西陣というのが、どこからどこまでをさすかは明確ではない。
広めにみると、東西は烏丸通から西大路通まで、南北は北大路通から丸太町通までのようだが、中心は、東西は堀川通から千本通、南北は鞍馬口通から今出川通、というあたりだろうか。

歴史的には、応仁の乱で西軍が山名宗全邸を本陣にしたことから、西陣の名は発している。
この戦乱がある意味ではまぬけなところがあって、戦闘が激しかったのは初期の数年で、やがて東西両軍とも有力なリーダーを失い、求心力・戦闘力を欠いたにもかかわらず、有力な調停者がこれまた現れなかったもので、約11年の長きにわたって、都を荒廃させることになってしまった。
しかし、焼け野原となった都を逃れ、堺などに移転していた織物業者が、戦乱後この一帯に戻ってきたことで、西陣は再び活況を呈することになる。
地名としての西陣より先に、西陣織の名をおぼえた人も多いかもしれない。

この町を襲った三大危機は応仁の乱と明治維新、そして第二次大戦といわれる。明治維新と第二次大戦は、西陣を焼け野原にしたわけではないが、生活の洋風化が、織物の町に大打撃を与えた。
しかし西陣は、そのつど技術革新や生産アイテムのシフトなどで生き延びてきた。明治期にはジャガード織の技術導入、最近ではいち早くコンピューターを導入するなど、必ずしも伝統工芸の立場に安住しているわけではないのである。
和服を着る人の少なくなった現在は、もちろん往時の盛況はないが、いまも町の角々で、織機が動く音を聞くことができる。

織物の町西陣を、集約して概観することができるのが「西陣織会館」
堀川今出川の交差点近くにあって、西陣織の歴史と現在の展示・実演、高級着物からちょっとした小物までの展示・販売が行われているので、町の性格を理解する予習ができる。一日に数回着物ショーが行われるので、その時間を確かめて訪れるといいだろう。
実は本格的な西陣織りの着物となると、百万円単位になるので、近年は帯が売れ筋となっているらしい。せめて帯だけでも西陣という人がいるのだろうか。
ショーの中でも、色々な結び方が楽しめるよう工夫された帯が紹介されたりしていた。

その西陣織会館から西へ歩き、大宮通に出て少し南へ下った一角には、昔ながらの京町家が立ち並ぶ。
観光的に有名な寺社の少ないこのエリアに、近年観光客が少しづつではあるが増えているのは、こうした町家の保存・再生運動に負うところが大きい。
今も織物を商う商家や、昔からの住民の他にも、京町家に住みたくて、あるいはギャラリーや飲食店として使いこなしたくて、わざわざ西陣界隈に移り住む人も増えているとか。

以前名月の項で書いた、京都在住の写真家・水野克比古さんのギャラリー「町家写真館」もこの一角にある。
この日は特に展示会を行っていなかったようで、ご用の方は斜向いの水野まで、と書かれた札が下がっていたが、あの節はどうも、なんてあいさつに寄るのもなれなれしすぎるのでやめておいた。

他にも、ギャラリー&軽食「フォーカルポイント」や、予約すれば町家の暮らしや京都の生活習慣を体験できる「富田屋」、中をのぞかせてくれる学習塾「町家の勉強部屋・西村塾」などがある。
漫画家南久美子さんのギャラリー「Machiya de ほっ!」には、「京町家再生工房」という看板も掲げられており、町家再生運動が、ある種の事業になる規模まで育ってきたことを想像させる。

こうした町家にはじめて住む人は、現代の住宅の居住性との落差に戸惑うらしいが、しばらくすると馴れてきて、暮らしのペースがすこしづつ変化している自分に気づく、というような記事を読んだことがある。
たしかに手狭だろうし、きっと冬寒く夏暑く、機能的な暮らしというわけには行かないかもしれない。
多分プライバシーもやや侵食されがちになることだろうが、その分「町に住む」という感覚ははるかに強くなるにちがいない。
一時東京の根津に住んだことがあって、あの町の感覚をなつかしく思う私には、京都での町家暮らしも、魅力的にちがいないと思えるのである。
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