このページは、週刊読売に掲載された記事を本文のまま載せています。
喜び悲しみ・・・歩いた道を語ります
いつのまにか年の瀬になってしまいましたが、この1997年は私にとって、一生忘れられない年になりそうです。
デビュー以来お世話になっていたホリプロから独立したのが年の初め、そして、4月にはデビュー25周年記念コンサートのスタート。
一年かけて全国を回る計画のこのコンサート、すでに70ヶ所以上を回りましたが、どこへ行っても、超満員のお客さまの温かい拍手や声援にむかえられ、改めてファンの皆さまのありがたさを身にしみて感じています。
中には、東京、名古屋、大阪、九州と行く先々に駆けつけてくれる方々も大勢いらっしゃいます。皆さん、昔からの私のファンで、ステージからお顔を拝見していると、どなたもついこの間までは若者だったのに、今やリッパな中年。
―――皆さんずいぶん年取っちゃったのねェ。
来年は40歳の大台に乗る自分自身をタナにあげ、そう思ったりしますが、同時に、
―――ああ、私は歌い手として、この人たちとともにずっと歩いてきたんだ。そうして、いつのまにか25年という歳月がながれたんだ・・・。
そんな思いが胸の奥からこみあげてきます。
「その歳月を書いてみませんか?」というお話をいただいた時、文章なんてろくに書いたことがありませんから、初めはとまどってしまいました。実際、お断りしようとも思いました。
でも、こうして書き始めたのは、作家の水上勉先生が以前おっしゃった言葉を思い出したからです。
♪ ♪
ご存じのように、水上先生はまだ少年の頃にお坊さんになられましたが、日々の修行のひとつに、高僧のあとについて、100人ほどのお坊さんがお経を唱えながら歩く行があったそうです。その行をしながら、少年の水上先生はふと気づきました。
―――大勢が一斉に声を出してもただ騒がしいだけで、まわりの人たちの心には届かない。一人がひとりに対してなにかを訴えてこそ、まわりの人も耳を傾ける。
この思いが、作家になってからも先生の心に宿り、
「だから、僕は小説を書く時、いつもひとりの人だけに向けて書いているんだよ。」
やさしい笑顔でそうおっしゃられた時、私はハッと胸をつかれたような気がしました。大勢のお客さんの前で歌う私は、ひとりの人の心の奥深くまで届くように歌っているのだろうか。みんなに受けるような歌い方をしているんじゃないだろうか・・・。
たったひとりの人に向けて歌う。歌い手としてはそれは、目がさめるような発見でしたが、この文章を書くにあたって思い出したのが、やはり水上先生のその言葉でした。
―――そうだ、文章がつたなくともいい。ひとりの読者、あなただけに向かって素直に語りかければいいんだ。そうすれば、私の本当の心が届くかもしれない・・・。
そう自分自身にいい聞かせながらペンをとったのです。
水上先生といえば、私には実は”宝物”があるんです。5年前の20周年の時、記念アルバムの題をご相談したところ、色紙に書いてくださったのは「道」という一文字。
その字を前に私、生意気にも口走ってしまったのです。
「先生、”道”って地味じゃないですか。”華”とか”雅”とかのほうが・・・・」
すると先生は静かにこうおっしゃったのです。
「私はあなたを花より、草にたとえたいな。草は花よりもっと土に根をおろし、強くたくましい、そして可憐だよね。あなたは20年、この道を歩いてきた、そしてこれからも歩いていくんでしょ。道には石ころが転がっていたり、花が咲いていたりいろんなことがあって、道草をを食うこともある。でも、それはとても素敵なことなんだよ」
これで”道”という言葉がすっかり好きになり、先生にいただいた色紙は私の大事な宝物になっています。
それから5年、今度は先生に「行」という字をいただきました。「道」を「行」く。うまずたゆまず、でも焦ることなく自分の道を一歩一歩行きなさい――そんな先生の励ましが字の奥から聞こえてくるようです。
♪ ♪
この25年、歌を通して様々な女性を表現してきました。耐える女、情念の女、愛らしい女・・・・でもそれは、別々の女性ではなく、私自身をふくめあらゆる女性が女性が内に秘めているものだとおもいます。
14歳でデビュー、順風ばかりではありませんでした。下積みも経験しましたし、私生活では結婚、出産、離婚と言葉にできないほどの喜びや悲しみを味わいました。そんなひとりの人間としての変化や成長が投影されたのが、私の歌かもしれません。その意味で私にとって、歌は人生そのもののような気がします。
この3月、25周年記念として、5枚のシングルを同時発売しました。5枚10曲、つまり10人の名だたる作詞家・作曲家の先生方が私のためにオリジナルをプレゼントして下さったのです。
詞も曲もまったく色合いが異なる10曲を歌う私は、10人の女を演じているともいえますし、自分の中の女の要素をすべてさらけ出しているともいえます。
たとえばメインで歌っている『歌麿』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)には、厳しい恋が描かれています。「火を抱いて闇の中」「刃を渡るきつい恋だから」・・・・そんなフレーズと切り結ぶように私も全身でぶつかって歌い、それを和楽器が劇的に仕上げています。すごく大きな歌で、私の代表作になるような予感もあるほどです。
もうすぐ年末、恒例の紅白歌合戦では、『歌麿』と同じ作詞・作曲家による名作『天城越え』を歌います。そして新しい年の3月いっぱいまで全国コンサートを続け、充実した25周年をしめくくりたいと思っています。
自分の道を歩いて得る友を「道友」と呼ぶのだそうです。25年の歳月を振り返りつつ歩くこの連載、あなたも「道友」になってくださいね。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-1
心一つに燃えた「天城越え」秘話
明けましておめでとうございます。よいお年を迎えられたこととおもいます。
私もこの一月末で40歳、不惑の年です。果たして惑うことなくやっていけるのかどうか・・・たとえ惑うことがあっても、自分の道を信じつつ歩いていこう、改めてそんな誓いを立てた元旦でした。
ところで、大晦日のNHK紅白歌合戦、ご覧になっていただけましたか?
