民國82年10月,臺北市博愛路上的功學社,幾位青年背著電吉他,分別在隔成小間的教室裡教著學生。熱衷搖滾樂的他們,例如石錦航和溫尚翊,那時候還不知道自己將成為臺灣流行樂界的知名人物;另一位靦腆的年輕人林煒盛,也不知道自己將和其他同事們走上全然不同的音樂道路。

民國104年10月,林煒盛穿著輕便、提著一把從隔壁菜市場剛買的蔥,走進咖啡廳接受訪談。在爵士樂好手雲集的紐約歷練十餘年的他,回到臺灣,依然像個樸實誠懇的鄰家男孩。

出生於台南的林煒盛,自幼就對音樂極感興趣,小學舉家遷至臺北後,學了好一陣子的小提琴,卻一直沒有進到音樂班的正規訓練之中。之後,他聽起西洋音樂,因為熱愛六、七零年代的搖滾樂,在高中開始接觸吉他,尚就讀於臺灣大學哲學系一年級時,便已成為博愛路功學社的電吉他教師之一。不過,那時夢想著「當個哲學家」的他,和爵士樂仍是毫無關係的兩條平行線。開始教琴之後,林煒盛慢慢接觸到搖滾樂之外的其他樂風:「那時候偶然聽到一些爵士樂的CD,可是都聽不太懂,不知道他們到底在吹什麼?」一位朋友告訴滿心困惑的林煒盛,如果想要聽得懂爵士樂,得像學習搖滾樂一樣,向老師自基礎樂理、和聲學從頭學起。於是林煒盛找了一位老師,和五、六位同學一起到老師家上團體班樂理課。某次樂理課課後,吹薩克斯風的董舜文詢問林煒盛,他們想要組一個爵士樂團,不知道林煒盛想不想一起玩?「只是,」董舜文說,「一個爵士樂團可以沒有吉他,但絕對不能沒有貝斯。」林煒盛思考一陣之後,便轉行去學貝斯。

那時,林煒盛跟隨的老師金木義則,白天在聯合管弦樂團(即現在NSO國家交響樂團)拉低音提琴,其他時間也在林暐哲所創的Baboo樂團彈奏電貝斯,林煒盛決定向老師從電貝斯學起。過了一段時間,老師建議他,如果真的想學習爵士樂,還是得練習低音提琴,因為在一般認知的爵士樂領域裡,電貝斯仍較為少見,於是林煒盛也就一併學了低音提琴。金木老師有時接了數個場子,難免分身乏術,學了半年之後,大學二年級的林煒盛就過起白天在學校上課,晚上到大飯店幫老師代班的日子。「遇上學校的期中考、期末考,其他樂手坐在那裡放空等著上臺,我卻要抓緊時間拼命唸書」,回憶起當年景況,林煒盛依舊印象深刻。

幾次上臺之後,林煒盛慢慢認識了音樂圈內的人,也有人在看了表演之後,主動遞上名片要找他合作。因為數次美好的經驗,林煒盛在大學三年級時決心要成為一名樂手。然而,當年在臺灣的資訊取得非常不易,金木老師因此勸告林煒盛,務必要前往紐約繼續深造。考量到時間與金錢,林煒盛計劃到紐約唸兩年碩士,用最精省的方式完成自己的學業,但在準備托福與錄製徵選錄音帶(audition tape)的過程中,林煒盛也數度懷疑,真正的學習必然是在夜晚的jam session等舞臺上,那麼進了學校究竟能習得什麼?當他想通這點,決定把學生身份做為安心待在紐約的憑證時,申請的學校紛紛寄來了錄取通知,數所學校甚至給了他全額的獎學金。最後,林煒盛選擇了紐約州立大學普切斯分校(Purchase College, State University of New York),踏上了他的音樂冒險旅程。

到了紐約,林煒盛平日白天上課,晚上便開一個半小時的車到曼哈頓參加jam session。大部份的jam session時間約是半夜12點到清晨5點,參加人數眾多,在報名表單上簽了名字之後,等待兩、三個小時才上臺也是常有的事。有時林煒盛提早到了現場,就會從後車廂拿出準備好的睡袋、調好鬧鐘,先在車上小睡一下。但好幾次實在是睡得太熟,一覺醒來,外頭天已悄悄地亮了。這樣的日子過了大約兩個月,林煒盛覺得自己只要再多加強一些不足之處,應該能夠在當地生存。為了儘早達成自己的目標,林煒盛戒掉了吉他,專心彈奏低音提琴,「因為紐約是非常專業的地方,並不允許一個半調子。」

對於林煒盛來說,jam session既是殘酷舞臺,也是進步契機。儘管上臺時間只有短短的十幾分鐘,又常會因經驗不足遭人擺臉色,而其他時間也僅能坐在臺下等候或觀看,林煒盛卻不以此為苦。他仔細觀察樂手們的互動,聽到不認識的歌,會詢問身旁樂手後把曲名抄下,過幾天便到唱片行買下CD回家聽熟,有時被他人嘲笑或白眼以對,他也不以為忤,反而藉此來審視自己的真正程度,並且努力張開耳朵聆聽,讓自己一次比一次更加進步。「爵士樂是非常依賴耳朵的藝術」,林煒盛說。jam session舞臺上,不僅不能帶譜,若有樂手要求轉調,也得立刻照做,這並不僅是依靠記憶能力,而是真正的通曉和聲,將和弦內化在心中。透過一次又一次jam session的磨鍊,林煒盛從曲目的熟習到心態的輕鬆,終於一步步地邁向職業樂手之路。

林煒盛說:「做為一名職業樂手,和聲是最基本的語言。好的職業樂手靠的不是默契,而是實力。」身在「世界爵士之都」的紐約,爵士人才濟濟,出門做場時遇到的樂手總是不同,表演前也不會有排練的機會,但是到表演現場後,第一個音落下,全團的拍子卻能緊密地結合在一起。聽眾常以為這樂團至少已經為此排練無數遍,但事實上,一次都沒有——樂手們甚至不認識彼此!

關於爵士樂的學習,林煒盛說:「學音樂應該要用耳朵去學,而不只是用頭腦去學。」許多人在學習樂理後,知道哪個音階可以搭配哪個和弦,之後每次solo遇上那個和弦便永遠都只跑那個音階,林煒盛認為,「這樣根本就是在算數學!」然而,學校並無法直接教導學生如何感覺音樂,只能傳授音樂上的規矩,面對這個狀況,林煒盛分享:「我在美國遇到很多樂手,他們都是從小開始接觸樂器,東玩西玩後就知道哪個音好聽、哪個音不好聽。當他玩了好一陣子,甚至在外頭有個樂團、有點名氣,才進到學校學習規矩。這種人進到學校,是讓規矩印證自己所學,而非學了規矩後,一輩子都被限制在框架之中,而不靠耳朵和感覺。」

民國88年旅居紐約至今,熱愛音樂的林煒盛,從一個惶恐的小伙子,蛻變成目前紐約唯一臺灣出身的職業爵士樂手。林煒盛認為在音樂的世界裡,答案並不是他人給的那個唯一,而須透過長時間的嘗試才能獲得。就算自己找出了最佳解答,這個答案也將隨著時間與個人學習歷程而有所變動。「音樂永遠沒有標準答案」,林煒盛堅定地說。

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歌は世に連れ、という言葉がいつからあるのかは定かではない。でも、大衆音楽という言葉が広まった頃から、そういう言われ方はされていたのではないだろうか。ヒット曲とその時代、世相や社会背景、そして、その歌い手の人気。いくつもの要因があってヒット曲が生まれる。

でも、そうした曲の中で、どんなに時が流れて時代が変わっても廃れない歌がある。“名曲は時代を超える”というもう一つの永遠の真理がそれだ。時を超えて歌い継がれ語り継がれる歌。この10年あまりのカバーブームは、そうした曲達に対してのリスペクトの表れでもあるだろう。

とは言え、中には曲の知名度を頼っただけの心ないカバーも少なくない。それら凡百のカバー作品の中で、抜きんでているのが、女性では坂本冬美の「Love Songs」シリーズであり、男性では徳永英明の「VOCALIST」であることは言うまでもない。心ある音楽人と心技の備わった歌い手が、時を超える名曲達に新たな命を吹き込んでゆく。その両方の作品に特筆しなければいけないのは、歌い手自身にとってもそれまでの自分のスタイルにはなかったチャレンジだったことだろう。そのことがより一層原曲の魅力を引き出すことになり、リアルタイムで原曲を知らなかった聴き手に届いてゆく。それは、“歌のつたわり方”の理想的な形といって過言ではない。

前置きが長くなっている。でも、坂本冬美の「ENKA~情歌~」は、そうした流れの中で語られてこその作品ではないだろうか。すでに「Love Songs」シリーズを6枚、60年代のカバーポップスや70年代のフォーク、ポップス、ニューミュージック、更に洋楽のラブソングまでを網羅、オリジナルのアルバムも一枚あった。どれも、選曲だけでなく、小節を封印した歌い方も含め、彼女の本来の演歌路線とは違うアナザーサイド的な発見に満ちたアルバムでもあった。

この「ENKA~情歌~」は、そうではない。どれも彼女が生きてきた世界を象徴するような曲が並んでいる。オリジナルを歌っているのも、“その道の大先輩”ばかりだ。

今、なぜ、このアルバムなのか。プロデューサーの山口栄光は、こう言った。

「「Love Songs」のシリーズは6作で一区切りにして終わろうと。ただ、坂本冬美のカバーというのは浸透してきたし、今年はデビュー30周年ですからね。3月と8月に演歌シングルも出しましたし、今年は演歌の年にしよう。演歌に対するリスペクトと感謝を込めて、「Love Songs」の延長でカバーしようと。これは色んなところで彼女も言ってますけど、坂本冬美は、小学生の時に、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」を聞いて初めて演歌歌手になりたいと思った。彼女の中には色んな演歌がある。基本的に、彼女が影響された、育てられた演歌を選んでいます。「Love Songs」もそうだったんですけど、いつも候補曲を、20~30曲は選んで、スタジオでギター一本で歌ってみるんです。アップテンポの曲が少ないから構成上これも入れようとか、合い過ぎる歌をあえて外したりとか、で決めていきました。」

