目前分類:石川さゆり (38)

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第444夜 吉岡治「天城越え」(昭和六一年七月発売 歌・石川さゆり 作曲・弦哲也)
詩     
    天城越え
隠しきれない移り香が/いつしかあなたに浸みついた/誰かに盗られるくらいなら/あなたを殺していいですか/寝乱れて隠れ宿/九十九折り 浄蓮の滝/舞い上がり揺れ墜ちる/肩の向こうに あなた 山が燃える/何があってももういいの/くらくら燃える火をくぐり/あなたと越えたい天城越え
(以下略)
問題点  
1)  石川さゆりが歌う有名な歌の歌詞。「誰かに盗られるくらいなら/あなたを殺していいですか」の一節は読む者・聴く者の感情を驚かせるに十分だ。この詩は男女の禁じられた恋の情念を描くとともに、〈恋〉はどういう状況下にあっても〈生きた存在〉であることを伝えている。いやむしろ禁じられているからこそ〈生きた存在〉はさらに〈生き生きとした存在〉になるのだろう。禁忌の愛は近世の近松浄瑠璃に遡るまでもなく近代以降の小説にも数多く登場する。近松浄瑠璃の〈心中もの〉に見られる悲劇、つまり男女の心中で終わる悲劇の結末とこの詩はどう違うのか。あるいは三島由紀夫『春の雪』の悲劇とこの詩はどう違うのか。演歌はむしろ不貞のテーマが中心となってきたとさえいえる。にもかかわらず演歌の歌詞には倫理的反省が入らないのが普通だ。正確にいうと反省が入らないというより、そうした倫理的反省の時期はとうに過ぎ、この詩のように二人の関係はもはやあと戻りの出来ない状況に立ち至り、逡巡やためらいを振り切り、もはや前へと進むしかないところに二人がいるため、反省や後悔の念が表面に表れなくなっているのだ。近松の〈心中もの〉でいうなら、心中を決意した二人の男女のクライマックスである〈道行〉にあたる部分が、この詩の内容にあたる。もっとも三島の『春の雪』もそうだが、浄瑠璃や小説は単に〈道行〉だけを描くのではない。心中にいたるまでの二人の男女の宿命的ともいえる経緯そのものを描いていく。近世的物語では不運が重なり二人の男女が運命的な死へと追い込まれていく過程を、近代的物語では男女の心理のメカニズムが複雑にからむ中で死が必然性をもって立ち現れてくる過程を。
2)  「何があってももういいの/くらくら燃える火をくぐり/あなたと越えたい天城越え」「戻れなくてももういいの/くらくら燃える火を這って/あなたと越えたい天城越え」と第一連第二連の結末でうたわれる「あなたと越えたい天城越え」は何を意味するのか。「燃える火」を「くぐり」そして「這って」行く道の向こうに何があるのか。「何があってももういいの」「戻れなくてももういいの」という決意からすると、道の向こうに〈別の世界〉を見ていると捉えてよいだろう。そこが〈死の世界〉かどうかは分からないが、確かにそこには近松浄瑠璃の〈道行〉的発想と似かようものがあり、浄瑠璃の心中が〈生の悲惨な幕引き〉ではなく〈別の世界の始まり〉であったように、新たな二人だけの別誂えの世界を〈天城越え〉の彼方に見ていたといってよい。
3)  この詩の語り手は女性である。女性の相手である男性がどのような男であるかは実は分かりにくい。女性の思いの深さと男性の思いの深さには温度差がある。しかしここでは男性が女性にどのような態度や気持ちで接しているかは記さない。読者の想像にまかせてよいところだ。この詩は女性に視点がおかれ、彼女の気持ちの深まりが相手である男性の気持ちとズレが生じていることで、より一層純粋に高まっていることを確認しておけばよい。「あなたと越えたい天城越え」の「あなた」はもちろん目の前にいる「あなた」なのだが、女性は心の中で理想化してきた〈内なるあなた〉に向かって歌いかけているといってよい。
4)  「寝乱れて隠れ宿/九十九折り 浄蓮の滝」「わさび沢隠れ径/小夜時雨 寒天橋」「走り水迷い恋/風の群れ 天城隧道」の言葉の併置のありようは興味深い。ほぼ五音節で構成されたこれらの言葉の併置は、「寝乱れて隠れ宿」「わさび沢 隠れ径」「走り水迷い恋」といったそれぞれ前半部の二句が人物のありようを示し、「九十九折り浄蓮の滝」「小夜時雨 寒天橋」「風の群れ天城隧道」の後半部二句が人物の心理や行動に景物を添えることである暗示的な意味を加えている。「九十九折り」は二人の心模様の複雑さや入り組んだ様を、「浄蓮の滝」は二人のたぎる思い(「滝」のイメージ。紅「蓮」の炎のイメージ)とその後の「浄」化のさまを、「小夜時雨」「寒天橋」は心のなかで「時雨」が降りこめるような気鬱さとそれに伴う「寒」さを、「風の群れ」「天城隧道」は惑う心をいっそう乱させる心の底から湧き上がってくる恋心と、そうした恋心が「天城隧道」の暗く奥深いトンネルのような心の奥底から冷たい情念のように噴き出してくることを暗示する。
1)石川Sayuri唱的有名的歌的歌詞。「要是被誰取的可以殺死/你嗎的」一節使之感到吃驚讀的人·聽的人的感情充分。這個詩描繪男女能禁止的戀愛的感情的同時,怎樣的狀況下有<戀愛>也傳達著<活的存在>。哦倒不如正因為被禁止<活的存在>並且成為<作為活潑的存在>吧。禁忌的愛無需追溯到近代的近松淨琉璃近代以後的小說也許多登場。被近松淨琉璃的<一同自殺東西>看的悲劇,這個詩與由於總之的男女的一同自殺結束的悲劇的結果怎樣不同?或是三島由紀夫『春的雪』的悲劇和這個詩怎樣不對?演歌倒不如不貞的題目連成為了也中心能說。象也儘管倫理的反省不進入演歌的歌詞普通。因為說不有反省正確說,那樣的倫理的反省的時期老早過去,象這個詩一樣地二人的關係到到已經後邊恢復原狀不完成的狀況,甩開逡巡和猶豫,已經前前進以外二人在沒有的地方,反省和後悔的念頭變得不呈現在表面上。相當於是如果用近松的<一同自殺東西>說,決心一同自殺的二人的男女的頂點的<上路>的部分,相當於這個詩的內容。最三島的『春天的雪』也是那樣,不過,淨琉璃和小說只僅僅不是描畫<上路>。描畫達到一同自殺到為止的二人的男女的宿命的也可稱作的經度和緯度本身。以近代的故事男女的心理的機械裝置在複雜糾繞中死必然性豎立出現的過程近代的故事不幸重疊二人的男女命運性的死被趕進的過程。
意味「想與「想爬是「想鑽過是有2)什麼也已經好的/眩暈燃燒的火與/你越過的天城越過」即使不能返回也已經好的/眩暈燃燒的火與/你越過的天城越過」和第一連串第二們的結果稱譽的你越過的天城越過」什麼?so做在「爬」去的道的對面有「燃燒的火」什麼「鑽過」?可以捉住從「是「有什麼已經也說」即使不能返回已經也好的」的決心做的話,在道的對面看著<另外的世界>吧。是不是<死的世界>不明白那裡,不過,可以說確實那裡有與近松淨琉璃的<上路>的構思相似的東西,淨琉璃的一同自殺不是<純粹悲慘的幕提拔>象是<另外的世界的開端>一樣地,在<天城越過>的那兒看著只新的二人的另外(區別)訂做的世界。

3) 這個詩的解說人是女性。作為女性的對手的男性是怎樣的男人其實不易懂。女性的所想的深度和男性的所想的深度存在溫度差。可是這裡男性與女性以怎樣的態度和心情接觸著不記。可以讀者的想象託付。由於這個詩視點被放在女性,她的心情的加深作為對手的男性的心情和zure產生的事,預先確認提高到更進一步純粹的事就行了。不用說是眼前有「想與你越過的天城越過」的「你」的「你」,不過,女性可以說面向在心中理想化了的<裡面變成的你>唱。

??」即使不能返回已經也好的」的決心做的話,在道的對面看著<另外的世界>吧。是不是<死的世界>不明白那裡,不過,可以說確實那裡有與近松淨琉璃的<上路>的構思相似的東西,淨琉璃的一同自殺不是<純粹悲慘的幕提拔>象是<另外的世界的開端>一樣地,在<天城越過>的那兒看著只新的二人的另外(區別)訂做的世界。

4)「睡亂隱藏宿驛/九十九折 淨蓮的瀑布」「山榆菜澤隱藏直徑/夜間的陣雨寒天橋」「跑水迷惑戀愛/風的群 天城隧道」的言詞的附設有樣子很有興趣。大體上用五音節被構成的這些的言詞的附設,「睡亂隱藏宿驛」增加著作為「山榆菜澤隱藏直徑」「跑水迷惑戀愛」的各自前半部分部的二句表示人物有樣子,「九十九折淨蓮的瀑布」「夜間的陣雨寒天橋」「風的群天城隧道」的後半部二句在人物的心理和行動上添上景物的事的暗示性的意義。「九十九折」是二人的心花樣複雜和錯綜複雜了的那樣,「淨蓮的瀑布」二人沸騰的所想(「瀑布」的印象。「風的群」「天城隧道」暗示與「夜間的陣雨」「寒天橋」在心中下「時雨」象放入一樣的氣憂鬱那個伴隨的「冷紅「蓮」的火焰的印象)和此後的「淨」化的sama,」,象從越發使之擾亂困惑的心的內心深處湧出上的戀慕心和,那樣的戀慕心「天城隧道」很暗地從象深的隧道一樣的心深處冷的感情一樣地刮起的事。
?

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これを書いてから1年9か月。もう「ビミョー」は定着してしまいました。
『週刊文春』の2004年7月22日号の「阿川佐和子のこの人に会いたい」542回のゲスト、歌手の石川さゆりさんが、こんなことを言っています。
阿川「いや、可愛かったですっ!でも、ヒットしなかったのね。」
石川「ビミョ~」(笑)
阿「何、微妙って?」
石「おばさんが使う『微妙』と、若い人の『ビミョ~』と違うんですね。」
阿「あ、流行ってるの?若い人のビミョ~はどういう意味なんですか?」
石「答えるのが面倒くさいとか、どうでもいいやというとき、すべて『ビミョ~オ~』、これで終わりなの。」
阿「あっ、そう。初めて聞いた。」
石「ダル~い感じで言うんです。」
阿「お嬢さんがいらっしゃるからご存知なのね。どういうときにお嬢さんに『ビミョ~オ~』って言われますか。」
石「『私、ちょっと痩せたと思わない?』『ビミョ~オ~』って。」(笑)
という具合に、昭和33年生まれの石川さん(今年46歳)は娘さんから「ビミョー」という言葉を学んだようですね。

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作詞: 五木 寛之
作曲:  幸 耕平
編曲: 竜崎 孝路