私にとっては20回目の出場となる記念の舞台でしたが、いっしょにステージに立つ歌い手の皆さんがどんどん若くなっているのを、年毎に感じさせられます。年齢だけでなく、歌そのものもどんどん変わっていってます。
「歌は世につれ」といいますから、歌の世界の変化もやむをえないことでしょう。でも、どんなに時代が変わっても、そうたやすく変わらないものもあるはずです。
たとえば、人の心。親子の絆、夫婦愛、男と女の恋や別れ・・・・そこにこめられた喜びや悲しみ、いとおしさ、切なさ、つらさ、苦しさ、迷い、未練・・・・これらはいつになってもそう変わるものとは思えません。
ただ、歌という形をとるとき、その表現方法が時代や年齢に応じて変わってくるのではないでしょうか。その意味では、若い人たちの歌も、時代という枠の中で、自分たちの心を自分なりに表現しているのかもしれませんね。
♪
プロの芸を見せてくれよ!
20回目の紅白歌合戦で私は『天城越え』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)を歌いました。11年前にも歌ったこの歌は、初出場のときの『津軽海峡・冬景色』と並んで、私の代表曲と呼ばれ、ファンの方たちにも最も親しまれています。
親しまれると同時に、『天城越え』についてよく耳にするのは「いざカラオケで歌うとなると、すごく難しい歌」という感想です。
そんな感想を聞くたび、私自身、「そうだろうなァ」と思います。というのも、この歌をいただいたとき、作詞の吉岡先生は、まず、こうおっしゃったのです。
「カラオケの人がとても歌えないような、これがプロの芸だ、というものを、この歌で見せてくれよ」
カラオケ好きの方には、ずいぶん意地悪な言葉かもしれませんが、先生の真意はもちろん、意地悪にあるわけではありません。
演歌がすこし元気のないこの時代、いままでにない歌を作ろう、そのために歌い手の私も、自分の持てる力を全部そそぎこめという意味です。
実際、この『天城越え』という歌にかける先生の意気込みはすごいものでしたが、それは吉岡先生だけじゃなく、作曲の弦先生、ディレクターの中村一好さん、みんな、同じでした。
歌の舞台になる伊豆の宿に皆さんでこもり、議論を重ね想いを練ったあげく、出た結論は、「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」―――なんともコワい話だったのです。
可愛想なのは、そんな”密約”を知る由もない私、できあがった歌詞を見せられ、呆然としてしまいました。
新しい歌詞をいただくたびに、それをバラバラにほぐしながら、自分なりに主人公の女性をイメージし、それを組み立てていくのが、私のやり方です。
ところが、目の前に突きつけられたのは、夫の不倫現場に踏み込み、修羅場を演じる妻がテーマの歌詞・・・・中でもあとですっかり有名になったフレーズ、「誰かにとられるくらいなら あなたを殺していいですか」
―――こんな言葉を口にする女性を、いったいどうイメージすればいいのだろう。とても私には歌えない・・・・
といって、プロの歌い手である以上、いただいた歌を投げ出すわけにはいきません。数え切れないほど歌詞を読み返しながら、懸命にその世界に入っていこうとしました。一方でそれは、女としての自分の無意識の部分、闇の領域に入り込むような作業・・・・
「紅白のトリ」をとらせるぞ
『天城越え』の歌詞と苦闘したのは、私だけではありませんでした。作曲の弦先生も同じだったのです。あとで知ったことですが、当時、作曲家に転身してまもなかった先生は、この歌に作曲家としてのご自身の将来をかけておられたのです。
中村ディレクターもまた、「この歌でさゆりに、初の紅白のトリをとらせてみせる」という意気込みに燃え、和楽器を取り入れるなど、工夫に工夫を重ねていました。
こういう全員の思いが結集してできあがったのが、昭和の名曲のひとつともいわれる『天城越え』だったのです。
いま思い出してみても、あのときの全員の熱い思い、それはすさまじいものでした。たがいに力を合わせる反面、これはギリギリの闘いです。最高の表現を得るために、それぞれがたがいに渾身の力をふり絞るのです。
ですから歌手にとって、作詞家、作曲家、ディレクター、さらに編曲の先生もふくめ、皆さん実に心強いチームメイトであると同時に、手強い闘い相手でもあるのです。
そういう相手に恵まれた私は、本当に幸せな歌い手、しみじみそう思います。
こんなプロセスを経て生まれた『天城越え』ですが、私自身は「カラオケの人が歌えないような」歌い方を意識して歌っているわけではありません。
ほかの歌も同じですが、自分の中のイメージをいっぱいにふくらませ、曲にこめらられた思いを聴いてくださる方に伝えようと、ひたすら念じて歌っています。
余談ですが、「『天城越え』を歌う会」というのがあるんです。女優の浅丘ルリ子さん、加賀まりこさんら、この歌が好きな方たちの集まりです。私も一度お招きいただきましたが、どなたもご自分の『天城越え』にしていらっしゃり、逆に教えられたものでした。
歌は世に出たときから、独り立ちします。あなたも、難しいなどと思わず、どうぞ、歌ってみてくださいね。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-2
島倉千代子さんにあこがれて・・・
ふるさと―――だれもが心に秘めている自分だけの”心のふるさと”。
地方から東京や大阪など大都会に出てきた人たちはもちろん、生まれ育った土地にずっと住む人にとっても、心のふるさとというものがあるのではないでしょうか。
幼いころの自分をつつんでいた自然や人との触れ合い、町のたたずまい、お母さんの手料理・・・・そういう何でもないものが、本人にとってはかけがえのない心のふるさと、そんな気がします。
私のふるさとは、熊本県飽託郡というところです。今はすっかり熊本市のベッドタウンになっていますが、当時は一面に田園が広がるのどかな農業地帯でした。野菜や果物の栽培が盛んで、「肥後でこ茄子」は今も全国的に知られる特産物です。
昭和33年(1958)1月30日、長女として生まれた私は、幼稚園のころまでは父の実家に住んでいました。