石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」を聴いて演歌歌手になりたいと思ったーー。

そういう意味では、“坂本冬美を作った10曲”ということになるのかもしれない。ただ、“「Love Songs」シリーズの後に歌うと”というところを見落としてはいけない。

そのパートナーに選ばれたのは、アレンジャー・プロデューサーの坂本昌之だった。徳永英明の「VOCALIST」シリーズや平原綾香のデビューに関わったプロデューサーである。山口栄光は「心中覚悟でお願いした」と言った。

坂本昌之「30周年のターニングポイントになるアルバムに丸々関わらせて頂くという大役を演歌でやる。とてもシビレました(笑)。徳永英明さんのアルバムは経験してますけど、演歌にジャンルを絞るということは自分が音楽の世界で生きてゆく上でかなりの覚悟も要るでしょうし。大丈夫か、みたいなすごく重い物がありました。一応、全部原曲は知っておりました。若僧と言いながら、自分も50になってしまったんですけど、演歌という様式美の世界というか、演歌の決まりごと的なものが、あるじゃないですか。それが本当に強い楽曲と意外とそうでもない曲がある。そこに何か新しいといいますか、香り付けといいますか、それが一番難しかった。どれも素晴らしいし、そこに勝つとか負けるとかじゃなくて、奉納するという気持ちでした。」

奉納、である。

去年50才になったポップス系音楽家にそう思わせてしまう曲が並んでいる。

そして、どれも従来のカバーとはひと味違っている。その要因が、アレンジにあることは間違いない。そこに彼女の歌が相乗効果のように加わっている。演奏が歌を刺激するのか、歌が演奏を牽引するのか。アルバムの聴き所はそれだ。

山口栄光「ジャンルとしては演歌であるけれども、ポップス的、ロック的な要素を持っていたり、フォーク的な要素を持っていたりする歌が、沢山あります。ロックテイストに仕上げてもらった「石狩挽歌」もそうですけど、その洋服を変えて、今の時代の洋服を着させてあげれば、といっても10代〜20代は無理かもしれませんが、30代〜40代ぐらいの若い世代の人たちが演歌っていいねと、ちょっとでも目を向けてくれたらというのが、根っこにあります。」



1・「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼/作曲・浜圭介)

ロックテイストに仕上げてもらった。洋服をちょっと替えてみる。その代表がこの曲ということになる。1975年、北原ミレイが歌った曲で知られている。ニシンが捕れなくなってしまった海を舞台にした挽歌。バンドのグルーブが醸し出す、北の海を思わせる低く重いうねりのような“底流感”。誰もが知っているフレーズを生かしつつ、ロックバンドならではの“揺れ”は、この曲の生命線だろう。間奏のギターソロも効果的だ。身をよじるようなヴォーカルのタメの快感。演歌でもロックでも、ソウルでもブルースでもいい。

ここにジャンルはない。

ミュージシャンのクレジットを見て欲しい。(*山木秀夫(D)、高水健司(B)、今剛(G)、坂本昌之(Key))近年は井上陽水や福山雅治、70年代から一線で活躍するミュージシャンたち。生演奏でしか作れない“うねり”であることは言うまでもない。

レコーディングで最初に取りかかったのが、この曲と「舟唄」だったと言う。

山口栄光「この曲のサウンドで冬美本人が最初に仮歌を歌った時に、「鳥肌が立った」と言ったんです。このメンバーは彼女は初めてですし、坂本昌之さんじゃないと集まってくれない。今度は、バンドのメンバーが、彼女が仮歌を一節歌っただけで、やっぱりすごい鳥肌が立ったって。それまで接触のなかったジャンルの人たちがお互い震えたんですよ。」

坂本昌之「その時は本当にすごかったですよ。大役というプレッシャーもありましたし、このアルバムがどうなっていくかという船出でしたから。この曲は日本のソウルだと思うし、それをこのリズム隊でやったらどうなるか。自分でも心中出来るミュージシャンを集めて一発目のレコーディング。 音決めが終わって、譜面をみて説明して、それでは1回演ってみましょうかと、軽く仮歌をお願いしての1発目の時に、既に、凄かったんですよ。僕は、こん風になったらいいな、と思って譜面は書くわけですけど、そこから先は生身の人たちがどんな魂を入れてくれるかしかない。たぶん、冬美さんの歌に導かれて、この素晴らしいメンツが、ほとんどテイク1。自分も感動してしまいました。」

2・「大阪しぐれ」(作詞・吉岡治/作曲・市川昭介)

この心地良さは何だろう、というのが最初に聞いた印象だった。1980年に発表された都はるみの後期の代表曲。口ずさみたくなるメロディーはそのままで、跳ねたリズムが歌に軽やかさを与えている。“洋服を変える”ということはこういうことだという一曲だ。

レコーディングの最後の曲だったそうだ。

山口栄光「この曲が一番“遠い”と思ったんです。合う洋服が見つからない(笑)。ド演歌と言えばド演歌ですからね。それで最後にした。順番は僕が決めました。一番難しかったのはリズムの組み方ですね。一番時間がかかった。すごく悩んでもらってやっと見えたというのが、このリズムでした。」

坂本昌之「どんな洋服がこの曲に似合うか、色んな着せ替えを一番やった曲でしょうね。歌謡曲をポップスにするという一般的な、ことではなくて、「大阪しぐれ」というど真ん中の演歌で、歌をどう聴かせるかのアンサンブル感とかを見たかった。たとえばギターだけでやるとか、そういうそぎ落とし方だけでは駄目で新しいグルーブを作らないといけないと。演歌のリズムの“跳ね”と洋楽の“跳ね”とあると思うんです。何度やっても“違う”と曲から言われているみたいな気がして。でも、そこから逃げちゃいけないと思いましたね」

3・「津軽海峡・冬景色」(作詞・阿久悠/作曲・三木たかし)

様式美という意味では「大阪しぐれ」とこの曲は双璧だろう。聴き手にすり込まれているイメージの強烈さも含めてだ。更に、自分が小学生の時に聞いて、演歌歌手になりたいと思ったという運命を変えた曲をどう自分の色に染めてゆくか。アコースティックギターとストリングスの叙情。ピアノをバックにささやくような歌で始まってゆく。誰もが知っている景色でも、こんなに違って見えるのかという一曲だ。悲しみを抑えこんだ語りかけるような歌い方は、これまでの坂本冬美にあったのだろうか。あの歌の中の叙情性を濾過するとこうなるのだと思った。

山口栄光「それは「Love Songs」6作品の産物でしょうね。彼女がデビューした「あばれ太鼓」からずっと“直球ボール”か“切れのあるボール”が持ち味で、変化球というか、歌で言うと“語り”とかがあまりなかったんです。若い時は直球でいいんですが、都はるみさんが「北の宿から」で“語り”に変わったみたいなこともあっての「Love Songs」でしたから。この曲は以前から歌ってますけど違う感じが表現出来たと思います。」

坂本昌之「色合いとしてそんなには変わってないですけど、ちょっと水彩画と言いますか。オリジナルのイントロも好きですけど、あえて違えている。アコースティック感と言いますか。冬美さんの声を中心にした時のトータルなアコースティック感を大事にしてます。個人的にはエンディングのメロディーが本当に好きで、絶対に使いたかったんですよ。」

4・「舟唄」(作詞・阿久悠/作曲・浜圭介)

劇的で叙情的、更に叙事的で物語性に富んだ曲。日本の歌謡曲が生んだ史上屈指の名曲がこれだろう。歌唱力という範囲に留まらない歌い手の表現力が問われる曲。八代亜紀がロック系のイベントに出てこの曲を歌った時に、冷やかし半分で見ていた若い観客がボロボロ泣いていたという話は有名だ。この歌を歌う時のうっすらと笑みを浮かべた八代亜紀は、まさに横綱相撲の貫禄を感じさせる。坂本冬美にとっては、相手にとって不足がないという曲だろう。そして原曲とは違う、しなやかさと健気さで歌いきっている。バンドのメンバーは「石狩挽歌」と同じく山木秀夫(D)、高水健司(B)、今剛(G)、坂本昌之(Key)である。“歌心”というのは、こういう演奏を言うのだと思う。

坂本昌之「冬美さんの自然体にこちらがついてゆく感じでしたね。歌に引っ張られてこうなった気がします」

山口栄光「仮歌の一発目から一番良かったのがこの曲ですね。まさに語りの歌で、彼女がこの5,6年やってきた良い部分が出ている気がします。ゴツゴツした感じがなく、しなやかな語りが出来たと思いました。」

5・「千曲川」(作詞・山口洋子/作曲・猪俣公章)

気がつかれただろうか。全10曲、前半4曲と後半4曲が女性の歌だ。折り返し点の5曲目と最後の10曲目に男性の歌が入っている。1975年の五木ひろしのヒット曲。作曲の猪俣公章は、坂本冬美の育ての親。「あばれ太鼓」の作曲者でもある。ただ、あの歌とはかなり世界が違う。ご当地ソングの定番であり、ジャンルを超えた唱歌として広く親しまれている曲だ。イントロからアレンジャーがピアニストだということを再認識させる仕上がりになった。

坂本昌之「五木さんって、声に力があるというか、“来る”じゃないですか。「津軽海峡・冬景色」は、あの曲のある要素を救い出した感じですけど、これは、新しい服を探しに行った感じが特にします。ピアノ叙情歌というか。メロディーが良い意味で唱歌、川の音が聞こえてくる感じで良いかなと思ったんですよ」

山口栄光「猪俣公章先生って、どちらかというと、洋楽好きで、演歌でもおしゃれな曲が多いと思っています。この曲も叙情歌のような作品なので、アレンジもそのような方向でお願いしました。」

6・「越冬つばめ」(作詞・石原信一/作曲・篠原義彦)