(一)
やさしさを求めて この町まできたの
ほんとの自分を さがすため
鳥や風の歌に 疲れたこころも
いつか忘れて 歩き出す

幾千年の星のかなたへ
幾千年の愛の世界へ
あなたと とびたい

この坂をのぼったら
あなたに 会えますか


(二)
西の空 夕焼け 遠くで鐘の音
なくした わたしの子守唄
生まれかわるために 素直な気持ちで
そっと 両手を合わせます

幾千年の星のかなたへ
幾千年の愛の世界へ
ふたりで とびたい

あの空を見あげたら
あなたが 見えますか

幾千年の星のかなたへ
幾千年の愛の世界へ
いっしょに とびたい

この坂をのぼったら 
あなたに 会えますか
あなたに 会えますか









是尋求和善到 這個城市來了的

為了尋找真的自己

疲勞的心於鳥和風的歌也

不知不覺忘記 開始走


幾千年的星的那邊

幾千年的愛的世界

想與你 飛

如果在這個坡升

在你裡(上) 能遇見嗎

(二)在西的天空晚霞 遠方鐘的聲音

丟失的 我的搖籃曲

脫胎換骨為了 坦率的心情

偷偷地合起 雙手


幾千年的星的那邊

幾千年的愛的世界

想以二人 飛


如果仰視那個天空

你 光臨嗎


幾千年的星的那邊

幾千年的愛的世界

想對著一起 飛來


如果在這個坡升

在你裡(上) 能遇見嗎

在你裡(上) 能遇見嗎



自分のための子守唄

山にのぼれば 街恋し

街にかえれば 山恋し

風に吹かれて 西ひがし

あすを占う すべもなし


この世に生きるということは

つよくなるだけ 心がいたむ


だからせめてこんな夜は

ああ ひとりで うたいたい

自分のための子守唄


是「為了自己的看小孩兒歌」1號的歌詞(詞:五木寬之)


如果登上山 街戀愛

如果返回到街 山戀愛

風吹 西做

占卜明天的 概括也做


所謂生活在人世

變得只是強 心感到疼痛


因此攻這樣的夜晚

想哎呀 一個人 唱

為了自己的看小孩兒歌

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作詞:吉岡治/作曲:弦哲也/編曲:若草惠
闇にさえ 桜は咲いて
散らして散らない恋ごころ
慕っては はげしく厭い
火のような通り魔がゆく
ぼんやりと紅灯ながめ 文綴る
一葉   丸山福山町


その身体 任せてくれと
露骨に言い寄る人がいた
貧しさに明けくら泣いて
身を削りこの世を生きる
塵の中賑わい哀し 花街の
本郷丸山福山町


いつの日か みどりの野辺を
そぞろに歩いておいでなら
その袖にまつわる蝶は
まだ慕う化身のわたし
微笑みもやつれて病んで 絶えだえに
一葉   丸山福山町


經翻譯軟體後的大作...

一葉戀歌

連在黑暗裡(上) 櫻花開

弄散不散落的戀慕心

愛慕 激烈地嫌棄

象火一樣的過路的妖魔去

糊裡胡塗紅燈注視 消逝

一葉丸山福山町


那個身體託付

露骨求愛的人在

貧窮結束kura哭

削身體活在人世裡

塵中熱鬧哀做 煙花柳巷

本鄉丸山福山町


何時的日或者 綠的原野

不知不覺地走要是在

在那個袖子裡(上)纏的蝴蝶

還愛慕的化身的我

微笑也消瘦得病是 斷絕得

一葉丸山福山町


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このページは、週刊読売に掲載された記事を本文のまま載せています。



喜び悲しみ・・・歩いた道を語ります
 いつのまにか年の瀬になってしまいましたが、この1997年は私にとって、一生忘れられない年になりそうです。
デビュー以来お世話になっていたホリプロから独立したのが年の初め、そして、4月にはデビュー25周年記念コンサートのスタート。
 一年かけて全国を回る計画のこのコンサート、すでに70ヶ所以上を回りましたが、どこへ行っても、超満員のお客さまの温かい拍手や声援にむかえられ、改めてファンの皆さまのありがたさを身にしみて感じています。
 中には、東京、名古屋、大阪、九州と行く先々に駆けつけてくれる方々も大勢いらっしゃいます。皆さん、昔からの私のファンで、ステージからお顔を拝見していると、どなたもついこの間までは若者だったのに、今やリッパな中年。
 ―――皆さんずいぶん年取っちゃったのねェ。
来年は40歳の大台に乗る自分自身をタナにあげ、そう思ったりしますが、同時に、
 ―――ああ、私は歌い手として、この人たちとともにずっと歩いてきたんだ。そうして、いつのまにか25年という歳月がながれたんだ・・・。
 そんな思いが胸の奥からこみあげてきます。
 「その歳月を書いてみませんか?」というお話をいただいた時、文章なんてろくに書いたことがありませんから、初めはとまどってしまいました。実際、お断りしようとも思いました。
 でも、こうして書き始めたのは、作家の水上勉先生が以前おっしゃった言葉を思い出したからです。
             ♪              ♪
 ご存じのように、水上先生はまだ少年の頃にお坊さんになられましたが、日々の修行のひとつに、高僧のあとについて、100人ほどのお坊さんがお経を唱えながら歩く行があったそうです。その行をしながら、少年の水上先生はふと気づきました。
 ―――大勢が一斉に声を出してもただ騒がしいだけで、まわりの人たちの心には届かない。一人がひとりに対してなにかを訴えてこそ、まわりの人も耳を傾ける。
 この思いが、作家になってからも先生の心に宿り、
 「だから、僕は小説を書く時、いつもひとりの人だけに向けて書いているんだよ。」
 やさしい笑顔でそうおっしゃられた時、私はハッと胸をつかれたような気がしました。大勢のお客さんの前で歌う私は、ひとりの人の心の奥深くまで届くように歌っているのだろうか。みんなに受けるような歌い方をしているんじゃないだろうか・・・。
 たったひとりの人に向けて歌う。歌い手としてはそれは、目がさめるような発見でしたが、この文章を書くにあたって思い出したのが、やはり水上先生のその言葉でした。
 ―――そうだ、文章がつたなくともいい。ひとりの読者、あなただけに向かって素直に語りかければいいんだ。そうすれば、私の本当の心が届くかもしれない・・・。
 そう自分自身にいい聞かせながらペンをとったのです。
 水上先生といえば、私には実は”宝物”があるんです。5年前の20周年の時、記念アルバムの題をご相談したところ、色紙に書いてくださったのは「道」という一文字。
 その字を前に私、生意気にも口走ってしまったのです。
 「先生、”道”って地味じゃないですか。”華”とか”雅”とかのほうが・・・・」
すると先生は静かにこうおっしゃったのです。
 「私はあなたを花より、草にたとえたいな。草は花よりもっと土に根をおろし、強くたくましい、そして可憐だよね。あなたは20年、この道を歩いてきた、そしてこれからも歩いていくんでしょ。道には石ころが転がっていたり、花が咲いていたりいろんなことがあって、道草をを食うこともある。でも、それはとても素敵なことなんだよ」
 これで”道”という言葉がすっかり好きになり、先生にいただいた色紙は私の大事な宝物になっています。
 それから5年、今度は先生に「行」という字をいただきました。「道」を「行」く。うまずたゆまず、でも焦ることなく自分の道を一歩一歩行きなさい――そんな先生の励ましが字の奥から聞こえてくるようです。
               ♪              ♪
 この25年、歌を通して様々な女性を表現してきました。耐える女、情念の女、愛らしい女・・・・でもそれは、別々の女性ではなく、私自身をふくめあらゆる女性が女性が内に秘めているものだとおもいます。
 14歳でデビュー、順風ばかりではありませんでした。下積みも経験しましたし、私生活では結婚、出産、離婚と言葉にできないほどの喜びや悲しみを味わいました。そんなひとりの人間としての変化や成長が投影されたのが、私の歌かもしれません。その意味で私にとって、歌は人生そのもののような気がします。
 この3月、25周年記念として、5枚のシングルを同時発売しました。5枚10曲、つまり10人の名だたる作詞家・作曲家の先生方が私のためにオリジナルをプレゼントして下さったのです。
 詞も曲もまったく色合いが異なる10曲を歌う私は、10人の女を演じているともいえますし、自分の中の女の要素をすべてさらけ出しているともいえます。
 たとえばメインで歌っている『歌麿』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)には、厳しい恋が描かれています。「火を抱いて闇の中」「刃を渡るきつい恋だから」・・・・そんなフレーズと切り結ぶように私も全身でぶつかって歌い、それを和楽器が劇的に仕上げています。すごく大きな歌で、私の代表作になるような予感もあるほどです。
 もうすぐ年末、恒例の紅白歌合戦では、『歌麿』と同じ作詞・作曲家による名作『天城越え』を歌います。そして新しい年の3月いっぱいまで全国コンサートを続け、充実した25周年をしめくくりたいと思っています。
 自分の道を歩いて得る友を「道友」と呼ぶのだそうです。25年の歳月を振り返りつつ歩くこの連載、あなたも「道友」になってくださいね。
  
こころの詩を・・・石川さゆりVol-1




心一つに燃えた「天城越え」秘話 
明けましておめでとうございます。よいお年を迎えられたこととおもいます。
 私もこの一月末で40歳、不惑の年です。果たして惑うことなくやっていけるのかどうか・・・たとえ惑うことがあっても、自分の道を信じつつ歩いていこう、改めてそんな誓いを立てた元旦でした。
 ところで、大晦日のNHK紅白歌合戦、ご覧になっていただけましたか?
私にとっては20回目の出場となる記念の舞台でしたが、いっしょにステージに立つ歌い手の皆さんがどんどん若くなっているのを、年毎に感じさせられます。年齢だけでなく、歌そのものもどんどん変わっていってます。
 「歌は世につれ」といいますから、歌の世界の変化もやむをえないことでしょう。でも、どんなに時代が変わっても、そうたやすく変わらないものもあるはずです。
 たとえば、人の心。親子の絆、夫婦愛、男と女の恋や別れ・・・・そこにこめられた喜びや悲しみ、いとおしさ、切なさ、つらさ、苦しさ、迷い、未練・・・・これらはいつになってもそう変わるものとは思えません。
 ただ、歌という形をとるとき、その表現方法が時代や年齢に応じて変わってくるのではないでしょうか。その意味では、若い人たちの歌も、時代という枠の中で、自分たちの心を自分なりに表現しているのかもしれませんね。
                            ♪
プロの芸を見せてくれよ!
 20回目の紅白歌合戦で私は『天城越え』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)を歌いました。11年前にも歌ったこの歌は、初出場のときの『津軽海峡・冬景色』と並んで、私の代表曲と呼ばれ、ファンの方たちにも最も親しまれています。
親しまれると同時に、『天城越え』についてよく耳にするのは「いざカラオケで歌うとなると、すごく難しい歌」という感想です。
 そんな感想を聞くたび、私自身、「そうだろうなァ」と思います。というのも、この歌をいただいたとき、作詞の吉岡先生は、まず、こうおっしゃったのです。
 「カラオケの人がとても歌えないような、これがプロの芸だ、というものを、この歌で見せてくれよ」
カラオケ好きの方には、ずいぶん意地悪な言葉かもしれませんが、先生の真意はもちろん、意地悪にあるわけではありません。
 演歌がすこし元気のないこの時代、いままでにない歌を作ろう、そのために歌い手の私も、自分の持てる力を全部そそぎこめという意味です。
 実際、この『天城越え』という歌にかける先生の意気込みはすごいものでしたが、それは吉岡先生だけじゃなく、作曲の弦先生、ディレクターの中村一好さん、みんな、同じでした。
 歌の舞台になる伊豆の宿に皆さんでこもり、議論を重ね想いを練ったあげく、出た結論は、「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」―――なんともコワい話だったのです。
 可愛想なのは、そんな”密約”を知る由もない私、できあがった歌詞を見せられ、呆然としてしまいました。
 新しい歌詞をいただくたびに、それをバラバラにほぐしながら、自分なりに主人公の女性をイメージし、それを組み立てていくのが、私のやり方です。
 ところが、目の前に突きつけられたのは、夫の不倫現場に踏み込み、修羅場を演じる妻がテーマの歌詞・・・・中でもあとですっかり有名になったフレーズ、「誰かにとられるくらいなら あなたを殺していいですか」
―――こんな言葉を口にする女性を、いったいどうイメージすればいいのだろう。とても私には歌えない・・・・
 といって、プロの歌い手である以上、いただいた歌を投げ出すわけにはいきません。数え切れないほど歌詞を読み返しながら、懸命にその世界に入っていこうとしました。一方でそれは、女としての自分の無意識の部分、闇の領域に入り込むような作業・・・・