家の前がバスの停留所で、私の家でタバコやバスの切符を売っていました。その売り場というのが、テレビの画面のような小さな四角の窓口になっていたんです。
で、二、三歳の私がそこに立つと、ちょうど顔から胸のあたりまでが外から見えるわけです。つまり、テレビ画面に映っている感じですね。
この窓口が、私の歌手への道のスタートだったのです。
バス停前でミニコンサート
バスの発車時刻が近づき、目の前のバス停に人が並び始めると、店番をしている祖母が幼児の私を呼び、
「ほら、歌ってごらん」
といいます。司会ですね。呼ばれた私はとことこ歩いて窓口の前に立ち、胸を張って歌い出します。歌は決まって島倉千代子さんの「恋しているんだもン」。二、三歳の私にとって、これが最初から最後まで歌える唯一のレパートリーだったのです。
母が島倉さんの大ファン、しょっちゅうこの歌を口ずさんでいましたから、私もごく自然に覚えたのでしょう。やがて、祖母に教わった『カチューシャの唄』とか『船頭小唄』、『かえり舟』などがレパートリーに加わりました。
バスの発車時刻のたびに開かれるこのミニコンサート、いつしか近所の名物になってしまい、豆歌手の私が窓口に立つと、バスに乗らない人たちまで集まってきて、やんやの拍手喝采、リクエストやアンコールの声もかかり、私はいい気持ちになって歌いまくったものです。
とはいっても、実際のところ、このころの記憶はありません。記憶がないのに、そうして歌っている幼い自分自身が、まるで絵に描いたようにくっきりと見えるのです。
祖母や母に何度も聞かされているうち、そうなったのでしょうが、これが歌い手としての私の、いわゆる原風景といえるかもしれません。
小学校へ上がる時、母の実家の飽田町へ移りました。父は熊本市の交通局に勤めていましたが、母が実家の八百屋を継ぐことになったのです。
この母はとにかく元気な働き者、朝早くから車を運転し市場通いです。小学校3年生の時、私の下に弟が生まれてからは私が母親代わりで、毎朝ミルクをあげ、おむつを取り替えたりしたものです。
働き者の母は歌も大好きでレコードも沢山持っていました。幼児期の歌の”先生”が祖母なら、それ以後は母とでもいえるでしょうか。とくに小学2年の時、熊本市で開かれた島倉千代子さんのコンサートへ母に連れて行かれ、それが私にとって、歌との運命的な出会いとなったのです。
生まれて初めて見る歌謡ショー、幕が上がった瞬間から私の目はステージに釘付けになってしまいました。そこはまったく別世界でした。
色とりどりの鮮やかなライトにつつまれ、着物姿でマイク片手に立つ島倉さん。その紫色の着物をいまもはっきりと覚えているほどです。
―――私もあそこに立ち、ライトを浴びて歌いたい。
そんな思いが胸にきざしたのです。はたから見れば、子供っぽく他愛ないあこがれだったのでしょうが、幼いなりに私は真剣でした。「歌手になりたい」が、いつしか「歌手になる。きっとなる」という私だけの秘めた”決意”になっていったのです。
ふるさとは私の心の中に・・・
小学5年のとき、熊本から横浜に引っ越すことになりました。父の職場が縮小され、両親は私と弟を連れ、都会に出たのです。
大都会に出ることは、歌手を夢見ていた私にとって、その夢に一歩近つ`くような喜びでした。でも、一方では、自分を育んでくれたふるさととの別れという寂しさ、つらさもありました。
そのころの日本は、高度経済成長が始まり、何もかもがものすごい勢いで変貌していました。横浜という大都会に移ってみると、それをまざまざと目のあたりにします。
昼夜となく煙を吐く巨大な工場群、林立するビル、おびただしい車の洪水・・・・ついこのあいだまで、少女の私が犬を連れ走り回っていた熊本の田舎とくらべると、同じ日本とは思えないほどです。
私はふるさとが恋しくてしかたありませんでした。豊かな自然や静かな町のたたずまい、人との触れ合いのぬくもり・・・・失ったものの大きさに初めて気付かされる思いでした。
生まれ故郷を出てもう30年になりますが、7年ほど前、飽田町が熊本市に合併されるとき、私も記念イベントに招かれました。
その席で私は、
「町はなくなっても、煙突の立つ工場地帯にはなってほしくありません」
そんなお話をしました。故郷は心のふるさととして、今も私の中で生きています。
のちに、『20世紀の名曲たち』というシリーズで、過去のすばらしい歌を自分なりに歌い直す作業を始めたのも、日本人の心のふるさとを掘り起こし、それをきちんと残しておきたいという思いがあったからです。
日本の女性を歌うオリジナルと並び、このシリーズ、私のライフワークともなりそうです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-3
牛乳配達をしながら「歌の勉強」
小学5年生の時、故郷の熊本から横浜へ引っ越してきた私は、6年生になってから歌のレッスンに通うようになりました。
熊本で、母に連れられ島倉千代子さんのコンサートを見て以来歌手への夢がめばえ、年を追うごとにその夢がふくらんでいたのです。
当時、父は運送会社勤め、母は保母として働き、生活は楽とはいえませんでしたが、「歌を勉強したい」という私の願いを両親ともに許してくれました。母は「最後まで投げ出さずにがんばるのよ」と励ましてくれましたが、こう釘をさされたんです。
「塾の月謝は払ってあげるけど、歌の月謝はなんとか自分でやってみなさい」
で、中学生になってからアルバイトです。何のバイトか分かります?これがなんと牛乳配達。というのも、中学生ができるバイトというと、新聞配達か牛乳配達くらいで、新聞は日曜日も休みなしですが、牛乳だと土曜日に2本配れば日曜日が休めますから、歌のレッスンにも通えるというわけです。
でも牛乳って、毎朝5時には全部配り終えてなくちゃいけないんです。まだ真っ暗なうちに起き、牛乳瓶を40~50本も詰め込んだ布袋をかかえて、一軒一軒配るわけです。おまけに私の担当地域が団地、重い袋を引きずるように5階まで歩いて上がるのです。女子中学生には、けっこうハードな仕事です。
時には寝坊して、母に手伝ってもらったりしましたが、決して休みませんでした。これも歌のためと、最後までネをあげなかったんですから、われながらエライ!