日本語の特徴の一つに“擬音語・擬声語”がある。音や状態を表した言葉。そこには意味がないだけに、イメージが広がってゆく効果もある。もし、この曲に“ヒュルリ”という言葉がなかったら、どうなっていただろう。83年に発売された森昌子の代表曲。石川さゆりの歌でも広く知られている。作曲の篠原義彦は、円広志の本名だ。この曲もピアノが、印象的だ。哀しみを増幅させ、これでもかと涙を誘うのがオーケストラだとしたら、この曲は、そうではない。細やかで密やかで、壊れそうな哀しみを抱えている。

坂本昌之「事前に山口さんにアレンジのデモを聞いてもらったんですが、イントロがあまり悲しくないという意見があって。僕の中では、それなりに悲しい感じだとは思ってましたけど、もっとどうしようもないくらい悲しいものをというテーマで。そこから“哀しみの扉”を開けていきました。感情を過剰に表現する、という演歌は多いですけど、そうならないのがポップス系の演歌かもしれない。オケの厚い薄いで言えば薄いんですけど、水増しじゃないんですよね。関西のうどんみたいにしっかり味がついてます。」

山口栄光「坂本冬美はこの6年の間に、“歌いすぎない世界観”の作り方を自分で体得したというか、自信になったと思います。Love Songsのレコーディングで体得した語りの歌唱が、もっとも生かされた一曲になったと思っています。」

7・「人生いろいろ」(作詞・中山大三郎/作曲・浜口庫之助)

歌謡曲のヒット曲で知られている作曲家の中には意外なキャリアの人が少なくない。「大阪しぐれ」を書いた市川昭介が、ハワイアンをやっていたという話は、不勉強ながら今回初めて知った。歌謡曲の土台を作った人たちが、ジャズやハワイアンなどの洋楽出身者だったというのは興味深い事実だろう。この曲を書いた浜口庫之助もその一人だ。ハワイアンバンドを組んでいたこともある。歌謡曲の中に“軽さ”という要素を持ち込んだ一人と言っても良いかもしれない。1987年、島倉千代子がこの歌を発表したのは49才。50代になって大ヒットした。1950年代、10代でデビュー、純情歌謡として一斉を風靡した彼女が、可憐な大人の歌手として蘇った曲だ。アルバムの中で、原曲よりも分厚い印象があるのはこの曲だけだろう。

坂本昌之「これは「越冬つばめ」と逆でしたね。最初のスケッチを聞いた山口さんから、ちょっと哀しすぎるって。「人生いろいろ」の中の哀しい面を表現しようとしてしまったんですね。哀しみを明るい感じで包むという。アレンジ的にはめちゃめちゃ、歌謡ポップスにしたかったんです」

山口栄光「この曲は、完全にアップテンポのポップスにアレンジして欲しいとお願いしました。」

8・「愛燦燦」(作詞・作曲/小椋佳)

島倉千代子の次は、美空ひばりである。女性歌手のLEGEND的大御所の代表曲が並んでいる。とは言え、この曲が選ばれているのは意外かもしれない。作詞作曲は小椋佳、発表は86年。美空ひばりのキャリアの中では後期の代表曲。これも彼女が49才の時の曲だ。島倉千代子と美空ひばり。戦後の歌謡曲の二人の歌姫が共に“人生”を歌った49才の曲というのは偶然だったのだろうか。有名な曲というよりは“坂本冬美を作ってきた曲”。しみじみした郷愁感は、若い時には出せなかった味だろう。

山口栄光「最初に15曲から20曲くらいを選んでこの中からやろうと言ってたんですが、それ以外に本人が希望したのが「愛燦燦」と「かもめの街」なんです。この2曲ともギター一本で歌って貰った時のしみじみ感がとてもいいと思いました。」

坂本昌之「小椋佳さんの曲って、すごい郷愁感があるなって子供の頃に感じたんですね。切ないというか、懐かしいというか。「木戸をあけて~家出する少年がその母親に捧げる歌」というのがあって。普段は思い出さないですけど、この曲のクレジットを見た時、そういう封印されていたものが、バーっと出てきましたね。僕、北海道でしたから、千春さんとか、そういうフォーク的なものがルーツにはあるんでしょうね。」

9・「かもめの街」(作詞・ちあき哲也/作曲・杉本真人)

坂本冬美本人が強く希望したというもう一曲がこれだ。ここ数年、静かなブームになっている「黄昏のビギン」ではなく、88年にちあきなおみが発売したアルバム「伝わりますか」の中の曲というのも、彼女の中の時代性とのリアリティの表れだろう。山口栄光が何度となく口にしている“語りの歌”という意味での真骨頂。台詞の入った作り方といい、これ以上ないという曲だ。波止場のかもめに託した悲哀。行く場所も帰る場所もないさすらいの人生。アコーディオンが詠嘆感を一層深くする。アルバム最大の聴き所。この曲のための曲順だったと言っても過言ではないと思う。

坂本昌之「ちあきさんはBOXで知ってましたけど、アルバムの中でこの曲を聴いた回数が一番少なかったです。原曲のアレンジをしていた倉田信男さんを超リスペクトしていまして。他の曲と色合いが違うんです。最初にラインアップの中で「大阪しぐれ」とこの曲は難易度が高いなぁ〜と。どうしようかなと。最後は、こういうタイプの曲ですから、冬美さんの歌に導かれていこうと、開き直りましたね。この曲は、人生で初めてクリックなしで全編を指揮しました。今までちょっと恥ずかしさもあったんですけど、こんな風に歌って頂いて進行役がいないと無理だな、恥ずかしいとか言ってられないと思ってやりました」

山口栄光「究極の語り、ですから。この曲だけクリックを使ってない。指揮棒を振ってやったのは、この曲だけですね。ちあきなおみさんの曲を何か入れたいねって。これと「紅とんぼ」のどっちかだった。」

10・「星影のワルツ」(作詞・白鳥園枝/作曲・遠藤実)
 

アルバムの最後は、海外でも広く知られている曲だ。千昌夫の66年のヒット曲。特に中国や台湾に行ってこの曲の浸透具合に驚いた人も多いだろう。牧歌的でおおらかなスケールが「かもめの街」とまさに対極。ジャズバーで聞いているような上品さも曲が内包しているからこそだ。アレンジが変われば世界も変わる。一枚のアルバムの中の劇的な起承転結。配信でしか音楽を聴いてない人には未体験かもしれない。

山口栄光「この曲はフォークと言ってもおかしくないと思います。感情を入れ過ぎずに歌ってもらいまいた。歌い継いでいきたい1曲です。」

坂本昌之「ジャジーというか。ドビッシーとかショパンまで行かないですけど、おしゃれ寄りなクラシックと言いますか、叙情派な感じと歌謡曲を融合出来たら良いなと思っていました。」



全10曲。どれも新たな装いをまとっている。それでいて曲の根底に流れているものは変わらない。むしろ、より鮮やかに情景や物語が浮かんでくる曲も多い。そして、どの曲も、ジャンルという区分けをすることに意味を感じさせない。

アルバムのタイトルは「ENKA~情歌~」である。「ENKA」という言葉は彼女自身から出たのだそうだ。炎歌でもなく、艶歌でも怨歌でもない。人と人の人情、それぞれの人の喜怒哀楽という感情。英語で言うと、エモーショナルソング、ということかもしれない。

“情歌”と書いて“ENKA”と読ませる。

取り上げるべき曲は、まだまだありそうだ。

音楽評論家 田家秀樹
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第一次做蚵仔煎就上手,非常好吃。

材料:蚵、蛋、地瓜粉、蔥
調味料:魚露、白胡椒粉、糖

做法:
1.蚵用鹽和酒和水漂洗一下,如果蚵還有一點硬殼要挑掉。
2.地瓜粉加水,再加入魚露和白胡椒粉和蔥丁,再加點糖調成麵糊。
3.蚵用熱水燙幾秒鐘撈起備用,這樣是為了怕下鍋時蚵會出太多水。
4.把蚵放入麵糊中稍微攪拌。
5.鍋中放少許油,放入麵糊,稍微煎一下,再倒入打散的蛋液,把兩面煎到金黃即可,吃時沾甜辣醬或海山醬。

*麵糊調濃稠些煎出來的餅皮就會比較厚有嚼勁。
*麵糊和蛋一定要煎到微焦才更香。
*吃蚵仔煎一定要沾醬,如果有泰式甜辣醬也很合適。
*麵糊裡一定要加白胡椒粉和蔥丁,另外也可跟小白菜一起煎。

這是參考我最近很愛看的曼食慢語:
https://www.youtube.com/watch?v=NhQOHMsOu-k

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有鑑於越來越多懷抱夢想的人紛紛洽詢自力圓夢的發片計劃,特抽空整理以下專文,跟一些想發片的歌手或想自己搞張原創專輯的朋友們分享:

首先你要確定自己擁有以下幾項其中的條件/
1.你對唱歌.或音樂這件事有著莫名的狂熱與堅持下去的意志.
2.你曾立志要當歌手或創作人
3.你有天生的好歌喉或外型想讓更多人認識你
4.或你會創作好聽動人的音樂作品想透過管道發表

那有興趣的就讓我們先來了解一下,一般製作一張唱片大約會是經歷那些規劃中的流程吧!!

以下是介紹如何製作一張專屬自己的唱片並上架發行的模式流程概念。

一、開案啦!!召開企畫案會議決定唱片主題、歌手形象、收歌曲風討論。
(當然這只是一個概略的說法,不過這是大唱片公司的制式作法,有的會週週定期開會討論,但現今很多像我們這樣的小工作室獨立製片,不外乎就是一有空關起門來大家熱烈討論一下。)

二、依曲風需求對創作者邀歌。
將聽眾群設定好,並透過許多次的討論、開會選出最適合的歌。(唱片人通常會有一點小圈圈及私心,有案子習慣性也是會先發給比較熟識並有合作過經驗的老師,這中間可能先中意幾首滿意的曲,於是再找人來填詞比稿一番,很少是先找到詞,然後才譜曲的.....所以市場上作詞人充斥,但90%發表的歌多為填詞作品就是這個道理,不過也不可小看這一個蘿蔔一個坑的專業飯碗,作得好的可謂是菁英中的菁英啊!而通常只有少部份案子會有機會提攜一些具有潛力的後備詞曲新進.這也是100%真話與無奈的現實。)

三、召開選歌會議,決定收錄歌曲。
(當然這又是一個概略的說法,選歌角度總是很主觀的,見人見智。若你自己當起唱片製作人當然就可以依自己的喜好來選歌嘍!)