「紅白のトリ」をとらせるぞ
 『天城越え』の歌詞と苦闘したのは、私だけではありませんでした。作曲の弦先生も同じだったのです。あとで知ったことですが、当時、作曲家に転身してまもなかった先生は、この歌に作曲家としてのご自身の将来をかけておられたのです。
 中村ディレクターもまた、「この歌でさゆりに、初の紅白のトリをとらせてみせる」という意気込みに燃え、和楽器を取り入れるなど、工夫に工夫を重ねていました。
 こういう全員の思いが結集してできあがったのが、昭和の名曲のひとつともいわれる『天城越え』だったのです。
いま思い出してみても、あのときの全員の熱い思い、それはすさまじいものでした。たがいに力を合わせる反面、これはギリギリの闘いです。最高の表現を得るために、それぞれがたがいに渾身の力をふり絞るのです。
 ですから歌手にとって、作詞家、作曲家、ディレクター、さらに編曲の先生もふくめ、皆さん実に心強いチームメイトであると同時に、手強い闘い相手でもあるのです。
 そういう相手に恵まれた私は、本当に幸せな歌い手、しみじみそう思います。
 こんなプロセスを経て生まれた『天城越え』ですが、私自身は「カラオケの人が歌えないような」歌い方を意識して歌っているわけではありません。
 ほかの歌も同じですが、自分の中のイメージをいっぱいにふくらませ、曲にこめらられた思いを聴いてくださる方に伝えようと、ひたすら念じて歌っています。
 余談ですが、「『天城越え』を歌う会」というのがあるんです。女優の浅丘ルリ子さん、加賀まりこさんら、この歌が好きな方たちの集まりです。私も一度お招きいただきましたが、どなたもご自分の『天城越え』にしていらっしゃり、逆に教えられたものでした。
 歌は世に出たときから、独り立ちします。あなたも、難しいなどと思わず、どうぞ、歌ってみてくださいね。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-2


島倉千代子さんにあこがれて・・・
ふるさと―――だれもが心に秘めている自分だけの”心のふるさと”。
 地方から東京や大阪など大都会に出てきた人たちはもちろん、生まれ育った土地にずっと住む人にとっても、心のふるさとというものがあるのではないでしょうか。
 幼いころの自分をつつんでいた自然や人との触れ合い、町のたたずまい、お母さんの手料理・・・・そういう何でもないものが、本人にとってはかけがえのない心のふるさと、そんな気がします。
 私のふるさとは、熊本県飽託郡というところです。今はすっかり熊本市のベッドタウンになっていますが、当時は一面に田園が広がるのどかな農業地帯でした。野菜や果物の栽培が盛んで、「肥後でこ茄子」は今も全国的に知られる特産物です。
 昭和33年(1958)1月30日、長女として生まれた私は、幼稚園のころまでは父の実家に住んでいました。
 家の前がバスの停留所で、私の家でタバコやバスの切符を売っていました。その売り場というのが、テレビの画面のような小さな四角の窓口になっていたんです。
 で、二、三歳の私がそこに立つと、ちょうど顔から胸のあたりまでが外から見えるわけです。つまり、テレビ画面に映っている感じですね。
 この窓口が、私の歌手への道のスタートだったのです。

バス停前でミニコンサート
 バスの発車時刻が近づき、目の前のバス停に人が並び始めると、店番をしている祖母が幼児の私を呼び、
 「ほら、歌ってごらん」
 といいます。司会ですね。呼ばれた私はとことこ歩いて窓口の前に立ち、胸を張って歌い出します。歌は決まって島倉千代子さんの「恋しているんだもン」。二、三歳の私にとって、これが最初から最後まで歌える唯一のレパートリーだったのです。
 母が島倉さんの大ファン、しょっちゅうこの歌を口ずさんでいましたから、私もごく自然に覚えたのでしょう。やがて、祖母に教わった『カチューシャの唄』とか『船頭小唄』、『かえり舟』などがレパートリーに加わりました。
 バスの発車時刻のたびに開かれるこのミニコンサート、いつしか近所の名物になってしまい、豆歌手の私が窓口に立つと、バスに乗らない人たちまで集まってきて、やんやの拍手喝采、リクエストやアンコールの声もかかり、私はいい気持ちになって歌いまくったものです。
 とはいっても、実際のところ、このころの記憶はありません。記憶がないのに、そうして歌っている幼い自分自身が、まるで絵に描いたようにくっきりと見えるのです。
 祖母や母に何度も聞かされているうち、そうなったのでしょうが、これが歌い手としての私の、いわゆる原風景といえるかもしれません。
 小学校へ上がる時、母の実家の飽田町へ移りました。父は熊本市の交通局に勤めていましたが、母が実家の八百屋を継ぐことになったのです。
 この母はとにかく元気な働き者、朝早くから車を運転し市場通いです。小学校3年生の時、私の下に弟が生まれてからは私が母親代わりで、毎朝ミルクをあげ、おむつを取り替えたりしたものです。
 働き者の母は歌も大好きでレコードも沢山持っていました。幼児期の歌の”先生”が祖母なら、それ以後は母とでもいえるでしょうか。とくに小学2年の時、熊本市で開かれた島倉千代子さんのコンサートへ母に連れて行かれ、それが私にとって、歌との運命的な出会いとなったのです。
 生まれて初めて見る歌謡ショー、幕が上がった瞬間から私の目はステージに釘付けになってしまいました。そこはまったく別世界でした。
 色とりどりの鮮やかなライトにつつまれ、着物姿でマイク片手に立つ島倉さん。その紫色の着物をいまもはっきりと覚えているほどです。
 ―――私もあそこに立ち、ライトを浴びて歌いたい。
 そんな思いが胸にきざしたのです。はたから見れば、子供っぽく他愛ないあこがれだったのでしょうが、幼いなりに私は真剣でした。「歌手になりたい」が、いつしか「歌手になる。きっとなる」という私だけの秘めた”決意”になっていったのです。

ふるさとは私の心の中に・・・ 
小学5年のとき、熊本から横浜に引っ越すことになりました。父の職場が縮小され、両親は私と弟を連れ、都会に出たのです。
 大都会に出ることは、歌手を夢見ていた私にとって、その夢に一歩近つ`くような喜びでした。でも、一方では、自分を育んでくれたふるさととの別れという寂しさ、つらさもありました。
 そのころの日本は、高度経済成長が始まり、何もかもがものすごい勢いで変貌していました。横浜という大都会に移ってみると、それをまざまざと目のあたりにします。
 昼夜となく煙を吐く巨大な工場群、林立するビル、おびただしい車の洪水・・・・ついこのあいだまで、少女の私が犬を連れ走り回っていた熊本の田舎とくらべると、同じ日本とは思えないほどです。
 私はふるさとが恋しくてしかたありませんでした。豊かな自然や静かな町のたたずまい、人との触れ合いのぬくもり・・・・失ったものの大きさに初めて気付かされる思いでした。
 生まれ故郷を出てもう30年になりますが、7年ほど前、飽田町が熊本市に合併されるとき、私も記念イベントに招かれました。
 その席で私は、
 「町はなくなっても、煙突の立つ工場地帯にはなってほしくありません」
そんなお話をしました。故郷は心のふるさととして、今も私の中で生きています。
 のちに、『20世紀の名曲たち』というシリーズで、過去のすばらしい歌を自分なりに歌い直す作業を始めたのも、日本人の心のふるさとを掘り起こし、それをきちんと残しておきたいという思いがあったからです。
 日本の女性を歌うオリジナルと並び、このシリーズ、私のライフワークともなりそうです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-3




牛乳配達をしながら「歌の勉強」
 小学5年生の時、故郷の熊本から横浜へ引っ越してきた私は、6年生になってから歌のレッスンに通うようになりました。
 熊本で、母に連れられ島倉千代子さんのコンサートを見て以来歌手への夢がめばえ、年を追うごとにその夢がふくらんでいたのです。
 当時、父は運送会社勤め、母は保母として働き、生活は楽とはいえませんでしたが、「歌を勉強したい」という私の願いを両親ともに許してくれました。母は「最後まで投げ出さずにがんばるのよ」と励ましてくれましたが、こう釘をさされたんです。
 「塾の月謝は払ってあげるけど、歌の月謝はなんとか自分でやってみなさい」
で、中学生になってからアルバイトです。何のバイトか分かります?これがなんと牛乳配達。というのも、中学生ができるバイトというと、新聞配達か牛乳配達くらいで、新聞は日曜日も休みなしですが、牛乳だと土曜日に2本配れば日曜日が休めますから、歌のレッスンにも通えるというわけです。
 でも牛乳って、毎朝5時には全部配り終えてなくちゃいけないんです。まだ真っ暗なうちに起き、牛乳瓶を40~50本も詰め込んだ布袋をかかえて、一軒一軒配るわけです。おまけに私の担当地域が団地、重い袋を引きずるように5階まで歩いて上がるのです。女子中学生には、けっこうハードな仕事です。
 時には寝坊して、母に手伝ってもらったりしましたが、決して休みませんでした。これも歌のためと、最後までネをあげなかったんですから、われながらエライ!
 そんなことをしながらレッスンに励んでいた私に、思いがけず歌手への道が開けたのは中学3年の時でした。


こども歌謡大会代打出場で優勝 
その頃、フジテレビの夏休み企画に「こども歌謡選手権」という番組があり、私の歌友だちが応募していたんです。ところが大会が夏休み中で、彼女は田舎に帰るので出られないというのです。
 「じゃ、私が代わりに」
と、テレビ局に出かけ、怖いもの知らず、彼女あての応募ハガキの宛名を消し、自分の名前を書き、受付に・・・・さすがにドキドキしましたが、なぜかすんなり通ってしまったのです。
 それからあとは、もうあれよあれよという間、予選に合格し、チャンピオン大会に出場、『船頭小唄』を歌って優勝――司会者に「おめでとうございます!」といわれた時は、夢でも見ている感じ。
 そこへ、今度はフジテレビの連続ドラマ出演の話です。今時のタレント志望の若い子なら跳び上がって喜ぶのでしょうが、その時の私は歌手しか頭にありません。
 「ドラマ?私、歌手になりたいんです」
 「だけど、ドラマはいろいろ勉強になるよ」
こうして、訳が分からないまま、石坂洋次郎原作・岡田太郎演出「光る海」にレギュラー出演しました。共演者は沖雅也さん、島田陽子さん、中野良子さん、芦田伸介さんなどすごい顔ぶれで、私は沖雅也さんの妹役でした。
 14歳の芸能界デビュー、スタジオで見るもの聞くものすべて初めて、ひたすら言われるままに演じていましたが、果たして演じていたのか、地のままだったのか・・・・。
 このドラマは半年間続きましたが、実はその間も例の牛乳配達をまだやっていたんです。で、いつものように団地で配っている時、ある家の奥さんが、
 「あら、あなた、どこかで見たことあるわ。あ、テレビに出てるでしょ、あなた?」
別に悪いことじゃないのですから、「ハイ」と答えればいいものを、私は、
 「い、いいえ、違います」
そういって、逃げ帰ったのです。恥ずかしいせいもありましたが、やはり女優じゃなく、歌手として認められたいという気持ちがあったんですね。それほど私の中で、歌手への夢は強かったのです。