そんなことをしながらレッスンに励んでいた私に、思いがけず歌手への道が開けたのは中学3年の時でした。
こども歌謡大会代打出場で優勝
その頃、フジテレビの夏休み企画に「こども歌謡選手権」という番組があり、私の歌友だちが応募していたんです。ところが大会が夏休み中で、彼女は田舎に帰るので出られないというのです。
「じゃ、私が代わりに」
と、テレビ局に出かけ、怖いもの知らず、彼女あての応募ハガキの宛名を消し、自分の名前を書き、受付に・・・・さすがにドキドキしましたが、なぜかすんなり通ってしまったのです。
それからあとは、もうあれよあれよという間、予選に合格し、チャンピオン大会に出場、『船頭小唄』を歌って優勝――司会者に「おめでとうございます!」といわれた時は、夢でも見ている感じ。
そこへ、今度はフジテレビの連続ドラマ出演の話です。今時のタレント志望の若い子なら跳び上がって喜ぶのでしょうが、その時の私は歌手しか頭にありません。
「ドラマ?私、歌手になりたいんです」
「だけど、ドラマはいろいろ勉強になるよ」
こうして、訳が分からないまま、石坂洋次郎原作・岡田太郎演出「光る海」にレギュラー出演しました。共演者は沖雅也さん、島田陽子さん、中野良子さん、芦田伸介さんなどすごい顔ぶれで、私は沖雅也さんの妹役でした。
14歳の芸能界デビュー、スタジオで見るもの聞くものすべて初めて、ひたすら言われるままに演じていましたが、果たして演じていたのか、地のままだったのか・・・・。
このドラマは半年間続きましたが、実はその間も例の牛乳配達をまだやっていたんです。で、いつものように団地で配っている時、ある家の奥さんが、
「あら、あなた、どこかで見たことあるわ。あ、テレビに出てるでしょ、あなた?」
別に悪いことじゃないのですから、「ハイ」と答えればいいものを、私は、
「い、いいえ、違います」
そういって、逃げ帰ったのです。恥ずかしいせいもありましたが、やはり女優じゃなく、歌手として認められたいという気持ちがあったんですね。それほど私の中で、歌手への夢は強かったのです。
森昌子や山口百恵と一緒に合宿
ちょうどその頃、歌の先生に紹介していただき、レコード会社へひとりで訪ねて行ったこともあります。あいにく紹介してもらった相手の方は留守、でも、そのまま帰るのがもったいなく、ひとり椅子に座って社内の雰囲気をうかがっていました。
昭和47年(1972)の当時、歌謡曲の全盛時代、壁には大勢の歌手の新曲ポスターがずらりと並び、沢山の社員の人たちが威勢のいい口調で電話をかけたり、忙しそうに走り回っったりしていました。さらには、テレビの歌番組でいつも見ている有名歌手の方が、「おはようございます」とにこやかに挨拶して通り過ぎたり・・・・。
―――そうかァ、こういうところで歌が作られてるんだ。ああ、私も早く歌手になりたい・・・・。
そんな思いにかられたものでした。
ホリプロからスカウトされたのは、ドラマ出演の最中でした。ホリプロといえば、歌謡界の大手プロダクション、願ってもない幸運です。
―――これで、私もあこがれの歌手になれる!
天にものぼるような気持ちでしたが、その半面、なんだか現実感がなく、ホントかなァ・・・・そんな感じ。長いあいだ夢見ていたものがいざ実現するとなると、かえって信じられないものなんですね。
無理もありません。私の娘がもうすぐ中学3年になりますが、その年頃です。大人のようで子供、子供のようで大人という微妙な年齢ですね。
こうしてホリプロに入った私は、デビューしたばかりの森昌子ちゃん、私のすぐあとに入ってきた山口百恵ちゃんたちと顔を合わせました。
みんな同じ年頃、海や山での合宿なんかの時は、みんなでふざけ回って遊んだり、感想文を書くのにたがいに頭をひねったものでした。
そして昭和48年3月、『かくれんぼ』(山上路夫作詞・猪俣公章作曲)で、いよいよ歌手デビューすることになったのです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-4
「スタ誕3人娘」に追いつくぞ!
生まれて初めていただいた自分の歌、詩も曲も私のために書かれた一生に一度の歌、それがデビュー曲です。
『かくれんぼ』の譜面を初めて手にした時の感動は、25年たった今も、鮮明に覚えています。
―――これが私の歌なんだ、歌手になったんだ・・・・!
胸の底から、そんな思いがこみあげてきたものでした。
この歌は、ほのぼのとした画風で有名な故谷内六郎さん、その絵の世界を歌に表現するという企画でつくられました。
レコード会社は日本コロムビアでしたが、当時デビューする新人歌手には、キャッチフレーズがつけられる習わしで、私についたのは「コロムビア・プリンセス」。
「コロムビア・プリンセス石川さゆり」と自分でつぶやいてみて、なんだかおかしくなりました。プリンセスがついこの間まで牛乳配達をしてたなんて・・・・。
喜びの半面、不安も大きいのがデビュー曲です。無事にレコーディングも終わり、発売は昭和48年(1973)3月25日と決まりましたが、それからが不安でした。その日に間違いなく自分のレコードがお店に並ぶのだろうか、ちょっと怖いような思いで、あと30日、あと25日・・・・と、カレンダーを塗りつぶしては待ち焦がれながらも、
―――もし、だれか会社の偉い人が「あのレコード、発売は止めにしよう」などといい出したら・・・・。
そんな空想をしては、15歳の胸を痛めたものでした。
そしてその日、ドキドキしながらレコード屋さんに入っていきました。私の目に真っ先に飛び込んできたのが、レコードジャケットの中、純白の帽子をかぶって笑う私の写真。
―――やった、やったァ!