四、進行編曲過帶等...作業。
由於收進來歌曲都是來自各創作者所製作的Demo,當確定了歌曲之後,必須將歌曲交由專業編曲人員重新編曲。這時候Demo帶也會先交給歌手練唱。而製作專輯最好要找一個具經驗的製作人來配合幫你的專輯作統籌規劃等工作,製作人會幫你找到適合專輯的音樂風格走向,並將已創作出或已選好的歌編曲或發包給不同的編曲家。在歌曲編曲完成 之後,必須將其完成的多軌音樂track in 到 錄音室的電腦或數位錄音系統,一般都是使用MIDI,完成後再將必要的或全部樂器抽掉換成真實樂器演奏。

五、關進錄音室配唱作業。
當音樂部分都到位之後,歌手就要準備進錄音室錄音了。剛剛講的上述部份流程歌手不一定皆要全程參予,但作到這階段就要親自上陣了。唱不好也只能怪自己!怨不得旁人!有時一首歌很順利就完成了,有時要搞上好幾天甚至幾個禮拜,但當然歌者對自身的歌喉狀況的掌控是別人幫不上太多忙的,而一旦進行到錄音室作業手續也繁複的很,首先,進錄音室唱歌前錄音師必需先將編曲分軌過帶(也就是進錄音室的前製作業),然後再幫歌手收音、剪接配唱等。通常配唱時也會有製作人在旁監製,並且與錄音師溝通(有些製作人是身兼錄音師功能),但其實許多製作人都不太懂得歌唱技巧(連歌唱老師的工作都搶的話就沒天理了),有時他們要的只是歌手詮釋作品的一種情緒、口氣、或者是一種直覺(很抽象吧!!),除非你出版的是古典樂之類的聲樂唱片,要接受一大堆嚴格的眼光與審判,不然,大多數流行音樂品質總是見人見智的,聲音藝術更是一種抽象的表達,要作到什麼程度總是關乎歌手自身條件及製作人要的是什麼。
另外,在歌唱收音完成後,和聲也是相當重要的一環,它可以讓整個音場層次變得更飽滿,更豐富。如果您錄製的是演奏專輯那又更簡單多了喔!

六、混音Mix-Down與母帶後期工程。
在 Live 樂手、歌手、和聲都錄製完成後,曲子就可以開始進行混音的工作了,混音是決定歌曲成敗的關鍵,所以花的時間也較久,一首歌通常需要花上十幾小時,因為在混音時必須在每個多軌錄音的軌道內調它的大小、效果 EQ 、Reverb、聲音亮度、左右Panning等等,如此反覆調整出最好的效果與音場,完成後還要輸出成為立體聲兩軌的單曲母帶,它能夠使音質變的更細膩、更有力、音場聽起來更寬廣立體,音樂水平就在這裡見真章。

七、歌手包裝/攝影/拍MV等。
這項工作儘可能要安排於上述工作同步進行才好,當然也會作到專業分工,會安排其他專業領域的人來幫忙,拍MV則是要看看有沒有將行銷面延伸到電視通路或KTV通路的機會,而一般沒花宣傳費打歌的MV伴唱代理商大多不收,於是花了錢拍MV大多只能在家裡看或網路上流傳。(若是請一些新手導演來拍攝,經費大多3-6萬就可到拍到基本水平,而要拍到像"周董"那種電影等級當然是不可能的,因為搭場景是最燒錢的。)

八、搞定唱片專輯設計/完稿/壓片包裝等。
封面與內容的設計在唱片製作的前期就可開始製作了,當然這必須要請專業的美術人員設計,一般使用的軟體為photoshop及illustrator並進行相關如:拍照、網頁banner、海報製作等設計,然後再送到印刷廠大量生產。(有些比較粗糙省成本的獨立發片都不太在意設計的好壞,結果造成銷路很差)好音樂的每張作品都還很用心在美編設計上哩!工作室的人員都樂在其中,邊作邊學喔!!想想在有些消費者在還沒聽過您的音樂前,或多或少還是會以封面的吸引力來決定是否購賣,做太醜那就虧大了,所以美觀仍是挺重要的。以上的過程完成後即可將母帶送給 CD 壓片廠加工大量壓片,目前行情大概每片6塊吧!在壓片之前必須與廠商簽立版權的合約,證明 CD 版權的清楚,也要申報IFPI,如此你就不怕被盜版了。

九、通路上架。
(這項工作通常沒有門路經驗的人是很難把關節打通的,一般手續也挺繁複,有時光談發行上架等繞一圈花了大半年可能專輯作品可能還沒機會發行,於是,若看到這篇文又剛好有這樣困擾的人歡迎您來找我們好音樂工作室吧!相信我們定不負您所望,一起合作實現你的發片計劃吧!)

十、宣傳。
即使將CD做出來也只做了一半,因為總要讓人知道您發片了呀!因此你至少需要找家唱片公司發行作品。通常一張專輯的宣傳預算是可大可小,而目前縱觀一般大唱片公司所花在此的費用,大約是佔所有製作費十倍甚至更多的。俗話說:[有錢能使鬼推磨],如果你的唱片作品有宣傳預算要上遍大大小小節目及廣告這並不是一件難的事(因為要花錢人人會嘛!),但需慎重考慮"錢"到底要不要這樣花呢?所以現今獨立發行多是以網路作為行銷搭配,宣傳預算"打帶跑",反正也是小額投資(至少是投資在自己身上哩!!)有打響一點知名度總是比默默無聞要來得強。想要自己的歌迷,那就拿出"好音樂"來長期餵食、培養嘍!

以上,其實只是一個大概流程,為了不讓大家看的霧煞煞....我也懶得打太多,於是簡化再簡化,強化再強化。若有音樂前輩看到,還想要加點補充或提問什麼的歡迎可以利下本篇的留言版喔!!

接下來,就是要幫好音樂工作室打廣告的時間了,還想多了解的就繼續看下去吧!!^^

有想要出唱片的人可以要找時間來了解一下【好音樂工作室】的服務範圍及業務。【好音樂】由專輯規劃、詞曲收歌、專輯設計、攝影、印刷包裝、發行乃至於宣傳,每一個環節我們都能一手包辦,並以你可以負擔的預算來執行任務。我們會教你如何出版一張自己的唱片,還有那些預算是應該花在那些刀口上。我們自2007年起已開始努力為每一位歌者 / 演奏者成功出版自己的作品,目前在市場上已有20幾張獨立發行作品。

一般說來只要是相關音樂/出版之類的問題都可以來找我們幫忙,但這樣講可能還過於攏統,那就歸納以下幾項讓大家知道我們可以幫你啥?

1.好音樂可以幫你錄音,混音等等.....
我們製作人是錄音師及編曲起家的,並有十多年以上的業界錄音經驗,所以,若你找不到合適配合的錄音室可以來找我們。好音樂麻雀雖小五臟俱全,錄音設備雖不足千萬以上確也是百萬數位化等級,收音麥克風有四支不同型號的真空管,收費低廉,但絕不合理,因為我們都設定在混口飯吃的狀態....所以有時認識一心想追尋實現自己音樂理想的人會"心軟"。有任何想錄的我們都可以接Case,當然沒有說你錄的一定要發成唱片才可以來找我們啦!現在時下也很流行錄錄個人專輯,只要你自備好伴奏就可以跟我們預約了。在此我介紹一下好音樂的馬龍製作人,他是一位外型很"嚴肅"內心卻很火熱的人,哈哈哈!反正所有錄音他都會親自上場幫你操刀啦!不要皮皮挫就好喔!!


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就是可以接任何須要編背景音樂伴奏的case或是找我們量身為您寫歌皆可,一次發編多首會有優惠,包整張專輯亦可與我們洽談。編曲完直接幫你過帶過好,看是要直接另約時間配唱或燒成CD音檔交件皆可。


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【好音樂工作室】提供專業詞曲創作人及豐富的專輯製作經驗來幫您規劃、運用最少的費用來建設您自己的唱片,並建造專屬於您的線上舞台與藝人光環 ! 只要鼓起勇氣,踏出您夢想的第一步,縱觀唱片發展史上,自費出版的例子屢見不鮮,並有許多成功實例

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粉紅醬發明人,教你做海膽粉紅醬義大利麵

吃美食也要長知識,義大利有紅醬青醬,但日本師傅落合務在34年前發明了粉紅醬,味道似海膽醬,做成了平價海膽義大利麵,順利在日本推廣義大利美食。

他透露當年端出海膽粉紅醬義大利麵給義大利朋友品嘗時,「他們默默把麵吃完,沒有大力讚賞,畢竟義大利人想像不到青紅醬還有其它,但我清楚知道,日本人的義大利菜做得比義大利人好吃。」

你我都吃過,平價的海膽義大利麵,落合務師傅今天親自示範教做。

所有材料:義大利乾麵條,鹽巴,橄欖油,蒜片,鯷魚醬,白酒,罐頭去皮番茄顆粒打成泥,鮮奶油,水少許,海膽,細蔥。

煮醬要領:保持中火,手腳要快,一氣呵成,不必久沸,稍微濃縮。

做法:
一,煮麵水煮沸,加入1.5%的鹽巴,再放入義大利乾麵條,依包裝上時間計時烹煮。
二,平底鍋燒熱,加橄欖油,放蒜片,耐心煸出蒜香。
三,鍋離火,放鯷魚醬,攪開觸鍋去腥,小心油爆厲害。
四,鍋回爐,倒白酒,滾沸出酒氣。
五,加入打成泥的罐頭番茄,攪勻煮沸。
六,倒入鮮奶油,混合出淡淡的粉紅色,並加一點點水調整濃度。
七,試味,鹹鹹的,奶奶的,然後過濾取醬再回鍋。
八,放入瀝乾的麵條,與粉紅醬快速拌勻。
九,放入海膽,拌開,盛盤。
十,擺上細蔥即成。