森昌子や山口百恵と一緒に合宿
 ちょうどその頃、歌の先生に紹介していただき、レコード会社へひとりで訪ねて行ったこともあります。あいにく紹介してもらった相手の方は留守、でも、そのまま帰るのがもったいなく、ひとり椅子に座って社内の雰囲気をうかがっていました。
 昭和47年(1972)の当時、歌謡曲の全盛時代、壁には大勢の歌手の新曲ポスターがずらりと並び、沢山の社員の人たちが威勢のいい口調で電話をかけたり、忙しそうに走り回っったりしていました。さらには、テレビの歌番組でいつも見ている有名歌手の方が、「おはようございます」とにこやかに挨拶して通り過ぎたり・・・・。
―――そうかァ、こういうところで歌が作られてるんだ。ああ、私も早く歌手になりたい・・・・。
 そんな思いにかられたものでした。
 ホリプロからスカウトされたのは、ドラマ出演の最中でした。ホリプロといえば、歌謡界の大手プロダクション、願ってもない幸運です。
―――これで、私もあこがれの歌手になれる!
 天にものぼるような気持ちでしたが、その半面、なんだか現実感がなく、ホントかなァ・・・・そんな感じ。長いあいだ夢見ていたものがいざ実現するとなると、かえって信じられないものなんですね。
 無理もありません。私の娘がもうすぐ中学3年になりますが、その年頃です。大人のようで子供、子供のようで大人という微妙な年齢ですね。
 こうしてホリプロに入った私は、デビューしたばかりの森昌子ちゃん、私のすぐあとに入ってきた山口百恵ちゃんたちと顔を合わせました。
 みんな同じ年頃、海や山での合宿なんかの時は、みんなでふざけ回って遊んだり、感想文を書くのにたがいに頭をひねったものでした。
 そして昭和48年3月、『かくれんぼ』(山上路夫作詞・猪俣公章作曲)で、いよいよ歌手デビューすることになったのです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-4




「スタ誕3人娘」に追いつくぞ!
 生まれて初めていただいた自分の歌、詩も曲も私のために書かれた一生に一度の歌、それがデビュー曲です。
 『かくれんぼ』の譜面を初めて手にした時の感動は、25年たった今も、鮮明に覚えています。
 ―――これが私の歌なんだ、歌手になったんだ・・・・!
 胸の底から、そんな思いがこみあげてきたものでした。
 この歌は、ほのぼのとした画風で有名な故谷内六郎さん、その絵の世界を歌に表現するという企画でつくられました。
 レコード会社は日本コロムビアでしたが、当時デビューする新人歌手には、キャッチフレーズがつけられる習わしで、私についたのは「コロムビア・プリンセス」。
 「コロムビア・プリンセス石川さゆり」と自分でつぶやいてみて、なんだかおかしくなりました。プリンセスがついこの間まで牛乳配達をしてたなんて・・・・。
 喜びの半面、不安も大きいのがデビュー曲です。無事にレコーディングも終わり、発売は昭和48年(1973)3月25日と決まりましたが、それからが不安でした。その日に間違いなく自分のレコードがお店に並ぶのだろうか、ちょっと怖いような思いで、あと30日、あと25日・・・・と、カレンダーを塗りつぶしては待ち焦がれながらも、
 ―――もし、だれか会社の偉い人が「あのレコード、発売は止めにしよう」などといい出したら・・・・。
 そんな空想をしては、15歳の胸を痛めたものでした。
 そしてその日、ドキドキしながらレコード屋さんに入っていきました。私の目に真っ先に飛び込んできたのが、レコードジャケットの中、純白の帽子をかぶって笑う私の写真。
 ―――やった、やったァ!
 まわりに人がいなければ、そう叫んで跳び上がりたい気持ちでした。


どうして私だけが置いてけぼり
 デビューと同時に、キャンペーンが始まりました。まもなく東京の堀越学園高校に進学した私は、横浜の自宅から通うのは大変だからと、ホリプロの現在の副社長さんの家に住むことになりました。
 はじめて両親のもとを離れ、他人の家で暮らすのは心細いものでしたが、これも歌のため、それに会社のほうもこんなに気使ってくれてるんだから・・・・そう、自分にいい聞かせたものでした。
 当時ホリプロでは、同じ年の3人の新人を「ホリプロ3人娘」として売り出す計画を立てていました。森昌子ちゃん、私、山口百恵ちゃんの順です。いわば同じ事務所のライバルですが、みんなまだ14、15歳、ライバル意識より遊び仲間の気分でした。
 計画通りにデビューしたものの、そこから少し様子が変わってきました。昌子ちゃんのデビュー曲が大ヒットし、その年の紅白歌合戦に最年少で初出場、翌年には百恵ちゃんも紅白出場。
 同じころに、別の事務所から桜田淳子ちゃん、アグネス・チャンさんなどもデビューし、脚光をあびていました。
ところが、私のデビュー曲はある程度売れたものの、とても大ヒットとはいえません。「ホリプロ3人娘」に乗り遅れたばかりか、日本テレビでは「スタ誕3人娘」として、昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんがぐんぐん人気をあげていったのです。
 私ひとり置いてけぼり・・・・「鬼の私はさがしてた」というフレーズが『かくれんぼ』にありますが、鬼ごっこをしているうち、私だけがはぐれてしまったような感じでした。
 おまけに、当時はアイドル歌手が沢山出ていて、テレビのオーディションなどで、あまり歌が上手とは思えない新人が合格する、そんな光景を見ると、
 ―――芸能界は実力だけで動いてるんじゃないんだ・・・・。
 15歳で気付くには残酷すぎる事実を思い知らされたものでした。でも、心の底から歌が好きな私は、一生懸命歌うしかありませんでした。


出席率バツグンの”劣等高校生”
 2曲、3曲、4曲・・・・と、つぎつぎに出すレコードは、そこそこに売れても相変わらず大ヒットは出ません。
8曲目の『あなたの私』(千家和也作詞・市川昭介作曲)の時は、市川先生のお宅へレッスンに通い、初めてファルセット(裏声)を入れるなど、工夫もしましたが、やはり今ひとつです。
 当時、音楽記者の方たちに「石川さゆりの歌唱力は申し分ないのだが・・・・」というような批評をよくされました。ヒット曲は上手下手とは別に、時代の風に乗ることが必要です。あのころの私は、それに乗りきれなかった、今になるとそれがよく理解できます。
 いつのまにか、デビュー3年がたっていました。私の通っていた堀越学園高校芸能コースにはタレントや歌手が多く、生徒同士では出席率が悪い者ほど”優等生”視されていたものです。売れっ子ほど学校に来られないわけです。そんな中で私は出席率がよく、従って”劣等生”・・・・。
 それでなくとも多感な青春期、いやでも落ち込み傷つく私をいつも支えてくれたのは母でした。
「あなたの歌のうまさは、だれより私が分かってる。大丈夫だよ、そのうちきっとみんな聴いてくれるから。必ずそうなるよ」
 働き者で楽天的な母は、にこにこ笑いながらそういうのです。母はまた、洋裁が得意で、デビューしたてのころは一生懸命に衣裳を縫ってくれたりしました。こんな母にどれほど励まされたことか。
 それと、スタッフも大きな支えでした。
 「さゆりちゃんの歌は演歌っぽいから、本当のよさがなかなか分からない。でも、いつかみんな分かってくれる」
毎週のようにベストテン番組に出演し、新幹線のように突っ走る昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんを横目に、ひとり自分にこう言い聞かせていたものでした。
「たとえ鈍行電車でも、いつか大ヒットを出すまではやめないゾ。大ヒットを出したら、歌手をやめてやる!」

こころの詩を・・・石川さゆりVol-5


新宿コマで初のワンマンショー
 歌手にとって、デビューのつぎに晴れがましい舞台といえば、なんといってもワンマンショー。自分だけでお客さまを呼び、自分の歌を中心にステージを作る。新人歌手ならだれもが夢見るものです。
 私の初めてのワンマンショーは昭和51年(1976)3月末、新宿コマ劇場でした。デビューして3年、まだ大ヒットもなく紅白歌合戦出場も果たしていませんでしたが、中ヒットはいくつかあり、それでワンマンショーを開いていただいたのです。
 この晴れのステージには、同じホリプロの森昌子さん、山口百恵さんが友情出演してくださいましたが、なにより私が感激したのは島倉千代子さんの応援出演でした。小学年のとき、郷里の熊本で島倉さんのコンサートを見て歌手をめざすことになった私が、その島倉さんと同じステージに立つのです。
 島倉さんは日本コロムビアの大先輩でもありますが、当時のコロムビアには、美空ひばりさん、島倉さん、都はるみさんをはじめ歌謡界のスターが歌手がそれこそキラ星のごとくいらっしゃいました。
 そういう先輩の中でも島倉さんには、とくに妹のように可愛がっていただきました。歌手といってもまだ子供の私は、お化粧のしかたから教えていただいたものです。それだけじゃなく、
「つらいことがあっても、それを無駄にしないで自分の身につけていくのよ」
 そんなふうに、歌と人生の先輩としてのアドバイスもいただきました。大ヒットが出ず悩んでいた私には、それがとても大きな励みでした。


島倉大先輩から振り袖の贈り物
 島倉先輩にいただいたものといえば、ステージ衣裳の着物もあります。小学生のときに見た島倉さんの着物の美しさは今も覚えていますが、そんな話をした私に、「さゆりちゃん、よかったらこれ、着なさい」と素晴らしい振り袖をくださったのです。舞台で着てらしたものですが、あこがれだった大先輩の着物に袖を通すことができる、こんなうれしいことはありませんでした。
 それに、着物ってすごく高価ですから新人のころはなかなかきることができません。私自身、最初のころはそうそう着物が作れなくて、ウールの安いものをずっと着てたりしてたんですね。そこに、あこがれの島倉さんから素晴らしいプレゼントだったのです。
 話は、はるか後年に飛びますが、数年前私は「演歌ルネッサンス」というコンテストのゲストとして呼ばれたことがあります。これは吉岡治先生がまだ陽の当たらない新人の歌い手のために、瀬戸内海の小豆島で毎年開いている催しですが、一生懸命に歌う新人の皆さんを見ながら、ふと昔の自分が胸をよぎり、
 ―――私にできることは何だろう・・・・そうだ、着物をプレゼントしよう。
 かって先輩にしていただいた喜びを、今度は後輩の方に差し上げたい、そう思ったのです。でも、自分の着物を差し上げるなど、変に思われないだろうかと吉岡先生にご相談したところ、「いやァ、それはいいね。励みになるよ」
 というわけで、優勝者の方に着物をプレゼントさせていただきました。目録を差し上げながら、遠い日の自分自身の感激を思い出したりしたものでした。