まわりに人がいなければ、そう叫んで跳び上がりたい気持ちでした。
どうして私だけが置いてけぼり
デビューと同時に、キャンペーンが始まりました。まもなく東京の堀越学園高校に進学した私は、横浜の自宅から通うのは大変だからと、ホリプロの現在の副社長さんの家に住むことになりました。
はじめて両親のもとを離れ、他人の家で暮らすのは心細いものでしたが、これも歌のため、それに会社のほうもこんなに気使ってくれてるんだから・・・・そう、自分にいい聞かせたものでした。
当時ホリプロでは、同じ年の3人の新人を「ホリプロ3人娘」として売り出す計画を立てていました。森昌子ちゃん、私、山口百恵ちゃんの順です。いわば同じ事務所のライバルですが、みんなまだ14、15歳、ライバル意識より遊び仲間の気分でした。
計画通りにデビューしたものの、そこから少し様子が変わってきました。昌子ちゃんのデビュー曲が大ヒットし、その年の紅白歌合戦に最年少で初出場、翌年には百恵ちゃんも紅白出場。
同じころに、別の事務所から桜田淳子ちゃん、アグネス・チャンさんなどもデビューし、脚光をあびていました。
ところが、私のデビュー曲はある程度売れたものの、とても大ヒットとはいえません。「ホリプロ3人娘」に乗り遅れたばかりか、日本テレビでは「スタ誕3人娘」として、昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんがぐんぐん人気をあげていったのです。
私ひとり置いてけぼり・・・・「鬼の私はさがしてた」というフレーズが『かくれんぼ』にありますが、鬼ごっこをしているうち、私だけがはぐれてしまったような感じでした。
おまけに、当時はアイドル歌手が沢山出ていて、テレビのオーディションなどで、あまり歌が上手とは思えない新人が合格する、そんな光景を見ると、
―――芸能界は実力だけで動いてるんじゃないんだ・・・・。
15歳で気付くには残酷すぎる事実を思い知らされたものでした。でも、心の底から歌が好きな私は、一生懸命歌うしかありませんでした。
出席率バツグンの”劣等高校生”
2曲、3曲、4曲・・・・と、つぎつぎに出すレコードは、そこそこに売れても相変わらず大ヒットは出ません。
8曲目の『あなたの私』(千家和也作詞・市川昭介作曲)の時は、市川先生のお宅へレッスンに通い、初めてファルセット(裏声)を入れるなど、工夫もしましたが、やはり今ひとつです。
当時、音楽記者の方たちに「石川さゆりの歌唱力は申し分ないのだが・・・・」というような批評をよくされました。ヒット曲は上手下手とは別に、時代の風に乗ることが必要です。あのころの私は、それに乗りきれなかった、今になるとそれがよく理解できます。
いつのまにか、デビュー3年がたっていました。私の通っていた堀越学園高校芸能コースにはタレントや歌手が多く、生徒同士では出席率が悪い者ほど”優等生”視されていたものです。売れっ子ほど学校に来られないわけです。そんな中で私は出席率がよく、従って”劣等生”・・・・。
それでなくとも多感な青春期、いやでも落ち込み傷つく私をいつも支えてくれたのは母でした。
「あなたの歌のうまさは、だれより私が分かってる。大丈夫だよ、そのうちきっとみんな聴いてくれるから。必ずそうなるよ」
働き者で楽天的な母は、にこにこ笑いながらそういうのです。母はまた、洋裁が得意で、デビューしたてのころは一生懸命に衣裳を縫ってくれたりしました。こんな母にどれほど励まされたことか。
それと、スタッフも大きな支えでした。
「さゆりちゃんの歌は演歌っぽいから、本当のよさがなかなか分からない。でも、いつかみんな分かってくれる」
毎週のようにベストテン番組に出演し、新幹線のように突っ走る昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんを横目に、ひとり自分にこう言い聞かせていたものでした。
「たとえ鈍行電車でも、いつか大ヒットを出すまではやめないゾ。大ヒットを出したら、歌手をやめてやる!」
こころの詩を・・・石川さゆりVol-5
新宿コマで初のワンマンショー
歌手にとって、デビューのつぎに晴れがましい舞台といえば、なんといってもワンマンショー。自分だけでお客さまを呼び、自分の歌を中心にステージを作る。新人歌手ならだれもが夢見るものです。
私の初めてのワンマンショーは昭和51年(1976)3月末、新宿コマ劇場でした。デビューして3年、まだ大ヒットもなく紅白歌合戦出場も果たしていませんでしたが、中ヒットはいくつかあり、それでワンマンショーを開いていただいたのです。
この晴れのステージには、同じホリプロの森昌子さん、山口百恵さんが友情出演してくださいましたが、なにより私が感激したのは島倉千代子さんの応援出演でした。小学年のとき、郷里の熊本で島倉さんのコンサートを見て歌手をめざすことになった私が、その島倉さんと同じステージに立つのです。
島倉さんは日本コロムビアの大先輩でもありますが、当時のコロムビアには、美空ひばりさん、島倉さん、都はるみさんをはじめ歌謡界のスターが歌手がそれこそキラ星のごとくいらっしゃいました。
そういう先輩の中でも島倉さんには、とくに妹のように可愛がっていただきました。歌手といってもまだ子供の私は、お化粧のしかたから教えていただいたものです。それだけじゃなく、
「つらいことがあっても、それを無駄にしないで自分の身につけていくのよ」
そんなふうに、歌と人生の先輩としてのアドバイスもいただきました。大ヒットが出ず悩んでいた私には、それがとても大きな励みでした。