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大概是從今年5月底開始吧,2015年日本芥川獎得獎作品《火花》的日劇廣告開始頻繁出現在各個無線頻道的黃金時段。與台灣7成以上的有線電視普及率相比,日本僅佔10%~15%。儘管隨著YouTube等網路影音平台的普及,日本的整體收視率也在逐年下滑,但現階段傳統電視依然是這個社會最具影響力的影像媒體。當時廣告的曝光頻度就連我這個門外漢也看得出來,毫無疑問Netflix在宣傳上砸下了破格的預算。
漫才二人組「PIECE」中負責耍笨(ボケ)的又吉直樹自出道以來就以好讀馳名,於2015年初發表的《火花》是又吉的首部中篇小說。藉著「PIECE」的名氣與「(搞笑)藝人執筆」的話題性,《火花》為月刊《文學界》締造了創刊80多年來未曾有過的再版紀錄,2015年芥川獎的光環,除了讓單行的銷售量更加一發不可收拾,也證明又吉這個會拿太宰治當手機待機畫面的書蟲藝人,對文學的愛不只是上電視說說而已。託日本綜藝節目在台灣的高同步率,「PIECE」在台灣也有相當高的知名度。今年5月發行的中文版也有極為亮眼的成績。
「藝人」在日本是個充滿夢想的行業。若是天時地利人和對了,紅兩三年的收入或許就能讓一個人不用再操下輩子的心。然而在這個「每年」數以千計新人投入的業界,能夠靠著「搞笑」餬口維生的可能不到百分之一。
有不少人將「漫才」中譯為「相聲」,若是要找一個既有的中文名詞直接套用,「相聲」或許可以說是最接近的表演形式。但嚴格說來,無論是段子的寫法、兩人的角色關係、對話互動時的節奏、故事架構上的設定空間⋯⋯,「漫才」與「相聲」還是有著相當大的差異。
除了「漫才」以外,日本的大眾搞笑還有「短劇(Comte)」、「單獨藝人(Pin芸人)」、「模仿藝人」、「一發藝(瞬發式的搞笑藝)」⋯⋯等等其他領域。不過要談搞笑藝人,基本上「漫才」,還是佔有率最高的表演形式。
《火花》的主角德永是一個出道不久的漫才師,對漫才有理想、有堅持。也和其他數不清的菜鳥藝人一樣,靠著打工微薄的收入住在一間6塊榻榻米的窄破老公寓,一復一日地被剝削、羞辱、打擊…承受「無名小卒」所應該承受的一切挫折。
2001年夏天某個煙火大會的場子上,德永結識同是漫才師的前輩藝人神谷。德永被神谷獨特的個人魅力所吸引,唐突地對這個才大自己四歲,同樣沒名沒勢沒人氣的同業提出「收我為徒」這近乎瘋狂的要求。而神谷也輕描淡寫地以「寫下我的傳記」為條件,收了這個才認識沒幾個鐘頭的徒弟。
《火花》就從這一刻為起點,記錄兩人在「搞笑」這條路上跌跌撞撞活出來的軌跡。
儘管日本綜藝節目總是透過層出不窮的新企劃,拉抬收視率以及新舊搞笑藝人的知名度,日本的「搞笑」(お笑い/OWARAI),其本質上依然是極度嚴謹且保守的。
這裡所說的「保守」並不是指其墨守陳規不求突破,而是在面對「搞笑」時,每一個表演者都抱著各自的詮釋與美學,努力遵循並實踐他們對「搞笑」這二個字的信仰。與「落語」、「狂言」等追溯起來數百甚至可能近千年的傳統技藝相比,不過百年出頭的「漫才」歷史並不算長,也沒有什麼在傳統包袱下非遵守不可的「規矩」。同樣是舞台上所立著的一隻麥克風,每一個段子所架構起來的世界、「耍笨」與「吐槽」時機的掌握、視覺上的刺激、與觀眾之間的距離感、現場「空氣」的導向⋯⋯。
漫才師使出渾身解力去建立起屬於他們自己的獨特風格,絞盡腦汁去分析如何從觀眾身上激出更多的笑聲。
「創新」與「革命」是想在漫才這個舞台上生存的必要條件,「與眾不同」與「不按牌理出牌」甚至可說是某種為自己才華背書的證明。但是面對「搞笑」這條脈絡時的態度是共通的。就如同陶藝家,國寶級的大師或許能夠創造嶄新、空前的奇蹟,但是再怎麼也少不了拉胚上釉窯燒上的功夫。這樣的一份「職人魂」,我想很接近那個屬於「保守」的特質。
80年代初竄起的「TWO BEAT」、「紳助・竜介」、「B&B」⋯⋯等已被列為神話的漫才師,他們所帶來的革命引發了「漫才風潮」。約莫10年後,「DOWNTOWN」、「隧道組」、「小內小南」等也撼動了整個世代。看看日本的綜藝圈,這些人絕大多是此刻站在金字塔頂端的菁英。電視為漫才增加了曝光率,電視節目為漫才師拓展了工作內容的範圍。搞笑業界似是前途無量,幾個為電視史上寫下傳說的節目也為搞笑年表上留下了好幾個「第○次搞笑風潮」的區塊,但是如同80年代初的大規模漫才風潮,卻是再也沒有出現第二次了。
吉本興業為了培育新一代藝人所開設的藝人養成學校NSC(New Star Creation)自1982設立以來送出了數以千萬的藝人,島田紳助所企劃的漫才大獎「M-1Grand Prix」於2001年舉辦了第一屆,這份代表著漫才師最高榮耀的獎項也毫無疑問為業界所帶來了更多新血。從2001年第一屆就高達1,600人報名,至2010年的第10屆,報名人數已成長到將近5,000人。
漫才在日本社會一直有著相當大的需求,但是並沒有大到足以追上新人投入的腳步。絕大多數的菜鳥藝人一整年下來,靠「搞笑」所賺的錢,不到一個上班族的月薪。市場供給遠大於需求,電視就是那幾台、節目再多也就那幾個缺,在激烈競爭下爭取到曝光機會的自然是最頂尖的表演者,但曝光機會一多,收視戶的胃口也就被養得愈來愈大。
這些隨時可以被取代的「頂尖表演者」在螢光幕上的生命週期不斷減少。大約也就是在M-1最後一屆的2010年(第11屆於2015年再開),讓搞笑藝人們在電視上演出自己「作品」的秀哏節目開始一個個結束、或是轉為不定期的特別節目。電視台終於開始意識到他們不能再繼續毫無節制地「消費」搞笑藝人。
這個屬於搞笑文化的環保意識或許教會了一部分觀眾,讓他們懂得抱著多一點點的敬意去面對藝人們的作品。但「上電視」這個本就過高的門檻,在秀哏節目幾乎全滅的狀態下,無異是對更多缺乏機會讓觀眾認識自己的藝人宣判了死刑。
《火花》的舞台正是2001年後的東京,所描寫的也正是在這個時空背景下身為一個「搞笑藝人」所會面對的喜怒哀樂矛盾糾葛,又吉直樹於2000年出道,在看這部作品時很難不去懷疑他沒有將自己的經歷投射到主角身上。
德永打從心底仰慕有著自己一套「搞笑哲學」,一文不名卻依然有著絕對自信的神谷。而神谷儘管總是在德永面前狂妄地高談「搞笑論」,卻難以克制地忌妒德永的才華、真摯以及面對「藝」的堅持。兩個人都在同一條路上被折騰地滿身瘡痍,卻又不得不用最爽朗且殘酷的笑容來面對環境刻在自己身上的一道道傷疤。很苦、很荒謬,也很真。
這齣戲用鏡頭說故事的方法有別於至今我們所認識的日劇,無視傳統電視台的播放規格,根本是當成一部近9個鐘頭的電影在拍。總導演廣木隆一去年才在德國的日本影展摘下銀獎,飾演主角德永的林遣都,也是出道近10年來獲獎無數的超實力派。完全為串流平台量身製作的「火花」不光只是在宣傳上砸下重金,攝影、音樂、選角、前製後製的編制,每一集那落落長的片尾名單也證明了這齣戲不說別的,至少在人事成本上絕對沒有手軟。
《火花》製作公司「吉本興業」創業百年以上,近10年來更已發展為全方位的演藝娛樂集團企業。這個全日本最大規模的(搞笑)藝人經紀公司會願意為《火花》投下這麼厚重的勞力心力財力,絕對不只因為作者又吉是他們旗下的藝人。
芥川獎光環所代表的票房保證一定也是非常關鍵的強心針,但更重要的是,我看到這個建立起今天日本搞笑文化的百年企業,透過與Netflix的合作,意圖將「JAPANESE OWARAI」(日式搞笑演出)這個文化背後所涵蓋的價值觀,外銷至全世界的野心。

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很多台灣人看中國政府,有時候會落入一種迷思,就是中國好像有非常嚴密的對台統戰佈署,資金跟人員充足,而且也設定好哪一年要讓台灣翻盤,哪一年要結合某些力量拿下台灣。

這並沒有錯,但也並不是對的。

沒有錯是因為,中國本來就是五年計畫導向的計畫型國家,對台佈署涉及到的戰略跟戰術,都有一本一本厚重的計畫。它跟台灣要談什麼,要拉攏誰,要攻下哪個產業、哪條法規、哪個政治人物,都有一套背後的大戰略存在。這些目標聽起來都非常宏偉,而且也確實在做,所以會令人感到害怕,覺得看似一盤散沙的台灣,在這種綿密的全面性作戰之下,勢必潰不成軍。