歌い手も震える阿久悠先生の詞
 話がずいぶん飛んでしまいましたが、私の初のワンマンショーは、島倉さんたちの応援もあって成功のうちに終わりました。
 このワンマンショーの日、私は堀越学園高校を卒業しました。本当は大学へ進んでもっと勉強がしたく、実はいろんな大学の受験資料なども取り寄せていたんです。でも、周囲の事情でそれは無理、また私自身、歌手として中途半端なままでした。
 「これが石川さゆりの歌」と呼ばれるような大きなヒット曲を出したい、そのためにはもう学生気分はふっ切らなくちゃ、そう思いながら社会人第一歩を踏み出したのです。
 そして、卒業の翌日にリリースしたレコードが『十九の純情』(阿久悠作詞・三木たかし作曲)でした。この歌を皮切りに『あいあい傘』『花供養』と、阿久先生、三木先生のコンビによる歌が続きました。
 阿久先生とはそれまで「スター誕生」などの番組でご一緒してましたが、私たち少女歌手にとっては”寡黙な怖いお父さん”っていう感じでしたから、とてもこちらから声をかけることなんてできませんでした。
 当時から先生はいろんな歌い手に詞を書いてらっしゃいましたが、いつだったか岩崎宏美ちゃんが、
 「阿久先生って、どうしてこんなに私たちのこと、よく分かるのかしら。レコーディングしながら私、思わず涙が出ちゃった」
 そんなことをいったことがあります。実際、多感な少女の思いや胸のうちを、まるですぐ傍で見ていたような詞なんですね。それがろくにお喋りもしたことのない先生から生まれるのですから、フシギでしかたありませんでした。
 私も素敵な詞を書いていただきました。最初のレコーディングの時、阿久先生は姿をお見せになりませんでしたが、それ以後もずっと同じです。「歌い手の現場には立ち会わない」、これが作詞家としての先生のスタイル、それでいて、どこからか時代や歌い手をじっと見すえている―――だからこそ私たち歌い手も驚いてしまう、そんな詞が生まれるんでしょうね。
 一方、作曲の三木先生にはレコーディングにも必ず立ち会っていただき、細かくアドバイスしていただきました。それだけじゃなく、「こういうレコードがいいよ」など音楽のいろんなことを教えていただきました。
 寡黙なままじっと歌い手や時代を見すえる阿久先生、いつも新しい音楽を志向する三木先生のお二人が、『津軽海峡・冬景色』をうみだしたのです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-6


「津軽海峡・冬景色」で紅白初出場
 高校を卒業して名実ともにプロの歌い手として歩き出した昭和51年、その秋に大阪の新歌舞伎座でコンサートを開くことになりました。
 早速、スタッフの方たちがステージの構成を練り始めたのですが、まだ大きなヒット曲がなく、コンサートを締めくくるエンディングにふさわしい曲がありませんでした。頭を悩ませながら考えこんでいたスタッフの一人が、
 「あれはどうだろ、今度のアルバムの最後のあれ・・・・」
 その頃私は、「365日恋もよう」というタイトルアルバムを出したばかりでした。阿久悠・三木たかし両先生によるオリジナル12曲で、ちょうど暦のように1月から12月までの歌がおさめられていました。スタッフがいう「あれ」はその12月の歌です。
 「あ、あれ? 私もいいと思います。すごくいい歌」私もすぐに同意しました。
 『津軽海峡・冬景色』というタイトルのその歌をレコーディングした時、いつもと違う感触があったのです。
―――これは聴いてほしい歌だなァ・・・・。
 すでに十数枚のレコードを出していましたが、そんな思いがしたのは初めてでした。ヒットしてほしいいう願いとは別に、とにかく聴いてほしい・・・・。
 そんな思いを起こさせる何かがその歌にはありました。歌詞を読み返すたびに、北の冬景色が鮮やかに目の前に広がり、その景色の中にひとりリンと立つ女性の姿が浮かび上がってくるのです。
 阿久先生の詞の鮮やかさに加え、三連音符を駆使したメロディもすごく新鮮でした。作編曲ともに三木先生でしたが、まるで海鳴りのようなイントロからすでに最高の音――こちらがドキドキするほどの鮮烈なメロディでした。
 「じゃ、エンディングはあれで行こう」
私もふくめスタッフ一同うなずきましたが、その「あれ」がどんな運命をもたらすことになるのか、だれ一人気付いていませんでした。


「聴いてほしい」の思いをこめて
 初めて立つ新歌舞伎座のステージ。私はただひたすら「聴いてほしい」という思いをこめて『津軽海峡・冬景色』を歌いました。今でこそ、自分なりの歌の組み立て方を身につけていますが、その頃はただ歌にしがみついているという感じでした。まして、それまで歌ったことのない新しいタイプの曲、振り落とされないようしがみつくのが精一杯でした。
 そんな状態ですから、会場のお客さまの反応もよく分からなかったというのが正直なところです。手応えがあったような、ないような・・・・。
 ところが、次の日から事務所やレコード会社に電話が入り始めたのです。
 「あの最後の歌、もう一度聴きたい」
 「いつレコードになるんですか?」
 連日のように問い合わせの電話があり、会社は急遽アルバムからシングルカットすることにしたのです。
こうして昭和52年1月1日、『津軽海峡・冬景色』が私の15枚目のレコードとしてリリースされました。
 その前日の大晦日、紅白歌合戦では同期生の森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さんたちが華やかなステージに立っていました。コタツに入ってテレビの中の彼女たちを見る気持ち・・・・ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば嘘になります。
 こんな思いも重なり、『津軽海峡・冬景色』のキャンペーンにはそれまでになく力が入りました。全国各地の放送局やレコード店さんを回りましたが、どこへ行っても「この歌はいいね。きっと大ヒットするよ」と励ましていただいたものでした。
 たとえば、青森放送のディレクター西沢弘さんは、真っ先に私をラジオ番組のゲストに呼んでくれたばかりか、3週間でレコードがすり切れるほど『津軽海峡・冬景色』を毎日、何度も番組で流してくれたのです。歌い手として、こんなありがたいことはありません。そういう皆さんの応援にこたえなければと、私も行く先々で一生懸命に歌い続けました。


ベストテン番組に同時に3曲も
 その年の冬は、東京でも例年になく雪が多かったのですが、そんな春先の寒い夜のことです。
 自宅で遅くまで寝つけずにいた私は、ふと戸外の小さな歌声を耳にしました。聞くともなく聞いていると、
♪♪こごえそうな鴎見つめ泣いていました・・・・
 そっとベランダに出て下を見ました。サラリーマンらしい中年男性が道の向こう側で立ち止まったまま歌を口ずさんでいましたが、よく見るとどうやらオシッコ・・・・やがて用を足した男性は歌い続けながら千鳥足で闇の中に消えていき、お世辞にも上手とはいえない『津軽海峡・冬景色』の歌だけが尾を引くように残りました。
 胸の奥に何かがポッと灯ったような感じでした。
その小さなできごとがまるできっかけみたいに、3月に入ってから急にレコードが売れ出したのです。いったん売れ始めたかと思うと、あとはぐんぐん伸び、あっという間に50万枚、60万枚・・・・おまけに『津軽海峡・冬景色』に続いて出した『能登半島』『暖流』も発売と同時にすごい売れ行き、テレビのベストテン番組に3曲が同時に並んだのです。
 いったい何がどうなってるのか訳が分かりません。私にとっては、自分の歌が大ヒットしているという実感より、突然嵐のような忙しさに巻き込まれた感じばかり。テレビ局からステージへ、ステージからテレビ局へと一日中駆け回る生活でした。
 そんな地に足がついていない状態が続き、年末が近ずくにつれ、今度は音楽賞ラッシュです。テレビ各局の音楽賞はじめ、日本レコード大賞歌唱賞、日本歌謡大賞放送音楽賞・・・・。
 まるで夢でも見ているようでしたが、最後のうれしい悲鳴が紅白歌合戦初出場決定の知らせでした。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-7




快挙を共に喜んでくれた人たち
 デビュー5年目の『津軽海峡・冬景色』の大ヒット、数々の音楽賞受賞、そして紅白歌合戦初出場決定―――盆と正月がいっしょに来るといいますが、本当にそんな感じで、紅白出場決定のお知らせをいただいた時は、なんだか現実感がありませんでした。
 その夜、わが家の食卓には母の手作りの赤飯や煮物が並びました。子供の頃からなじんだそのお祝い料理を前にして、やっと喜びがこみあげてきたものでした。
 何よりうれしかったのは、まだ売れてない頃からずっと応援してくれていた方たちの祝福の言葉でした。とくに、キャンペーンで歩いては、いつも励ましていただいた地方の方たちから、
 「ほらね、きっと大ヒットすると僕がいった通りになったでしょ」
 「さゆりちゃんは、いつか必ず陽が当たると信じてたけど、本当によかった、よかったね」
 そんな電話が次々に入り、温かい言葉に思わず胸がキュンとなったものでした。
 そして、大晦日。どんな歌い手も初めての紅白歌合戦の舞台はひどく緊張するといいます。それだけ歌い手にとっては晴れの大舞台、まして5年目にして初めてそこに上がる私、さぞやガチガチに緊張と思うでしょ?
 ところが私ときたら、まったく緊張感なし。何しろうれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、
 ―――お、これが紅白歌合戦のセットかァ・・・・!
 要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまったのです。



不遇時代の苦労なんかなかった
 紅白出場でようやく一人前の歌い手として認められ、新聞や雑誌の取材も一気に増えましたが、インタビューで必ず出たのが、「ヒットに恵まれないあいだ、苦労したでしょ?」という質問でした。
 それに対して私は「ちっとも苦労したという思いはありません」と答えていましたが、別に負け惜しみをいってたわけじゃないんです。ずっと励ましてくれる方々もいましたし、それより何より、歌うことが好きで好きでしかたなかったんですもの。
 たとえば、テレビの歌番組ではリハーサルがあります。売れっ子の歌い手さんはよく”本番飛び込み”といって、リハーサルには代役を立て、本番に駆けつけ歌うことが多かったのです。そんな時私は、自分から「私、歌いまーす」と代役を買って出たものでした。たとえ人の歌でも歌ってさえいれば幸せ、そのうえそれがずいぶん勉強になったんです。
 勉強といえば、ヒット曲に出合う前にいろんなお稽古ごとをしました。でも、これは勉強というより私の癖で、何か素敵なものに出合うと、
 「私にもできないかなァやってみたい」
 という気持ちがムクムク頭をもたげてくるのです。そうやって三橋美智也さんに民謡を習い、さらに二葉百合子さんに浪曲まで習いました。
 何かの役に立ててやろう計算してお稽古したわけではありませんが、そのどれもがあとになって活きたような気がします。生意気なようですが、不遇時代にこそ本当のしっかりしたものを身につけることができるのかも知れませんね。