島倉大先輩から振り袖の贈り物
島倉先輩にいただいたものといえば、ステージ衣裳の着物もあります。小学生のときに見た島倉さんの着物の美しさは今も覚えていますが、そんな話をした私に、「さゆりちゃん、よかったらこれ、着なさい」と素晴らしい振り袖をくださったのです。舞台で着てらしたものですが、あこがれだった大先輩の着物に袖を通すことができる、こんなうれしいことはありませんでした。
それに、着物ってすごく高価ですから新人のころはなかなかきることができません。私自身、最初のころはそうそう着物が作れなくて、ウールの安いものをずっと着てたりしてたんですね。そこに、あこがれの島倉さんから素晴らしいプレゼントだったのです。
話は、はるか後年に飛びますが、数年前私は「演歌ルネッサンス」というコンテストのゲストとして呼ばれたことがあります。これは吉岡治先生がまだ陽の当たらない新人の歌い手のために、瀬戸内海の小豆島で毎年開いている催しですが、一生懸命に歌う新人の皆さんを見ながら、ふと昔の自分が胸をよぎり、
―――私にできることは何だろう・・・・そうだ、着物をプレゼントしよう。
かって先輩にしていただいた喜びを、今度は後輩の方に差し上げたい、そう思ったのです。でも、自分の着物を差し上げるなど、変に思われないだろうかと吉岡先生にご相談したところ、「いやァ、それはいいね。励みになるよ」
というわけで、優勝者の方に着物をプレゼントさせていただきました。目録を差し上げながら、遠い日の自分自身の感激を思い出したりしたものでした。
歌い手も震える阿久悠先生の詞
話がずいぶん飛んでしまいましたが、私の初のワンマンショーは、島倉さんたちの応援もあって成功のうちに終わりました。
このワンマンショーの日、私は堀越学園高校を卒業しました。本当は大学へ進んでもっと勉強がしたく、実はいろんな大学の受験資料なども取り寄せていたんです。でも、周囲の事情でそれは無理、また私自身、歌手として中途半端なままでした。
「これが石川さゆりの歌」と呼ばれるような大きなヒット曲を出したい、そのためにはもう学生気分はふっ切らなくちゃ、そう思いながら社会人第一歩を踏み出したのです。
そして、卒業の翌日にリリースしたレコードが『十九の純情』(阿久悠作詞・三木たかし作曲)でした。この歌を皮切りに『あいあい傘』『花供養』と、阿久先生、三木先生のコンビによる歌が続きました。
阿久先生とはそれまで「スター誕生」などの番組でご一緒してましたが、私たち少女歌手にとっては”寡黙な怖いお父さん”っていう感じでしたから、とてもこちらから声をかけることなんてできませんでした。
当時から先生はいろんな歌い手に詞を書いてらっしゃいましたが、いつだったか岩崎宏美ちゃんが、
「阿久先生って、どうしてこんなに私たちのこと、よく分かるのかしら。レコーディングしながら私、思わず涙が出ちゃった」
そんなことをいったことがあります。実際、多感な少女の思いや胸のうちを、まるですぐ傍で見ていたような詞なんですね。それがろくにお喋りもしたことのない先生から生まれるのですから、フシギでしかたありませんでした。
私も素敵な詞を書いていただきました。最初のレコーディングの時、阿久先生は姿をお見せになりませんでしたが、それ以後もずっと同じです。「歌い手の現場には立ち会わない」、これが作詞家としての先生のスタイル、それでいて、どこからか時代や歌い手をじっと見すえている―――だからこそ私たち歌い手も驚いてしまう、そんな詞が生まれるんでしょうね。
一方、作曲の三木先生にはレコーディングにも必ず立ち会っていただき、細かくアドバイスしていただきました。それだけじゃなく、「こういうレコードがいいよ」など音楽のいろんなことを教えていただきました。
寡黙なままじっと歌い手や時代を見すえる阿久先生、いつも新しい音楽を志向する三木先生のお二人が、『津軽海峡・冬景色』をうみだしたのです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-6
「津軽海峡・冬景色」で紅白初出場
高校を卒業して名実ともにプロの歌い手として歩き出した昭和51年、その秋に大阪の新歌舞伎座でコンサートを開くことになりました。
早速、スタッフの方たちがステージの構成を練り始めたのですが、まだ大きなヒット曲がなく、コンサートを締めくくるエンディングにふさわしい曲がありませんでした。頭を悩ませながら考えこんでいたスタッフの一人が、
「あれはどうだろ、今度のアルバムの最後のあれ・・・・」
その頃私は、「365日恋もよう」というタイトルアルバムを出したばかりでした。阿久悠・三木たかし両先生によるオリジナル12曲で、ちょうど暦のように1月から12月までの歌がおさめられていました。スタッフがいう「あれ」はその12月の歌です。
「あ、あれ? 私もいいと思います。すごくいい歌」私もすぐに同意しました。
『津軽海峡・冬景色』というタイトルのその歌をレコーディングした時、いつもと違う感触があったのです。
―――これは聴いてほしい歌だなァ・・・・。
すでに十数枚のレコードを出していましたが、そんな思いがしたのは初めてでした。ヒットしてほしいいう願いとは別に、とにかく聴いてほしい・・・・。
そんな思いを起こさせる何かがその歌にはありました。歌詞を読み返すたびに、北の冬景色が鮮やかに目の前に広がり、その景色の中にひとりリンと立つ女性の姿が浮かび上がってくるのです。
阿久先生の詞の鮮やかさに加え、三連音符を駆使したメロディもすごく新鮮でした。作編曲ともに三木先生でしたが、まるで海鳴りのようなイントロからすでに最高の音――こちらがドキドキするほどの鮮烈なメロディでした。