你去跟一些深鐵藍(特別是新黨)的政治人物打交道,他們高層因為已經通通被洗成統戰第五縱隊了,就經常流露出對中國統戰的崇拜跟佩服,然後回過頭來會恥笑跟不屑台灣的「必然被統一」。這也沒辦法,迷信法西斯的典型人格就是這樣(當然也因為他們在統戰工作中有很多好處啦)。

但這也並不是對的,其實只要用常識就可以理解。如果光靠寫計畫、下預算、做兵力佈署圖,就可以每一步都百發百中,那全世界打戰就靠參謀總部的文書官就好了呀。但是男性朋友們在當兵時,實際感受到的,通常就是辦公室這些搞文書的,紙上畫畫牆上掛掛,裝神弄鬼最會,上戰場時超廢。

中國政府也是這樣。打開計畫,每一本都很好看,實際執行起來,每一個地方都有洞。又因為中國是個沒有民主機制監督的地方,就跟部隊一樣,官官相護欺上瞞下。對台工作也是一樣,寫起年度計畫來雄大洪偉,做年度總結時都突破達標,一副攻無不克戰無不勝的模樣。偶爾出了包,要搞一些自我批評,因為沒有民主監督機制,通常就是老闆在意的地方就多自我檢討幾句,老闆沒看見的地方就稀哩呼嚕掩蓋過去。每年預算越搞越多,業績成果卻非常可疑。

大家可以想像一下,當前年1129和今年0116台灣大選開票時,中國高層領導會對這樣的業績成果,有多賭爛多震怒了。

「花了幾十億人民幣買魚買水果,南部的票呢?那個議長不是很行嗎?是誰負責聯絡的?民進黨的票超過六成,什麼鬼啊?」

「那個姓柯的醫生到底是誰?台北不是穩贏的嗎?我們不是給連家很多特批了嗎?他們到底拿多少錢出來選舉,給他們那麼多就是要拿出來花的,這是怎麼回事?」

「台中是怎麼回事?上次不是才跟老胡吃過飯說沒問題嗎?今年怎麼立委又選成這樣?下給汪汪那麼多旅遊招商廣告,他們到底有沒有用心做啊?」

業績是不會騙人的。想當然爾,業績做成這樣,換人做做看一定跑不掉,新人新政,又會開始寫很多計畫,喊出很多口號,佈署很多新的縱隊組織。但就跟過去一樣,有的會成功,有的會失敗,有的會不了了之。

因為,這才是真實的人生啊。

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許多人出外住旅館都會擔心安全問題,美國退休海軍陸戰隊成員和中情局特務杜懷爾(Drew Dwyer)日前在美國特種部隊文化網站「SOFREP」上分享他住旅館時一定會遵守的9個原則:
1. 手邊一定要有大樓逃生地圖,通常門後都會有,不然就要跟櫃台拿。
2. 不要住最低或最高層樓,最低層樓最容易被侵入,最高層樓出事時沒空間往上逃。
3. 在門把上掛「請勿打擾」的牌子,就算是不在房間的時候也一樣,別讓宵小摸清你的作息。
4. 一進房間就把電視或收音機聲音打開,讓別人無法竊聽。
5. 不要開窗簾,就算不在房間也一樣。
6. 在房間裡時一定要留一盞燈,就算在睡覺也要留。
7.要準備「逃生包」,裡面放錢、證件、護照等重要物品,緊急事件發生時拿了就可立刻逃生。
8. 在門把上裝感應警鈴,這類產品現在網路上或電子產品店都有賣,20美元(約640元台幣)就買得到。
9. 床頭隨時都要放一把手電筒。
(廖育琳/綜合外電報導)

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Wang Joan

給今天有升小一的孩子的父母們:
 
這個世界上最辛苦的行業就是國小及國中的學生,他們的每日工時不見得比你少!隨著年級的增加,他的工時只會越來越多。
 
你的工作可以隨著時間的增加,而駕輕就熟;他的工作只會隨著時間的增加,而越來越困難,甚至連想駕輕就熟的時間都沒有。
 
對!我們小時候也是這樣過來的,但我們國中才學英文,他們小一學英文;我們沒有本土語言課,他們有;我們有好多體育音樂美術課,他們的常被挪為他用。
 
跟你一樣,他每天早上七點出門,也就是大約6:30得起床,沒補習只安親的話,大約傍晚五六點可以回家,有補習有安親的話,可能八九十點才能休息。但你幾歲?他幾歲?
 
小小年紀就得跟你一樣長時間工作,而且還沒有薪水;你能打混摸魚揪團購,他只能看著老師,並搶著下課十分鐘小玩一下下或是跑去上廁所!
 
經過了血汗的一天,如果你叫他做家事,而他懶懶散散的話,請想想他其實是個超級童工,小小的身體正在承受著各式各樣的壓榨。看一下他的課表,了解一下他哪幾天會特別的疲倦,多關心一下吧!
 
下次在你要發火罵他之前,別忘了先心疼他一下!
 
報告完畢!
 
PS. 未來你會經歷各式各樣三更半夜得變出某樣物品的情況,以下是你的解答:
 
01. 三角板、尺、莫名其妙的小道具請到學校附近的24小時超商去找
 
02. 蠶寶寶桑葉等在網拍上可以買得到;從小一就要跟小孩耳提面命,這樣他大一點的時候才會知道要提早跟你講,不然從學校領回的蠶寶寶會餓死!萬一真的不幸養死了,沒關係,請上一些地區親子社團,裡面一定有人可以分給你一百隻蠶寶寶!(桑葉一定要退冰、乾燥才可以餵食,不然蠶寶寶會拉到脫肛死光光)
 
03. 老師指定要用的file夾合作社通常沒有賣,你要去學校附近非連鎖的兼賣彩卷的那種小書店去找
 
04. 水性粉蠟筆跟水性蠟筆不一樣,彩色筆跟水彩不一樣,請到pchome24小時專區找
 
05. 圖畫紙有空請到書店或家樂福一次買一包,小孩永遠會把水灑在好不容易完成的作業上
 
06. 這麼小的年紀只能用鉛筆,請不要準備自動鉛筆;鉛筆請選1B的,因為2B擦不乾淨、HB會搓破作業紙
 
07. 削鉛筆機請直接買電動的,不然你會累死!
 
08. 保麗龍膠是一種特殊的膠水,不要買大的,因為大的會自己乾硬在裡面;保麗龍膠每個學期都會用到喔!
 
09. 橡皮擦請不要貪小便宜,飛龍這些日系品牌真的比較好擦,屑屑也比較整陀整陀的,妳應該不會希望家裡滿地掃不起來的屑屑吧!
 
10. 墊板呢是炫耀用的道具,你可以選一些當紅的卡通主角,但小孩最後還是會最喜歡校門口補習班送的那種墊板
 
11. 小朋友在教室應該都有自己的收納櫃,家長日的時候請帶皮尺去丈量,然後幫小孩買幾個有可收納的提把的收納箱帶去吧!然後從這一刻起,你買的所有都要以能塞得進不同尺寸的收納盒/箱為原則!喔~樹德的收納箱很不錯!用六年沒問題的!
 
12. 給小孩準備一些橡皮筋放在書包裡,隨時發下的大張的圖畫紙或作業,需要橡皮筋綁好,才不會回家之後破破爛爛!
 
13. 抹布請找有小繩勾的,IKEA有賣那種一次12條的,輕軟好擰乾
 
14. 隨時注意小孩對餐盒的要求,他們常會想到就覺得自己已經長大,然後就拒絕卡通餐盒;但過陣子又會要求要換回來!
 
15. 校外教學是小朋友培養人際關係的好時間,也是他們示愛把妹的好機會;請準備那種一包裡面有很多小小包的零食麵包,這樣他們才可以跟別人交換,或是紅著臉頰拿一小包去給自己喜歡的人!
 
16. 剪刀要準備安全剪刀,有護套的,而且在家裡就要訓練好刀鋒一定不朝人,用完馬上蓋護套!別忘了,別人家的小孩永遠金包銀,受傷了你會吃不完兜著走啊!
 
17. 卡片類的遊戲請不要買盜版的,現在小孩都很精明,用盜版的小孩會被大肆嘲笑,眾人皆知。
 
18. 現在小女生很多都三年級下學期就開始發育胸部,華歌爾BeenTeen的網站有很多的胸部發育的教學,當你幫孩子洗澡時發現乳暈開始發育了(乳輪期),就該開始準備內衣給她穿了,真的不懂也可以打電話給內衣老師詢問,她們的服務很好!通常乳暈開始發育後幾個月才會來月經,所以你要有心理準備!蕾妮亞的日用版型或加厚護墊比較窄,比較適合還沒抽高的小女孩們使用!
 
19. 給小孩正確的教育與觀念是父母的責任,該教的還是要教!幫小小孩處理一些先期工作並不是為了讓小孩依賴你,而是珍惜資源、不要浪費時間在買那些不適用的東西;準備好學用品之後,你該作的是教小孩自己使用、模仿你收納或是改善你的收納方式,請不要成為直升機父母!