「津軽海峡・・・」は女性の自立の歌
 先日、NHKが行った「1000万投票 BS20世紀日本の歌」の発表がありましたが、その上位100曲の中に、『天城越え』とともに『津軽海峡・冬景色』も選んでいただきました。本当に歌手冥利につきます。
 『津軽海峡・冬景色』が発売されてからもう21年たちますが、今でも冬になると、いろんな番組でかけていただいたりしています。そんな時ふっと、白いドレスを着て夢中で歌っていた当時の自分のことがよみがえってきます。
 「あの歌で僕は、自立していく女性を書いたんだよ」
 いつだったか作詞の阿久悠先生がそうおっしゃったことがありした。それまでの歌に登場していた女性像といえば「待つ、耐える、忍ぶ」、そういうイメージばかりでしたが、そこから抜け出て、自分の言葉や行動をもって生きていく女性を、阿久先生は雪景色の中に立たせました。
 「さよなら あなた 私は帰ります」
このフレーズだけで、そういうリンとした女性像が浮かんできます。それは、同じ阿久悠・三木たかし両先生による『能登半島』『暖流』にも共通しています。これらの歌がヒットしていた頃、ファンの方々からいろんなお便りをいただきました。
 「さゆりさんの歌、自分の言葉や思いを代弁してくれているようです」
 「あの歌を聴きながら、一人で現地へ行ってきました」
 女性自立という時代の風に揺れながらも、現実生活ではなかなか思い切れない、そのもどかしさが歌の中だと越えられる・・・・そういう思いで私の歌を聴いていただいていたのかも知れませんね。
 歌というのは、本当にふしぎだナと思います。作詞・作曲の先生方から歌い手に渡され、歌い手から聴き手に届けられる、そこから先、聞き手の中でどう流れていくのか、それは予測しようもなく、だからこそ限りなく深い・・・・そう思えます。
 ラジオから流れる21年前の自分の歌声を聴きながら、
 ―――ああ、あの頃は歌にしがみつき、必死で歌っていたんだなァ。
 ふと、当時の自分自身がいとおしくなりなす。
 最初に歌をいただいた時、どう表現するかなど考えるゆとりもなく、ただ無我夢中、聴いてほしい初めての歌にめぐりあえた、その思いだけで一杯でした。それ以後も歌い続け、のちに三木先生に、歌とともに年齢を刻み成長した代表例としてこの歌をあげていただいたことがあります。十代の終わりの年にそういう歌にめぐりあえたことは本当に幸せでしたが、まだまだ新しい出会いが私を待っていたのです。

こころの詩を・・・石川さゆりVol-8


「火の国へ」歌う心はふるさとへ
 『津軽海峡・冬景色』が大ヒットしたのは昭和52年、その翌年には『火の国へ』を発表しました。火の国、つまり私のふるさと熊本を舞台にした歌です。この頃はずっと、私の歌の作詞は阿久悠先生、作曲が三木たかし先生のお二人で、『火の国へ』もそうでしたが、チョット面白いエピソードがあるんです。
 阿久先生は最初に歌を書いていただいた時から、どうやら私を”石川県出身”と思っていらっしゃったようなのです。それで、『津軽海峡・冬景色』のあと、ふるさとの歌を書いてあげようということでできたのが『能登半島』だったらしいんですね。
 なにかの時にそんな話になり、「私、石川というのは本名で、ふるさとは実は熊本なんです」ということをお話ししたところ、じゃ、改めてふるさとの歌をと、『火の国へ』を書いてくださったのです。
 そんないきさつから生まれたこの『火の国へ』も大好きな歌のひとつで、コンサートでは今も歌っています。歌うたびに、心の中でふるさとへ帰るような気がします。
 コンサートといえば、昨年4月にスタートしたデビュー25周年記念コンサートも、そろそろ終わりに近ずいてきました。そのコンサートと並び、もうひとつ私の歌を聞いてくださる皆さんに喜んでいただける事は・・・・と思い、行ったのが私の歌の中から新たにレコーディングをした39曲です。
 全国のレコード屋さんやファンの方々からアンケートをいただき、私のこれまでのすべての歌の中から39曲を選びました。39というのは”サンキュー”、私からの感謝の気持ちをこめたものです。
 デビュー曲『かくれんぼ』から昨年の『歌麿』までの曲の中には、もちろんこの『火の国へ』も入っています。こちらのほうも、ほぼ全部のレコーディングを終えましたが、1曲ごとに当時の自分自身や忘れていたいろんなことが、ふと思い出されたりしたものでした。


20歳を記念してバイクの免許を\plain
 『火の国へ』を出した昭和53年(1978)、私は20歳になりました。人生で一番輝いている年齢でもあり、同時に一番悩みもかかえている年齢、それが20歳ではないでしょうか。
 成人式当日、私はNHKの「青年の主張」にゲストとして招いていただき、自分自身の成人式には出席できませんでしたが、同じ年齢の方々が力強く将来の夢や抱負を語るのを聞きながら、ふと思ったものでした。
 ―――これから自分はどうやって大人になっていくんだろう・・・・歌が好きで今まで夢中になってやってきた。ヒット曲が出るまでは絶対やめないぞって頑張ってきて、『津軽海峡・冬景色』という大ヒットにめぐりあえた・・・・でも、これから先私は、何を見つけて、どうやって歌っていくんだろう・・・・。まぶしいほど輝いているようでいて、でも、まだよく見えない未来。それを前にした20歳の夢と不安を、私もかかえていたのです。
 自分なりに考え、出した結論はこうでした。
 ―――歌を歌っていたせいであれができなかった、これもダメだったという言い訳はイヤだな。そんな言い訳を自分に残すことはしたくない。
 そう思ったとき、パッとひらめいたんです。
 ―――そうだ、原付きの免許を取ろう!
 何とも単純な結論で、おかしいでしょ?でも、何であれ自分で行動し、それを一つずつ形にしたかったんですね。で、運転免許試験場へ行き、原付バイクの免許取得。次の年には、普通免許も取りました。
 こんな単純なことでも、すごく満足感がありました。だれかに決められるのではなく、自分で考え自分で行動することの大切さを、身をもって知ったわけですね。


休日には電話をシャットアウト
 仕事の面でも、そんな自分の考えを活かすことにしました。当時は、朝起きてから夜寝るまで、すべてスケジュールが決められていました。テレビスタジオ、ステージ、インタビュー・・・・と休むまもなく駆けずり回る毎日で、それは歌い手にかぎらず、タレントさん、役者さんも忙しくなった時にみんな通る道です。
 でも、ふっと自分は何をしているんだろうと思うことがあります。ただ決められたスケジュールを消化しているだけじゃないの・・・・このままだと、自分自身を見失うところまで行っちゃう・・・・。
 で、また決めたんです。
 ―――休みの日に、自分で何をやっていいのか分からない状態になるのはやめよう。
事務所に電話しました。
 「オフの日、私に連絡が取れないかもしれません。緊急の場合は別にして、オフの日には電話をしないでください」
 担当マネジャーはびっくりしてしまいました。無理もありません、それまではただスケジュール通りに動いていた私が突然そういったのですから。私の考えを聞いたマネジャーは、
 「そうかァ、さゆりも大人になったんだなァ」
感心したようにいったものです。でも私のホンネは、大人になるため、まずオフだけでも自分でスケジュール管理をしてみよう、ということだったんですね。
 こうして休みの日は完全に私のものになりましたが、といって別に何か立派なことをしようというわけじゃないんです。何をするにしても、またしないにしても、それが自分の意志によること、自分で決めて歩いてみたい。
 で、実際に休みの日に何をしてたかというと、近くの多摩川を散歩したり、赤いバイクを乗り回したりと、実にたわいないんです。でも、そんなことをしながら、それがだれ

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おてもやん あんたこの頃
嫁入りしたでは ないかいな
嫁入りしたこた したばってん
ご亭殿(どん)が  ぐじゃっぺだるけん
まーだ盃ゃせんじゃった
村役 鳶役 肝いり殿
あん人たちの 居らすけんで
後はどうなっと きゃーなろたい
川端町さん きゃー巡ろい
春日 ぼうぶらどんたちゃ
尻ひっぴゃーで 花盛り 花盛り
ピーチクパーチク ひばりの子
玄白なすびの いがいがどん


ひとつ山越え もひとつ山越え あの山越えて
私ゃあんたに 惚れとるばい
惚れとるばってん 言われんたい
追い追い 彼岸も近まれば
若者衆も 寄らんすけん
熊本(くまんどん)の  夜聴聞(よじょもん)参(みゃー)りに
ゆるゆる話も きゃーしゅうたい
男振りには 惚れんばな
煙草入れの 銀金具が
それがそもそも 因縁たい
アカチャカベッチャカ チャカチャカチャ

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斎藤信夫作詞・海沼実作曲

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります
石川さゆり/童(わらし)~日本童謡唱歌集 連結在此

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2001/4/28《仮想状況》 『津軽海峡冬景色』です。阿久悠の作詞,三木たかしの作曲,石川さゆりの歌である。
 この歌の主人公は,政治や経済や文化の中心である東京の雑踏から,「上野発の夜行列車」で北へ帰ろうとしている。夜行列車の単調な列車音を聞きながら,主人公は暗い夜の窓を見て,物思いにふけっていた。夜行列車を「おりた時」,すでに「青森駅は雪の中」にあった。雪は音を吸収する。主人公は静けさの中に一人立っている。
 地理をなぞれば,主人公は北海道に帰るということになろうが,これは違う。主人公は極北に帰る,つまり孤絶の極北に帰るのである。いや主人公だけではない。「北へ帰る人の群れは 誰も無口で 海鳴りだけをきいている」ように,夜行列車の乗客たちはすべて無口で自分の中に沈んで孤絶し,自らの心の中の叫びにも似た海鳴りを聞きながら,孤絶の極北へ向かっているのである。そして乗客たちと同じく「私もひとり 連絡船に乗り こごえそうな鴎見つめ 泣いてい」る。「こごえそうな鴎」は自分の孤絶の心象であり,乗客たちもそこに自分たちの姿を射影している。そして,それ自体「こごえそうな鴎」とも言うべききゃしゃな石川さんが「ああ 津軽海峡冬景色」と海鳴りのような悲しい叫びを発するのである。実生活で噂のように,石川さんが生意気でもわがままでもそれはどっちでもよい。彼女が放つ海鳴りの声が感動的なのである。
 孤絶は自らの力で感覚するものである。そしてよくある逆説だが,孤絶の実感こそ,他者との通路を産みだし,真に他者に優しくし得る基礎となるものであると思う。「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が 指をさす」が,それは少し知ったかぶりの孤絶者の余計なお節介である。極北は自ら見出すものである。主人公は「息でくもる 窓のガラス ふいてみたけど はるかにかすみ 見えるだけ」で極北は見えない。自らの力で感覚するしかないのである。
 誰にも依存できない,誰にも保護されない,誰にも受容されない,その孤絶の極北から,再び人に見えるのでなければならない。出会うのでなければいけない。今何度も「ああ 津軽海峡冬景色」という孤絶の叫びが私の耳の中に反響し,そこに何やら私の悟達のようなものが現れ始めている。
 主人公は「さよならあなた 私は帰ります」と言う。だが,この「あなた」は特定の誰か男なのではない。これは他者一般の抽象である。その証拠にこの「あなた」は全く描写されていない。さよなら,他者よ,私は孤絶する。「風の音が 胸をゆする 泣けとばかりに ああ 津軽海峡冬景色」。胸が張り裂けそうだし,泣き崩れてしまいそうだが,だが,行かなければならない。「あなた」に「さよなら」して,孤絶の極北へ。その感情をとことん味わい尽くして,とことん表出しきって,その後に現れるものを信じよということであろうか。