「じゃ、エンディングはあれで行こう」
私もふくめスタッフ一同うなずきましたが、その「あれ」がどんな運命をもたらすことになるのか、だれ一人気付いていませんでした。
「聴いてほしい」の思いをこめて
初めて立つ新歌舞伎座のステージ。私はただひたすら「聴いてほしい」という思いをこめて『津軽海峡・冬景色』を歌いました。今でこそ、自分なりの歌の組み立て方を身につけていますが、その頃はただ歌にしがみついているという感じでした。まして、それまで歌ったことのない新しいタイプの曲、振り落とされないようしがみつくのが精一杯でした。
そんな状態ですから、会場のお客さまの反応もよく分からなかったというのが正直なところです。手応えがあったような、ないような・・・・。
ところが、次の日から事務所やレコード会社に電話が入り始めたのです。
「あの最後の歌、もう一度聴きたい」
「いつレコードになるんですか?」
連日のように問い合わせの電話があり、会社は急遽アルバムからシングルカットすることにしたのです。
こうして昭和52年1月1日、『津軽海峡・冬景色』が私の15枚目のレコードとしてリリースされました。
その前日の大晦日、紅白歌合戦では同期生の森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さんたちが華やかなステージに立っていました。コタツに入ってテレビの中の彼女たちを見る気持ち・・・・ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば嘘になります。
こんな思いも重なり、『津軽海峡・冬景色』のキャンペーンにはそれまでになく力が入りました。全国各地の放送局やレコード店さんを回りましたが、どこへ行っても「この歌はいいね。きっと大ヒットするよ」と励ましていただいたものでした。
たとえば、青森放送のディレクター西沢弘さんは、真っ先に私をラジオ番組のゲストに呼んでくれたばかりか、3週間でレコードがすり切れるほど『津軽海峡・冬景色』を毎日、何度も番組で流してくれたのです。歌い手として、こんなありがたいことはありません。そういう皆さんの応援にこたえなければと、私も行く先々で一生懸命に歌い続けました。
ベストテン番組に同時に3曲も
その年の冬は、東京でも例年になく雪が多かったのですが、そんな春先の寒い夜のことです。
自宅で遅くまで寝つけずにいた私は、ふと戸外の小さな歌声を耳にしました。聞くともなく聞いていると、
♪♪こごえそうな鴎見つめ泣いていました・・・・
そっとベランダに出て下を見ました。サラリーマンらしい中年男性が道の向こう側で立ち止まったまま歌を口ずさんでいましたが、よく見るとどうやらオシッコ・・・・やがて用を足した男性は歌い続けながら千鳥足で闇の中に消えていき、お世辞にも上手とはいえない『津軽海峡・冬景色』の歌だけが尾を引くように残りました。
胸の奥に何かがポッと灯ったような感じでした。
その小さなできごとがまるできっかけみたいに、3月に入ってから急にレコードが売れ出したのです。いったん売れ始めたかと思うと、あとはぐんぐん伸び、あっという間に50万枚、60万枚・・・・おまけに『津軽海峡・冬景色』に続いて出した『能登半島』『暖流』も発売と同時にすごい売れ行き、テレビのベストテン番組に3曲が同時に並んだのです。
いったい何がどうなってるのか訳が分かりません。私にとっては、自分の歌が大ヒットしているという実感より、突然嵐のような忙しさに巻き込まれた感じばかり。テレビ局からステージへ、ステージからテレビ局へと一日中駆け回る生活でした。
そんな地に足がついていない状態が続き、年末が近ずくにつれ、今度は音楽賞ラッシュです。テレビ各局の音楽賞はじめ、日本レコード大賞歌唱賞、日本歌謡大賞放送音楽賞・・・・。
まるで夢でも見ているようでしたが、最後のうれしい悲鳴が紅白歌合戦初出場決定の知らせでした。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-7
快挙を共に喜んでくれた人たち
デビュー5年目の『津軽海峡・冬景色』の大ヒット、数々の音楽賞受賞、そして紅白歌合戦初出場決定―――盆と正月がいっしょに来るといいますが、本当にそんな感じで、紅白出場決定のお知らせをいただいた時は、なんだか現実感がありませんでした。
その夜、わが家の食卓には母の手作りの赤飯や煮物が並びました。子供の頃からなじんだそのお祝い料理を前にして、やっと喜びがこみあげてきたものでした。
何よりうれしかったのは、まだ売れてない頃からずっと応援してくれていた方たちの祝福の言葉でした。とくに、キャンペーンで歩いては、いつも励ましていただいた地方の方たちから、
「ほらね、きっと大ヒットすると僕がいった通りになったでしょ」
「さゆりちゃんは、いつか必ず陽が当たると信じてたけど、本当によかった、よかったね」
そんな電話が次々に入り、温かい言葉に思わず胸がキュンとなったものでした。
そして、大晦日。どんな歌い手も初めての紅白歌合戦の舞台はひどく緊張するといいます。それだけ歌い手にとっては晴れの大舞台、まして5年目にして初めてそこに上がる私、さぞやガチガチに緊張と思うでしょ?
ところが私ときたら、まったく緊張感なし。何しろうれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、
―――お、これが紅白歌合戦のセットかァ・・・・!