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[知識] 台灣民間信仰,為何如此多元與佛道融混
作者: ga037588 (丹楓) 2016-08-25 12:52:17
台灣的民間信仰,佛道儒相互融混,縱觀整體,可以說是一團雜絮,自成鬆散的系統。
到底為什麼會這樣,這是一個很簡單的問題,也是一個十分複雜的問題。
最簡單來說,別說台灣的民間信仰理不清,從明朝以來,中國大多數的百姓就分不清了。
別說百姓分不清,連許多專業的神職人員,老道長,大和尚,儒官員,也是分不清。
這篇文章很長,如果有興趣想要知道他們為啥分不清,請聽我娓娓道來。
本文主要分三大部份,第一部份說明分不清之三大理由。
第二部份說明台灣民間信仰混到萬紫千紅的歷史背景。
第三部份說明台灣民間信仰五花八門之混亂多元的現況。
(本文相關每一句論點都有歷史文本之憑據,為求行文簡便順暢並不多引用,
如有相關問題,我再補充根據之出處。)
分不清有好多個理由,每一個理由都是非常專業的主題,簡寫如下:
理由(一),因為在歷史上大家早已難以分清你我彼此:
儒道釋三個宗教,長期影響中土思想,思想信仰互相融攝,甚至連神明譜系也彼此收編,
長期混血之下,都已經有所沾染。
比如,道教裡的斗姥天尊,佛教稱為摩立支天菩薩,
佛教的觀世音菩薩,在道教裡認稱為慈航真人。
道藏有收經書說老子化胡,西傳道法化身為釋迦牟尼。
佛教許多法師稱玉帝是忉利天主,作為佛家護法神。
然而在北宋末期,宋徽宗下詔企圖將佛教併入道教之中,官方支持道教收編佛教神祇。
釋迦牟尼,在道教裡亦被歸為大覺金仙,觀世音菩薩被稱作觀音大士(大士為道教稱謂),
羅漢們被稱為尊者(尊者亦原為道教稱謂)。
觀世音菩薩作為佛道二教共同信奉的神祇,在過去台灣許多觀音廟雖然主祀觀音,
其實是大多用接近道教的神廟儀軌(兩教儀軌其實也早已有所混血)奉祀。
另外在台灣尚有傳承的道教支派普庵派,其宗師便是佛教的僧侶普庵禪師。
除了神系相互影響,佛道二教彼此經書抄來抄去,也在所多見。
這部份扯到許多偽經考證,本文不多探討。
至於道家大師註佛經(呂祖注金剛經),佛家大德解道經(道德經憨山註)等等,
三教之間的宗師彼此用自己的教義解識他教的經典,更是歷代常見。
明清以來,道人習佛法,僧人住神廟,道廟作佛懺等等,這都已經不是稀奇的事情。
尚有許多出家大師紛紛提倡三教同源,互有高低。雖然是"同源",
佛家的說道家儒家低點,自己最高;道家的說佛家儒家低點,自己最妙,
反正最後也是大家各自表述,信者恆信。
既然大家都這樣融來混去,各顯千秋,那自然會有人脫古奉新,自創新教。
理由(二),充滿創意與革新的新興宗教,直接結合三教教義合一:
在明清以來,許多宗教勢力打入民眾,蓬勃發展。
1.有的宗教直接以三教原始經典為學習對象,但是修行方法自己走出一條路,如:
理教:以儒家為基底,奉觀音為主神,習道法道術濟世。
台灣在戰後有位理教大法師,是越戰前南越的國師,道功十分精湛,也是著名中醫。
許多人不知其理教背景,視其為道門人士。
2.有的宗派自創新經典,新背景,新教義融合三教,如:
羅教:只要跟無生老母或真空家園有關的信仰系統,都是源於此教。
羅教在明清傳播甚廣,發展出數百種各式各樣的宗教,此教自創經典、神系與世界觀,
採用許多佛道二教的說法與術語,但是被二教人士認為其偏離二教原始教義。
因此羅教系統的相關經典,自然也不會被二教承認。
在羅教的傳承發展裡,在台灣比較有名氣的宗教有一貫道跟齋教。
齋教在清朝時分別傳入台灣,其實是龍華教、先天教與金幢這三個羅教子孫教派的統稱。
而一貫道則是在民國之後才傳入。
一貫道方面,主要是講五教共和,儒道佛耶回一家親,多為人知。
而齋教是日治時代才有的名詞,被日本政府視為佛教的支派,被稱為白衣佛教。
齋教之稱,也是因為其神職人員吃素但不出家仍主持教儀之故。
3.伏乩寫經書的鸞堂:
明清時代,沿海各省常有乩童被神靈附身寫書,或藉人操器具書寫經文的宗教活動。
此類宗教活動的場所稱為鸞堂,寫手稱鸞生,寫出來的東西稱鸞書或鸞經。
在台灣,鸞堂與齋教信仰有時會相互結合,其主要又與恩主公信仰密不可分。
恩主公信仰五恩主,主要供奉關聖帝君為主神,台灣有許多關帝宮廟,
其背景出自恩主公信仰的鸞堂系統,著名的行天宮即是此一背景。
恩主公的關帝信仰,只是關帝信仰的一個派別,與道教的關帝信仰(武廟系統),
事實上仍有所不同。
恩主公信仰中的許多關帝經典是鸞經,尚未被道藏收錄。
這類鸞經所提出的關帝接玉帝說法,自然也不會被純道教信仰者接受。
既然宗教信仰如此混合多元,一般民眾如果未仔細了解,
有拜有保庇,信者得佑護,自然不了解其中源流差別,也不會去在意其差別。
理由(三),紅塵俗子多半重視靈驗,少有時間專讀經典教義:
三教的教法不太相同,雖然原始的經典皆有自己的獨立體系與思想,
但是如沒有仔細深究,自然搞不清楚其中的區別。
反過來講,想要分得清其中差別,多半是純粹三家的修行者或奉行者,依照經典的教法,
還有戒律的框架來提供分辨的依據。
這涉及許多複雜的問題,比如經典的真偽考證與認證,一般來說會把放在道藏或佛藏經
的經典視為正典,不在其中經典與相關說法,視作為附會外道。
但是對於求保佑的俗子們來說,是較少會去關注的議題,反正大家信者恆信,
在習俗上也是照樣延用,自然就成為了現在的風貌。
基於前三個理由,可以再從歷史的發展來解釋台灣民間信仰道佛混血的現況。
在台灣歷史上,造成神佛難分之原由主要有五個貢獻者:
1.鄭家王朝 2.移民 3.官員 4.神職人員 5.日本政府
(一)鄭家王朝:
羅教系統的教派,由於在中國基層人民傳播很廣,組織嚴密,受到朝廷的忌憚與壓制。
這些教派往往轉為地下傳播,秘密結社甚至轉為幫會。
鄭成功抗清的背景與天地會有十分密切的關連,與許多秘密幫會只要同以抗清為目標,
多互通聲息與串聯合作。
因此,有別於清廷的嚴加禁止,鄭家王朝對於羅教系統的宗教傳播採取寬鬆的政策,
信眾們隨著鄭氏來台,羅教的神佛融合教義,慢慢地融入並影響台灣人民的生活。
(二)移民:
從中國歷史文化來看,漢人的民俗信仰就是以道教為基底,其中天公城隍與土地公等等,
就是最普遍的民間信仰對象,早已深植人心。
自鄭家經營台灣時期開始,大量漢人移民來自沿海各省,特別是福建。
閩地多山,原住民多行巫術,算是道佛二教傳教的邊陲地帶,歷史上閩地的風俗就有
特別好祀鬼神的習慣,各類的神廟很多。只要"相信"對方能夠有所保佑,
各路的神靈不論出身與背景,都可以供奉。
這裡面從二教的神靈(觀音菩薩,玉皇大帝)、高道高僧(純陽真人,清水祖師,普庵祖師
,慚愧祖師),鄉里的賢達(保生大帝)或是功國的神靈(開漳聖王,開閩聖王)等等,
都可以作為保護移民的信仰對象。
漢人的移民大多來自閩地的漳泉二州,面對堅苦的環境,從渡海到開墾,處處都是危機。
為了集群力開墾合作,建立聚落與大型公共設施(比如水利灌溉系統),
同鄉的移民們帶來了自己家鄉的信仰,作為凝聚力量的重要依據與信心。
為了祈求渡海的平安,移民們信奉媽祖與玄天上帝(北極星化身)。
為了能脫離新墾地的瘴厲之苦,移民們信仰能夠去除瘟疫的王爺們。
當工商業漸漸發達後,關帝的信義精神成為商家或幫會的信仰,
加之鸞堂興盛,恩主公信仰對於關帝信仰的普及更是推波助瀾。
這種有保佑就拜的民俗習慣,將道佛二教的神靈與賢者民俗化,而非作經典教義上的探討
與分辨,許多信眾是"逐靈驗而信",常有兼拜多神的習慣,甚至一廟寺多祀數神,
間接造就了宗教混血的狀況。
(三)官員:
官員如果沒有在經典教義上多所涉獵,自然大多也搞不清楚狀況。
別說明清時代的官員,當今的許多官員可能也不太清楚純佛教與純道教是怎麼回事。
許多官員在主導廟寺的建立時,有權力安排奉祀的神祇與延選主持的僧道。
常常蓋一個城隍廟或天后宮,後殿就安排陪祀個觀音菩薩。
或是建了個佛寺,旁殿也安排個土地公坐坐,反正這些神明都有大慈悲心,
救苦救難,彼此也不會計較門戶之見。
這些廟寺每逢神明們壽誕,亦照樣辦法會不論佛道之分。
另外,清代官員們多半從閩地延請神職人員來台辦理廟寺事務,然而清室尊佛抑道,
佛興道衰,僧人多而道人少。
台灣的官員往往聘任僧侶來當道廟的住持,管理廟務,以天后宮與關帝廟最常見。
這也影響到近代廟眾管理委員會自理廟務的習慣,比如北港朝天宮就以出家師父主持廟務
,甚至請和尚(妙傳法師)撰寫天上聖母經作為唸誦之用。
(四)神職人員:
在清朝的時候,台灣的神職人員往往來自福建這個二教的邊陲地帶,
許多佛教僧侶不一定受嚴格的戒律要求,也不見得非常仔細的深研經典,
他們把宗教當作是糊口的工具更甚於自身的修行,本身對於純粹的二教教義不見得有
非常清楚的分別與分辨,但是這些並不影響他們為信眾完成宗教法事,科儀經懺等等。
因此自然不會特別要求信眾去分辨其中的差異。
以道教來說,福建一地的道教信仰以支派閭山派為大宗,此派有很濃厚的地方巫教色彩,
結合了道教南系的正一派,佛教的禪宗思想,甚至部份密教的修法與咒語,
本身就是一個混血濃厚的道教支派。
閭山派主要分二派,紅頭道士奉三奶夫人為主神,多作生者法事。
黑頭道士奉法主公為主神,多作亡者法事。
另外齋教與鸞堂等等三教合一的信仰在清朝時,亦漸漸在台灣生根興起,
隨著這些神職人員的不太認真(分辨彼此)與認真傳教(三教合一思想的新教),
這都促成了台灣歷史宗教文化上的佛道不分情況。
台灣民俗信仰的佛道不分,在清朝時已經完全融入人民的血肉之中。
進入日治時代後,雖然政府大力嘗試改變此狀況,最後反而加深了混血。
(五)日本政府
日本政府對於台灣的宗教信仰政策,主分為三個時期,以兩個重大事件作為分界點,
分別是西來庵事件與蘆溝橋事變。
在西來庵事件之前,日本政府與台灣人民之間彼此還在磨合與了解,政府對台灣的民俗
信仰採取寬鬆的態度,不太多作干涉,也尊重宗教各自發展。
西來庵事件(1915)是日治時期最大規模的抗日活動,也是一個很悲慘滑稽的起事,礙於篇
幅,儘量簡寫。起事者余清芳信仰齋教,號稱得到台南西來庵五福王爺降乩的密旨,
說日本人在台灣只有20年的氣數,現在時機已到,大家要合力趕出日本人。
宗教信仰是團結人心最強的利器,余清芳這個大神棍,開始販賣號稱配帶後可以刀槍不入
的靈符,告訴信徒轉賣靈符不只可以保佑全家,還能自己抽成賺錢。
余清芳允諾大家事成後大分日本田,信徒們都可作富翁,
並喝騙信徒說自己得到呂祖的密法,藏了一把寶劍在深山,
他只要唸咒,這寶劍就自動飛出擊殺日本人與叛徒,
最後逼大家在神明前發毒識,如果事洩便全家不得好死。
於是,余發了財又聲勢浩大,然而風聲不幸走漏,被迫提前起事。
不怕死的信徒們配著靈符,擺出宋江陣衝鋒,拿著柴刀與鋤頭一一被日本兵用槍炮擊殺。
最後余被處死,倒楣的王爺廟被拆,神像全數燒毀。
在此事件之後,日本政府開始積極清查台灣宗教,
並在蘆溝橋事變(1937)後展開皇民化運動,企圖改造台灣人民成為日本人,
著手積極介入轉變台灣民俗信仰。
日本政府的策略,是打算用日本的神道教取代並消滅台灣的道教信仰,
並用日本式的佛教取代台灣的佛教信仰。
這迫使許多齋教信徒選擇改信日本佛教,或轉入地下秘密傳教。
道士們被迫在職業登記上強制成為僧侶,傳教活動受到限制,
所有的道廟都必須漸進式地改為佛寺,否則很有可能遭受拆毀(各地查緝力道不一)。
日本人想將台灣的民俗信仰連根拔起,首先祭出優惠政策,只要把家裡拜祖先的神主牌
交出,就可以換到可觀的白米三斗,然而幾乎沒有人真的拿去換。
鄉民們的智慧是靈活的,當時神主牌好刻而白米難得,所以有許多鄉民假刻神位,
去換了白米享用,把真正的牌位藏在家裡。
接著由警察強制取締道教神廟,廟方須將所有道教神像交出,集中管理。
日本進一步主導了所謂的"神升天運動",當時的口號是:
支那神由支那人拜,台灣是日本的一部份,已經脫離支那了,因此支那神請統統回家吧。
於是,日本天皇派了大臣到台灣擔任主祭,在祭文中感謝這些中國神為台灣人民的護佑,
並責備台灣人民竟敢將天界神靈請到人世,這實在大不敬。因此,這次由日本政府作主,
祭拜後恭送祂們回去天庭。
祭拜完後,一把火把這些神像全燒了。當時被毀的神像近兩萬尊之多。
有許多信眾事先聽到風聲,把神像偷偷藏起來,信眾們發現只要是佛寺就能倖免於難,
紛紛在廟裡改放佛教神像,指廟為寺,試圖躲避警察的追緝。
很多神廟為了避免被毀,寧可空空的什麼都不拜,有廟無神。
或者甚至被迫成立新廟宇,合祀兼拜日本神靈。
到了日本戰敗之後,信徒們紛紛把藏起的道教神像拿出來,繼續拜原來的神明。
有些添了新佛像,假稱為寺的廟宇,總不能不再拜佛祖,只好一起奉祀,
於是間接造成了廟祀裡佛道混血的情況。
至於那些被迫拜日本神的廟寺,原本的神像紛紛復位,
日本神道教的神靈便被忍耐已久的鄉民燒毀或扔掉。
然而在日治時期,也有積極想要融合日本與台灣本土信仰的例子。
比如台北天母地名的由來,取自當時的天母神社。
日本人有見於台灣人民對媽祖信仰的熱衷,創立了一個"天母教",
合祀天照大神與天上聖母媽祖,想要調和神道教與道教的信仰,
但這個新教派在日本戰敗後便一起衰亡了。
台灣民間信仰五花八門之混亂多元的現況:
台灣的民俗信仰,可以說是以道教信仰為基底,風俗習慣為介質,
結合不同有能有力的對像崇拜的產物。
鄉人們除了奉祀神靈賢達祈求平安,也常為了避免陰靈作祟而蓋廟供奉。
人民信仰的基礎多半是追求務實生活上的幫助,只要能夠有助於務實面上的福祿壽,
或是避開災禍,都可以成為立廟的理由。
因此對崇拜的對像來者不拒,非常多元離奇,跨越宗教,物種,國界與職業。
從建廟立像的例子來說,我們可以看到:
從怨死的母豬到顯靈的天皇,
(台南鎮山大將軍廟,長濱天龍宮祭日本天皇)
遇難的公主到溺斃的姑娘,
(墾丁八寶宮祀荷蘭公主瑪格莉特,萬丹水流仙姑寺)
荷蘭的硬漢到菲律賓的小哥,
(水林綠佑將軍廟祀荷蘭將軍Leo,太平菲賓大哥廟祀不知名姓的菲國男性水流屍)
叛亂的份子到平亂的功將,
(內門興安宮祀朱一貴,鳥松大將廟祀征朱一貴殉職的陳元)
民國的歌手到日本的警察,
(二林廣懿宮祀鄧麗君,東石鄉富安宮祀義愛公 森川清次郎)
二二八的元兇到殉難的烈士,
(蔣公王爺廟祀蔣介石,虎尾三姓公廟祀二二八烈士顧、李、王三人)
有求必硬的陽具到鐵嘴的大砲,都可以成為立廟塑像崇拜的對象。
(萬里百花宮祀陽神爺,東石福靈宮祀鐵嘴將軍)