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2000/6/24《仮想状況》 『天城越え』です。作詞は吉岡治,作曲は弦哲也,歌は石川さゆりです。
 先日,何かの歌番組で石川さゆりさんがこの歌を熱唱していた。カラオケで最もよく歌われるのがこの歌だそうである。みんな熱唱するらしい。恥知らずなことである(笑)。
 この歌,とりあえずある特定の男に狂おしく発情し,激しく性交している歌である。酒でも飲まなければとても恥ずかしくて歌える歌ではない。あっカラオケって酒も飲める所でしたね。だったら,いいわけですね(笑)。
 一体,何を言い出すのかとお思いでしょうが,人間とは何か?(笑)。
 人間は他の動物と同じように,生活し,発情し,他と接触し,つがいや群を作る動物である。といっても,人間の生活は他の動物のように自然から直接,狩猟・採集するというのではない。大部分が人工化されている。人間は仕事や事業に従事して金を稼ぎ,その金と交換に生活手段を入手する。それが人間の生活だから,人間にとって失業や倒産は,他の動物にとっての狩猟・採集の対象の欠乏や失敗に匹敵する。動物的エネルギーの根源に関わるのである。だから,貯金とか就業機会とか老後の年金とかの問題はあだやおろそかに扱ってはならないのである。で,これはこの歌には関係ない(笑)。
 さらに人間は発情するが,他の動物のように発情の時期が特定化されずに慢性化し,しかも,工作し,思考し,幻想する人間にとっては交尾の本能も単一的,直接的,局部的なものではない。48手も発明するし,特定の男(女)を相手にしながら他の男(女)と比較対照し,眼前にない事実を想像したりもする。しかも,人間の群は他の動物のように単に生活や安全のために連携するために群を作るのではなく,あるつがいのありようについて様々に干渉する存在である。他の動物もつがいを作るときには争うこともあろうが,それは単に力関係で勝負が決まって終わる。人間はそうではない。そのつがいは間違っているなどと余計なお節介を焼くのである(笑)。で,これがこの歌のテーマである(笑)。
 この歌の女主人公はたぶん伊豆の山奥の温泉に不倫旅行に来ている。相手の男は女主人公から逃げようとしている気配があるが,現在,女主人公は男に対して猛烈に発情し,連鎖的に性交したい,継続的に接触したい,つまり自分の近くにどぎつく肉体的に所有したいと感じている。それは生活上の協力や交流としての同居というようなレベルを隔絶しているのである。
 「隠しきれない 移り香が いつかあなたに しみついた」。ハメっこ,触りっこし過ぎて,体臭が混ざり合ってしまった。「誰かに盗られる くらいなら あなたを殺して いいですか」。この旅行から帰宅すると,男はたぶん奥さんの所に帰り,肉体的には盗られてしまうのである。盗られたくないわけだ。「寝乱れて 隠れ宿」。山奥のあまり人気のない宿の一室で,浴衣(温泉宿って浴衣だよね?(笑))が雑巾のようにくしゃくしゃになっているのである。「九十九折り 浄蓮の滝」。これは山奥のイメージを出すためである。
 「舞い上がり 揺れおちる 肩のむこうに あなた…… 山が燃える」。これは男があぐらをかいた所にまたがってハメている,いわゆる対面座位なのである。それで肩越しに山が見える。舞い上がり,揺れおちるのは,座位における,ゆっくりだが激しい上下運動の産物であり,それで興奮しすぎて,山が燃えているように見えるのである。このあたり,アッ,アッ,アッフーンとかかけ声も入れて欲しかったなあ(笑)。
 「くらくら燃える 火をくぐり」もただセックスの興奮である。「あなたと越えたい 天城越え」。天城を越えたら何処へ着くのか?。まさか国道414号を通って,静岡県天城湯ケ島町から、静岡県河津町へ行くという意味ではあるまい(笑)。これはやはり生と死の境界と思うべきであろう。すでに女主人公は「何があっても もういいの」と言っている。あなたと一緒に死の世界へ行きたいということである。
 「口を開けば 別れると 刺さったまんまの 割れ硝子」。女主人公と男のつがいの性愛は危機にあるわけである。男はたぶん最後にけじめをつけたいとか何とか言われて連れ出された。ひょっとするとこれは無理心中が待っているのかも知れない。「ふたりでいたって 寒いけど 嘘でも抱かれりゃ あたたかい」。これはよくある話である。その女と同居する気も,所有される気もないけれども,セックスだけはしたいという男の得意技である。嘘でも抱かれりゃ,あたたかいだろう,気持ちいいだろう,ここはどないやなんて言っていると,後で包丁で刺されるのである(笑)。
 「わさび沢 隠れ径 小夜時雨 寒天橋」。これらは山奥のイメージを相乗するためである。「恨んでも 恨んでも からだうらはら あなた…… 山が燃える」。今度は肩の向こうに,ではないから,座位の位置を変えたのかも知れない。しかし,やっぱり山が燃えるのだから,顔の向きは変わっていない。とすると,…。あっわかった。これはそのまま前へ進んで,フェイス・ライディングして男の口にハマグリを食べさせたのだ。「からだうらはら」とクンニリングスの部分性は対応性があるかも知れない。…しかし,私もたいがいつまらんことを探求しすぎだわ(笑)。
 「戻れなくても もういいの」って男は戻る気なのだから,これは怖いぞ(笑)。「くらくら燃える 地をはって」。これはたぶんお尻を上げて顔を畳か何かにつけたいわゆる尻上げハマグリ突き出し挑発性匍匐前進位という体位である。「あなたと越えたい 天城越え」。匍匐前進して興奮しながら,こいつ殺して,私も死んでやると思っているわけである。やっぱり怖い(笑)。
 以下はほぼ繰り返しなので省略する。
 ということで,私のようにまじめな人は,こういう歌を人前で歌うと,恥ずかしさのあまり顔が赤黒くなってしまうので,歌いません。しかし,どうなんでしょうねえ。男はやっぱりこれぐらい惚れられたい,これぐらい激しくセックスされたいと思いながら熱唱し,女はこれぐらい激しく惚れたい,犯すように男とセックスしてみたいと思いながら熱唱するのでしょうかねえ。
 ご苦労様です。今日はこのへんで(笑)。

人生の仮想舞台
・・・歌詞あるいは歌われざる詩・・・

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石川さゆりさんという歌手は、女心をさりげなく唄いつつも、グングンと盛り上げて行く表現力が凄い人です。ですから、まず、「涙つづり」はいかにこのさり気なさを出してスタートするかが最初のポイントです。

 ~だまされました 私が言えば
  似たものどうしと あなたが笑う
 これが出だしの2行ですが、ここは何もつくらずに普通に唄うことです。
 しかし、次ぎの
 ~借りもの世界が 始まりで
 は、きっちりと声を前に出していきます。特に「始まりで」では、16符音符が続きますので小気味良く唄ってください。
決して「始ま~りで」というふうに伸ばしてはいけません。
そして、
 ~くの字 登りの 坂ばかり
 ですが、この辺りからグーッと気持ちを入れていきます。気持ちが入ったら、
 ~がんばって 越えてきた
 といくわけですが、ここは自分に言い聞かせる唄って下さい。
特に「がんばって」は、少し笑うように。
ここまではさり気なく唄ったり、強くうたったりしてきましたから、笑って唄と歌に変化がでて、聴いているほうは、何だろうと聴きい入ってしまうんですね。
ここら辺りが石川さゆりさんの妙味です。

さらに、「越えてきた」の「た」のひと文字ですが、ここは軽く言葉を置く感じでさゆりさんは唄っています。ここも石川さゆりさんのニクイところですね。そして最終行の
 ~涙つづりの 夫婦道よ
 ですが、そのまま「夫婦の道よ」と、持って行くのではなく、「夫婦の」の後に少しタメを置いて、「道よ」と持っていくんです。ここら辺りの歌のつくりは、石川さゆりさんのタダモノではないところです

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娯楽という華美な衣装を纏った歌手たちを透視したとき、そこに<歌>としての真実の姿があるべきなら、今まさに石川さゆりは真骨頂であると思う。何故なら、彼女の唇から投擲される大衆歌謡のひとつひとつは、物語の伝達と伴奏しながら言葉が内蔵するエネルギーの流露を私たちに体感させてくれるからだ。

それは神道における祝詞(のりと)、仏教における声明(しょうみょう)に通じる吉凶の祈念である。無論、表現者自身はそこまで考えて歌唱している訳ではなかろうが無意識下にトランスメーションされた歌は、一気に現実の壁を突き破り彼女に接触したすべての者を芸能の原野へと錯行させる勢いを持っている。いわゆる芸能の本卦がえりだ・・・。

今回、歌手生活25周年を記念する全集の再録音に何日か立ち会って感心したことは、石川さゆりが歌を劇的に表現する方法よりどの楽曲も実に緩やかに語ろうとしている点だ。発汗した肉体の表皮より寡黙な内奥を語ることによって情緒の豊かさをより増幅させられる歌唱法をいつのまにか会得していたのだ。

元来、日本の芸能は語り部の歴史でもある。彼女の歌唱の奥底には「平曲」やら、浄瑠璃やら、瞽女うた、浪曲、都々逸など我が国が誇るべき芸能の血脈がない交ぜとなって継承されていると私は確信した。それでなくてなんで歌謡曲に祝詞や声明を体感するだろうか。

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石川さゆりの声には魔性があると僕は考えている。いかにもおどろおどろしいような、そんな魔性ではなく、無垢で純情なおぼこ娘が実は蛇の化身であるといった類の魔性だ。

そう、例えば長唄『京鹿子娘道成寺』の白拍子。実は清姫の亡霊で、最後には蛇となって鐘にとりつくのだが、それまではなんとも可憐な町娘の風情で踊ってみせる。石川さゆりの声には、白拍子に化けた清姫の胸にある冷たい炎のような情念が感じられる。

彼女の歌を聞いていると、このおぼこ娘は一体いつ正体を見せるつもりなのかという期待と不安で息苦しくなってくる。この緊張感がたまらない魅力だ。

石川さゆりは決して正体を見せてはくれない。むろん見せないことが素晴らしいのだが、蛇の息づかいや、身のうねり、肌ざわりは確実につたわってくる・・・。

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渦中の人物との関係は…
long time ago no news


 過去23回のNHK紅白歌合戦出場を誇る石川さゆり(43)=写真=が渦中の人物との関係から、昨年に続き、“書き入れ時”の年末に向け窮地に立たされている。


 その人物とは、国民銀行不正融資疑惑にからみ、整理回収機構(RCC)から「56億円を返済しろ!」と請求訴訟を起こされているほか、さきごろその疑惑にかかわったゴルフ経営会社グループ総帥の種子田(たねだ)益夫容疑者(64)。種子田容疑者は東京商銀による不正融資事件の共犯として逮捕されているから、石川にも火の粉が降りかかりかねない状況だ。


 石川が代表を務めていた個人事務所が、カラオケボックス事業に乗り出すため国民銀行から35億円の融資を受けたことがきっかけ。うち7億円は返済したが、RCCは「事務所経営を種子田氏に引き継いだ後も、石川が保証人として残っていた」として、こちらの貸付額28億円と合わせ計56億円もの返還訴訟を起こしたのである。


 石川側は、どう迎え撃つつもりなのか。代理弁護人の大谷和彦氏は、こう憤慨する。


 「石川は営業権の譲渡に伴って、保証人を抜けたという報告を種子田氏から受けているので、その後の保証については責任はない。それに、国民銀行側は自分たちの不正融資疑惑を隠すために『優良物件しか紹介しません』と言って進めた経緯もあり、銀行側に貸し手責任があるんです」


 この種子田容疑者は石川のパトロン説があることも手伝って、よりファンの心証を悪くしているのだが、大谷氏によると「石川本人は『親しい知人という関係だけ』と言っている。“それ以上の関係”と報じている方がおかしい」という。


 種子田容疑者はバブル期に、出身の宮崎県でレジャー業など30社以上を経営。そのゴルフ場オープンを取材したジャーナリストが、こう証言する。


 「あのときは、盛大なパーティーが開かれて石川以外に、大物歌手2人が招かれて歌を披露したが、なぜか一番若い石川だけは歌を歌わず 、種子田さんが、賓客扱いしていたのが印象的だった。これ以外にも、種子田さんが、自家用ヘリに石川を乗せ、日南海岸にある別荘に降り立ったのを地元の人が何度も目撃している」


