁觀者變參與者。

不到一個小時的時間,4人聯手幹掉一鍋白米飯,外帶一小包微波的雜糧飯,大家頻呼:吃飯變得很簡單!

保式米飯宴的菜單開出來洋洋灑灑,有:白米飯、雜糧飯、日式味付海苔、日式蛋黃美乃滋、三島香鬆、XO醬、豆醬豆腐乳、麻油豆腐乳、肉鬆、醬瓜、蒜蓉辣椒醬、韓國泡菜、鱈魚肝、鮭魚鬆,以及蘿蔓、芽菜、黃瓜等生菜,還有自己炒製的烏魚子炸醬、榨菜肉絲等,而今日熱湯為熟成兩年的味噌湯。

米飯當然是保式米飯宴的主角,而且我家根本就是米飯的實驗室,因為我跟我老公是標準的「大飯桶」。打開冰箱有今年6月才收成的銀川鮮採米、日本最貴的新潟米、宜蘭五結的越光米、台東池上的冠軍糙米、花蓮原住民種植的有機黑糯米與紅糯米、美國進口的野米、泰國茉莉香米,以及煮起來帶有芋頭香的益全香米等等。

平時只要看到新奇的米,不管多貴都想試一試,拆封後又無法馬上吃完,所以全部送進冰箱裡冷藏保鮮(這也是儲存白米的最正確方法)。

其中我最愛銀川與益全,銀川米的種類很多,不過銀川一年只供應兩次鮮採米,強調稻米一經收割,不分晝夜進行乾燥、輾壓、包裝、宅配出貨,消費者收到的米才剛剛離地不到3天的時間,等於是全台灣最新鮮的米。

跟時間賽跑的米,煮出來不但滿室生香、晶瑩剔透、粒粒飽滿,而且外膜極薄,入口香Q,連日本頂級的越光米也比不上,原來最新鮮的米就是最好吃的米。

益全香米日前在全國稻米品質競賽打敗群雄,拿下冠軍的頭銜,事實上益全香米在市場上已經走紅很多年了,它最大特色在米飯本身帶有芋頭香氣,不過芋頭味最濃的時候在煮熟掀蓋的那一剎那,而且米粒分明而不乾硬。

記得5年前〈中國時報美食鑑定團〉就曾挑選日本越光、台灣益全與台灣越光等3款頂級米進行超級比一比,益全香米不但打敗台日兩支越光米,當時的評審之一鼎泰豐老闆楊紀華,第一次吃到益全香米便大表讚賞,直誇益全香米清香又有餘韻,而且非常適合用來炒飯。

為了健康的理由,我家冰箱常備雜糧米飯,周休假日用快鍋煮一大鍋(雜糧與水的比例為一比一,當漆漆聲發出後,轉小火,續煮15分鐘,燜到安全閥自動下降即可),冷透後用保鮮膜分裝,想吃時再打開微波就能變成熱騰騰的米飯。

而雜糧米飯裡少不了的是台東池上冠軍糙米,以及花蓮光豐農會掛保證的太巴塱黑糯米與紅糯米,另外再加一點兒有脆口爆香感覺的整粒燕麥,或是小麥、大麥、黑麥、蕎麥等均可。

主要配角是味付海苔與美乃滋。味付海苔我們偏愛尺寸較大的日本進口貨,以前也嘗試過塗有芝麻油的韓國海苔,但後者容易產生油耗味,而且麻油極易擾味,不如日本貨可口。

至於美乃滋也偏好日本進口的低油低脂蛋黃美乃滋,日式美乃滋的滋味偏酸,在保式米飯宴中可發揮開胃的功能,同時也能與生菜搭配。

雖然配菜大多是現成的罐頭菜,但仍需經過特選,例如:滿滿都是干貝的上千元半島酒店XO醬、額外加酒發酵的苗栗郭家莊豆腐乳、頗有臭豆腐乳架式的名揚坤昌行麻油豆腐乳、三重老字號的廣真香肉鬆等。

另外自家製作的小菜也能搭配,其中有運用台南復興園榨菜炒出的肉絲、把烏魚子切成米粒,再與絞肉、赤味噌炸出的創意炸醬等。

吃法很簡單,海苔做底,堆上一口飯,放入1﹣3樣配菜,擠上一坨美乃滋,最後撒上香鬆或肉鬆或魚鬆,折起來送入口中,美乃滋另外肩負黏著劑的功能,以免香鬆或肉鬆或魚鬆掉滿地。

有飯有菜可不能少了熱湯,味噌湯可簡可繁,簡易版只要豆腐、蔥花、海帶芽即可,繁複版可再加豆皮、柴魚、昆布、紅白蘿蔔、豬肉片、洋蔥、菇蕈(金針菇、柳松菇、杏鮑菇皆可)、蒟蒻結、小芋頭、大白菜或高麗菜等。

順便提示煮味噌湯的要訣,一定要等所有材料都煮滾熟透後,轉小火再將味噌調入,如此才不會把味噌的氣味與好菌都煮跑了。

保式米飯宴,保證每個人都跟我們倆夫妻一樣,變成愛吃米飯的「大飯桶」。

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美國太空人阿姆斯壯一九六九年七月廿日在月球表面說的名言:That's one small step for(a) man, one giant leap for mankind.(這是『一個』人的一小步,卻是人類的一大步),到底有沒有漏掉冠詞(a)「一個」,史學家與太空迷多年來爭論不休,如今終於真相大白。

休士頓紀事報報導,定居澳洲雪梨的程式設計師福特,最近利用加拿大製作的音效編輯軟體分析錄音檔案,發現阿姆斯壯那時說的是:That's one small step for a man, one giant leap for mankind.

福特認為,阿姆斯壯當時說的話文法正確,他並沒有漏掉「a」,只是因為他說話速度太快,一九六九年的收音技術無法精確捕捉他說的每一個字,以致全世界守在電視機前的觀眾以為登月第一人說:「這是人的一小步,卻是人類的一大步」(That's one small step for man, one giant leap for mankind.)。

曾為阿姆斯壯立傳的奧本大學歷史學者韓森說:「我檢查過錄音資料,也看了福特的分析,我認為他使用的科技不僅有趣,也很實用。他的結論頗具說服力。」

福特表示,阿姆斯壯說「這是一個人的一小步」時,只花了卅五毫秒,速度太快,如果把速度放慢十倍,就能聽到「a」。他說,「a」的聲音,的確從月球傳送到休士頓美國太空總署任務管制中心。

現年七十六歲的阿姆斯壯說,登月艙抵達月球表面後,他和太空人艾德林在艙裡待了六小時又四十分鐘,他趁這段時間想出這句話。阿姆斯壯表示,若用無線電聽他講話,常會聽不到他說的母音。

曾任電視新聞主播的福特說,他本來認為這個爭議相當愚蠢,不值得花時間討論,但是後來又想:阿姆斯壯這樣優秀而且一絲不苟的飛行員,不可能把這麼簡單的一句話說錯。

兩星期前,他從網路下載了那段話的錄音,並用軟體分析。他說,那句名言是說給全人類聽的,最好能將它還原,「那句話簡潔動人,刻畫了人類發展的里程碑,必將傳誦千古」。

【2006/10/01 聯合報】

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