 

遊牧民族逐水草而居,民俗信徒逐靈驗而奉,是台灣民間信仰的一大特色,
從大家樂與六合彩報明牌,誘導出人性的貪婪面,
到文化教育與社福推廣,發揚信徒們的善心與虔誠,
廟方的主持風格,足已主導風氣的正邪與良劣。
列舉數例:
1.竹山紫南宮土地公廟雖小,每年出借發財金後回收,其中差價多達數以億計。
委員會決定挪出經費作為社會公益,提供周圍住戶托兒所到國中全額費用,
健保費補貼,鄉里敬老與育兒津貼等等,促使里民安居樂業。
2.台南海尾寮朝皇宮主祀保生大帝,二戰之後海尾寮多為民眾聚賭場所,治安敗壞。
廟方數年來提倡興學,勸化當地民眾,開設各類免費才藝班,並推廣品德教育,
確實改善了當地的治安與風氣。
3.新竹關帝廟將善款用作興學與改建設施,輔導風化區信徒轉業,
並將廟址附近的風化區一一買下,興建忠義圖書館與巡守隊隊部,移風易俗。
因此,民間信仰的多元與組織鬆散作風,倒底是讓人民墮落,還是讓信徒成長,
仍是必須視民間廟寺的具體經營成果而定,勢在人為。
結論:
宗教混合的狀況已經非常深入地影響了台灣的民俗信仰,
各家的傳教士拼命傳教,自成山頭,自立為王,比賽誰的信徒多,發言權自然多一點。
宗教這種東西,往往信徒是白紙一張先接觸誰,建立了系統價值觀後,就比較難撼動。
在台灣傳播的宗教系統非常多元,甚至可以說是混亂,要一一釐清源流與教義,
對一般人來說,要分清是不太容易的。
大多會想要討論"分清"純道教與佛道教與民俗信仰的差異,這是國民政府遷台後,
帶來江浙佛教僧侶與龍虎山張天師一系、全真道與正一道等等修士之後的事情,
在那之前,混合式的民間信仰早已是台灣人民的主要信仰方式。
國民政府遷台後,在佛教方面,涉及江浙佛教與閩粵佛教(本土佛教與宗教)的爭端,
現代許多佛教山頭與著名高僧,可以說都是屬於江浙佛教的系統。
如聖嚴,淨空,日常,證嚴,星雲等等諸位法師,師承與背景多屬江浙佛教。
江浙佛教在戒嚴時得到政府支持,大力釐清法統,取得台灣佛教的傳法與受戒權力,
無形中壓迫到本土閩粵佛教(閩粵佛教在台尚有四大山頭,九寺系統)、齋教與民俗化佛教
的生存空間。這些故事很長,此處略去。
至於道教方面,大家一律尊張天師為首,然而道教支派繁多,除了台灣獨有的靈山信仰,
在那之前,本土的花蓮慈惠堂靈乩系統,受到六十三代張天師收編為瑤池派後,
大力地傳播。近年六十五代張天師傳承鬧出多位男女繼承人,亂作一氣。
這其中的風風雨雨,是另一些故事。
至於齋教信仰,一貫道信仰,鸞堂信仰等等,於二教間的紛亂戰局,
又是一個非常複雜的故事。
人人都想爭正統,搶信徒,宗教都不宗教了,實在是台灣宗教與民俗信仰的一大憾事。
至於其他那些故事,由於本文篇幅實在太長,如果日後還有機會,
這邊也適合發表的話,擇期會再一一撰寫。

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