 2人の関係と返還訴訟。“みなさまのNHK”は、どう判断するのか-。


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long time ago no news

▲ 舞妓姿で熱唱する石川さゆり

◆ 東京・青山で音楽会 ◆

 破たんした国民銀行からの融資をめぐり、整理回収機構(RCC)から約56億円の返還を求める訴訟を起こされた歌手・石川さゆり(43)が東京・青山劇場での恒例の「音楽会」を2日夜、開幕させた。石川は開演前に取材陣を集め、騒動について初めて会見。「なんで、こんなことになっているんだろう…ただ受けとめなければならない現実もある」と本音を明かした。


◆ 世田谷の豪邸手放す ◆

 ステージ上のあでやかな歌唱パフォーマンスとは対照的に、会見中の表情は曇りがちだった。係争中とはいえ、トラブルをめぐる金額はため息しか出ないくらいの数字。石川も「難しいことがいっぱいで、どこからどこまで、どう説明したらいいのか…」とキツネにつままれたような顔つきだ。

 事実関係については「私の知りうる限りのことを弁護士の先生にお伝えして相談しておりますので」と代理人に一任しているとし、感情的に。訴えに対して「私はそんなにズルい生き方、ウソをつくような生き方をしてきた覚えはない」と困惑気味に反論した。

 ただ、それなりに「現実」も受けとめた。騒動の過程で、東京・世田谷区に自宅として暮らしていた豪邸が他人に渡ったことを告白。金銭トラブルで人間不信におちいっている様子で「私の計り知れないところがたくさんあって、人を信頼するとか、人を信じることはとても難しいことだと知りました」とステージでは吐かない本音も。

 この日は8回目を迎える恒例公演「石川さゆり音楽会」の初日。今年は「日本歌謡の源流を綴る」と題し、芸者に扮しての「滝の白糸」、下駄を履いてのタップなど35曲を熱唱。大衆音楽のルーツを探り、今年度文化庁芸術祭参加作品として公演する気合で臨んだ。

 本来ならステージに集中したいところだろうが、舞台裏は気が気でない状態。訴訟トラブルで浮上した男性問題については「パトロンとか、そのような後援者はいませんし、1人で一生懸命生きているつもりです」と一部の報道を否定。「私の生きていく姿勢、歌う姿勢は何も変わりない。(訴訟にも)しっかりと対処していきたい」と語気を強め、晴れない胸のうちはすべて歌にステージに込めたい構えだ。

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故吉田正さんの墓を訪れた石川さゆり(左)と五木ひろし(右)=茨城県十王町の法鷲院
 
 歌手・五木ひろし(57)と石川さゆり(47)による全国コンサートツアー「ふたりのビッグショー」の制作発表が10日、茨城県日立市の吉田正音楽記念館で行われた。
 同コンサートは作曲家の故吉田正さんの作品を中心に昭和の名曲を歌い継いでいく。NHK紅白で大トリを務めた過去にないビッグなコンビが、1カ月間その役割を担う。
 この日は吉田さんの7回目の命日。制作発表後に五木と石川は、茨城県十王町の法鷲院に眠る吉田さんの墓前に報告。五木は「幅広く昭和の名曲を取り上げながら、吉田メロディーの良さを引き出したい」と話し、石川も「吉田さんにしっかり歌えといわれた気がする。デュエットで吉田メロディーの艶やかさなど表現したい」と成功を誓った。
 9月1日の東京・NHKホールから9月30日のNHK大阪ホールまで1カ月間、全国14カ所31公演を行う。
(デイリースポーツ) - 6月11日10時46分更新

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CD (1993/11/03)
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カスタマーのおすすめ度: 5.0 5つ星のうち
カスタマーレビュー数: 1
曲目リスト
1.砂山
2.冬の夜
3.うれしい雛まつり
4.里の秋
5.村祭
6.叱られて
7.赤とんぼ
8.みかんの花咲く丘
9.ずいずいずっころばし
10.花かげ
11.おぼろ月夜
12.花
13.花嫁人形
14.カラスの赤ちゃん
15.雨降りお月さん
16.証城寺の狸ばやし
17.俵はごろごろ
18.故郷

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作詞:吉岡 治/作曲:大野克夫/編曲:萩田光雄

白いシャツ 麦わら帽 海の轟き
もう一度 遠花火 出逢った夏が
蘇えるなら

かけがえのない大事な日々と
過ぎた季節に感じるなんて
まるでメルヘン(童話)

ちゃんと食事はしてますか
野菜も嫌わず食べますか
約束した

携帯に灼きつけた
あなたの笑顔が眩しくて
メール打ちます天国へ

逢いたくて 逢いたくて
逢いたくて 逢いたくて


渡り鳥 満ちる月 風のざわめき
いつの間に 笛太鼓 終わった夏が
蘇えるなら

恋しい夜にせつない朝に
胸の振り子が 決まって鳴った
秋のメルヘン(童話)

ちゃんとジョギングしてますか
煙草の本数減らすよう
約束した

眼差しが伝わるの
夢見るチカラがある限り
メール打ちます天国へ

逢いたくて 逢いたくて
逢いたくて 逢いたくて

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石川さゆりに歌の極意を見た(笑)
歌う事が好きだ。
楽しい。
聴く事もね。

この前職場の先輩と2人でよく行くスナックで飲んでいて、ばったり出くわした知り合いの一団の中に混ざって飲んでた、ミュージシャン志望の若いのと話した。
みんなでカラオケでワイワイやってたのさ。
で、その人は僕に対抗してか僕が歌った曲と同じアーティストを追いかけるように歌うのね。鬱陶しくなって歌う曲を洋楽、主にスタンダード中心に切り替えたところ、酔った勢いで「あなたは歌うという事をどのように考えているのか?。あなたの歌はたしかに上手いけど気持ちが感じられない」とか言って突っかかってきた。
絡むなよもー(笑)。

もう実地で活動をしていないボーカリスト「崩れ」から見て、若いなぁと思った。
なんかどんな曲でも精一杯声を張り上げて歌ってるのね。詞の内容や曲想はあまり顧みず、技巧も何もなしに同じ声の出し方で同じようにフルパワーで歌うの。
で、彼と「歌うってどんな事か」って、小1時間かな・・・・・・絡んできたついでにと話し込んだんだけど、面白かったね。
彼曰く「どんな時でも100%、全力で気持ちを込めて歌う」って。で、僕の歌は「小器用にまとまっていて気持ちが感じられない」との事。
で、僕は「歌に気持ちを込めるって、具体的にどうやるものだと思う?」って問い返した。
彼はそこでやっぱり「気持ちを前面に出す」とか「感情をぶつけるように」とか、ごくごく抽象的な返答に終始してしまったのね。
これね、僕もまだまだ音楽に対する意欲に溢れてた若いころに、その時の師匠に言われた問いなのね。
その答えというか、歌うという事に関してごくごく初歩的な心構えの話なんだけど「その曲(メロディ、歌詞を含めた総体)がどんな感情を伝えようとしているか判断して、その局面で必要な声を出す」事ね。
これは「必死で声を出す」という事とはまったく違う事なのさ。
この歌詞があって、その部分はこのメロディに乗っている。で、次はこういう内容の詞でこういうメロディに展開していく。だからこの部分はこういう声の出し方をしよう。といったような分析の話。
これは声の出し方だけでなくて、立ち振る舞いや身振りなど、一流のボーカルになればなるほど反映される範囲は多岐にわたるんでしょうね。
声を出さない事が良しとされる局面だってザラにある。

曲中に、概ね「悲しい」という感情を描いている部分があるとするでしょう。
なんで悲しいのか、そしてその部分の後にどういった感情に展開していくのか、悲しくって、だから「頑張ろう」となるのか、それとも「ただ耐えて忘れようとする」となるか。それとも悲しかったけど「やっと喜びの季節がやってきた」となるのか・・・・・
その「悲しい」という感情自体も「絶望」なのか「忍従」なのか「諦観」なのか、それとも「追憶」なのか。
これらを詞の内容とメロディ(その部分のみならず、前後も含めて)から読み解いていく。
どの程度の声量がベストか、ヴィブラートをかけて扇情的に歌うか、声量を抑えてウィスパーっぽく溜息のように歌うか・・・・・その「悲しい」が「絶望」であるなら、絶叫するような歌唱でいいかもしれない。「忍従」であるなら、まぁ絶叫はできないよね。声量だけでなく音色も含めてね、どう選択するか。
局部的な視点だけでなく「ここで声量の頭打ちを用いてしまうとその後の盛り上がりでくどくなるかな?」とか「同じフレーズがに4度来るから、だんだんとクレッシェンド(だんだん大きく)していって、最後にストンとピアニシモ(とても弱く)でまとめよう」とか、曲全体を眺めての判断も必要になる。
そういった細かい事をあーでもないこーでもないと考えて、一曲の歌が成り立つ。
そういった事を「ね、だからこの部分ではフルパワーで声を出せないでしょ」とか、彼が歌ったある曲を題材にかいつまんで話していたら、ぼんやりとではあるけど納得してくれたみたい。

ぼくね、こういった「分析と選択」を、日本で最も多岐にわたって緻密に行なっている歌手は石川さゆりだと思うのね。
あの人を見てるとスッゲェ計算されてるというか、積み上げられた思索を感じるのね。
ずっと前ね・・・・・津軽海峡冬景色で、「さよならあなた~、私は~帰ります~♪」の部分で、マイクを持っていない方の手で目じりを拭いながらクルッとうしろを見返った事があるのね。
その振り返り方、首の傾け方、目じりの押さえ方、科の作り方がいかにも涙をこらえて帰っていく女の機微というか、そういったものにあまりにハマっていてね・・・・・。
普通さ、立ち歌の舞台で客に背中を見せるってある意味タブーなんだよ。でもこの「見返り」には、恐らく着ている着物の華やかな帯を見せる狙いもあったのかなと・・・・・。
背を向けるというタブーを曲の内容にバチッと嵌めてしまうなんざ・・・・・きっと日本舞踊とか色々やって分析して、見返るという行為がどうやったら「さよならあなた。私は帰ります」に見えるか、スッゲェ研究したと思うよ。
ひとつの見せ場だよね。
これ一発で惚れたね。「なんてスゲェ歌手だろう・・・・・歌うだけでなくてステージを自分の世界に染めちゃってるよ」って。
石川さゆりのステージには歌唱においても立ち振る舞いにおいても、そういった「見せ場」が凄くたくさんあるのね。
い、いや、ただそれだけなんですが(笑)。
でもこういった事が感じ取れるようになってきて、歌うという事の凄さが初めて認識されてきて鳥肌が立つ様な思いをした。
一流になればなるほどスゲェ事やってんだよ。

歌うって凄い世界だと思う。
「演じる」とも「奏でる」とも違う。
歌って、「メロディに歌詞がついたもの」ではなくて「詞にメロディがついたもの」でもない。作曲の経緯はともかくとしても、詞だけでは不十分。曲だけでも不十分。双方があってこそ初めて伝えられる感情がある。
詞とメロディの双方は等価な、不可分なひとつのもので、イコール「歌」になる。
曲と詞があって歌になる。初めて「歌」になる。別々に考えるのは間違い。
ムチャクチャ奥が深い世界だと思う。
歌うっていいなぁ。

はい、酔っ払っているのでいつもに増してダラダラとまとまりの無い長文になりました。
仕方ねぇだろ。歌うの好きなんだから(笑)。

本日の安眠盤、Helen Merrillの「Helen Merrill」
ではでは。

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