要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまったのです。
不遇時代の苦労なんかなかった
紅白出場でようやく一人前の歌い手として認められ、新聞や雑誌の取材も一気に増えましたが、インタビューで必ず出たのが、「ヒットに恵まれないあいだ、苦労したでしょ?」という質問でした。
それに対して私は「ちっとも苦労したという思いはありません」と答えていましたが、別に負け惜しみをいってたわけじゃないんです。ずっと励ましてくれる方々もいましたし、それより何より、歌うことが好きで好きでしかたなかったんですもの。
たとえば、テレビの歌番組ではリハーサルがあります。売れっ子の歌い手さんはよく”本番飛び込み”といって、リハーサルには代役を立て、本番に駆けつけ歌うことが多かったのです。そんな時私は、自分から「私、歌いまーす」と代役を買って出たものでした。たとえ人の歌でも歌ってさえいれば幸せ、そのうえそれがずいぶん勉強になったんです。
勉強といえば、ヒット曲に出合う前にいろんなお稽古ごとをしました。でも、これは勉強というより私の癖で、何か素敵なものに出合うと、
「私にもできないかなァやってみたい」
という気持ちがムクムク頭をもたげてくるのです。そうやって三橋美智也さんに民謡を習い、さらに二葉百合子さんに浪曲まで習いました。
何かの役に立ててやろう計算してお稽古したわけではありませんが、そのどれもがあとになって活きたような気がします。生意気なようですが、不遇時代にこそ本当のしっかりしたものを身につけることができるのかも知れませんね。
「津軽海峡・・・」は女性の自立の歌
先日、NHKが行った「1000万投票 BS20世紀日本の歌」の発表がありましたが、その上位100曲の中に、『天城越え』とともに『津軽海峡・冬景色』も選んでいただきました。本当に歌手冥利につきます。
『津軽海峡・冬景色』が発売されてからもう21年たちますが、今でも冬になると、いろんな番組でかけていただいたりしています。そんな時ふっと、白いドレスを着て夢中で歌っていた当時の自分のことがよみがえってきます。
「あの歌で僕は、自立していく女性を書いたんだよ」
いつだったか作詞の阿久悠先生がそうおっしゃったことがありした。それまでの歌に登場していた女性像といえば「待つ、耐える、忍ぶ」、そういうイメージばかりでしたが、そこから抜け出て、自分の言葉や行動をもって生きていく女性を、阿久先生は雪景色の中に立たせました。
「さよなら あなた 私は帰ります」
このフレーズだけで、そういうリンとした女性像が浮かんできます。それは、同じ阿久悠・三木たかし両先生による『能登半島』『暖流』にも共通しています。これらの歌がヒットしていた頃、ファンの方々からいろんなお便りをいただきました。
「さゆりさんの歌、自分の言葉や思いを代弁してくれているようです」
「あの歌を聴きながら、一人で現地へ行ってきました」
女性自立という時代の風に揺れながらも、現実生活ではなかなか思い切れない、そのもどかしさが歌の中だと越えられる・・・・そういう思いで私の歌を聴いていただいていたのかも知れませんね。
歌というのは、本当にふしぎだナと思います。作詞・作曲の先生方から歌い手に渡され、歌い手から聴き手に届けられる、そこから先、聞き手の中でどう流れていくのか、それは予測しようもなく、だからこそ限りなく深い・・・・そう思えます。
ラジオから流れる21年前の自分の歌声を聴きながら、
―――ああ、あの頃は歌にしがみつき、必死で歌っていたんだなァ。
ふと、当時の自分自身がいとおしくなりなす。
最初に歌をいただいた時、どう表現するかなど考えるゆとりもなく、ただ無我夢中、聴いてほしい初めての歌にめぐりあえた、その思いだけで一杯でした。それ以後も歌い続け、のちに三木先生に、歌とともに年齢を刻み成長した代表例としてこの歌をあげていただいたことがあります。十代の終わりの年にそういう歌にめぐりあえたことは本当に幸せでしたが、まだまだ新しい出会いが私を待っていたのです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-8
「火の国へ」歌う心はふるさとへ
『津軽海峡・冬景色』が大ヒットしたのは昭和52年、その翌年には『火の国へ』を発表しました。火の国、つまり私のふるさと熊本を舞台にした歌です。この頃はずっと、私の歌の作詞は阿久悠先生、作曲が三木たかし先生のお二人で、『火の国へ』もそうでしたが、チョット面白いエピソードがあるんです。
阿久先生は最初に歌を書いていただいた時から、どうやら私を”石川県出身”と思っていらっしゃったようなのです。それで、『津軽海峡・冬景色』のあと、ふるさとの歌を書いてあげようということでできたのが『能登半島』だったらしいんですね。
なにかの時にそんな話になり、「私、石川というのは本名で、ふるさとは実は熊本なんです」ということをお話ししたところ、じゃ、改めてふるさとの歌をと、『火の国へ』を書いてくださったのです。
そんないきさつから生まれたこの『火の国へ』も大好きな歌のひとつで、コンサートでは今も歌っています。歌うたびに、心の中でふるさとへ帰るような気がします。
コンサートといえば、昨年4月にスタートしたデビュー25周年記念コンサートも、そろそろ終わりに近ずいてきました。そのコンサートと並び、もうひとつ私の歌を聞いてくださる皆さんに喜んでいただける事は・・・・と思い、行ったのが私の歌の中から新たにレコーディングをした39曲です。
全国のレコード屋さんやファンの方々からアンケートをいただき、私のこれまでのすべての歌の中から39曲を選びました。39というのは”サンキュー”、私からの感謝の気持ちをこめたものです。
デビュー曲『かくれんぼ』から昨年の『歌麿』までの曲の中には、もちろんこの『火の国へ』も入っています。こちらのほうも、ほぼ全部のレコーディングを終えましたが、1曲ごとに当時の自分自身や忘れていたいろんなことが、ふと思い出されたりしたものでした。
20歳を記念してバイクの免許を\plain
『火の国へ』を出した昭和53年(1978)、私は20歳になりました。人生で一番輝いている年齢でもあり、同時に一番悩みもかかえている年齢、それが20歳ではないでしょうか。
成人式当日、私はNHKの「青年の主張」にゲストとして招いていただき、自分自身の成人式には出席できませんでしたが、同じ年齢の方々が力強く将来の夢や抱負を語るのを聞きながら、ふと思ったものでした。
―――これから自分はどうやって大人になっていくんだろう・・・・歌が好きで今まで夢中になってやってきた。ヒット曲が出るまでは絶対やめないぞって頑張ってきて、『津軽海峡・冬景色』という大ヒットにめぐりあえた・・・・でも、これから先私は、何を見つけて、どうやって歌っていくんだろう・・・・。まぶしいほど輝いているようでいて、でも、まだよく見えない未来。それを前にした20歳の夢と不安を、私もかかえていたのです。
自分なりに考え、出した結論はこうでした。
―――歌を歌っていたせいであれができなかった、これもダメだったという言い訳はイヤだな。そんな言い訳を自分に残すことはしたくない。
そう思ったとき、パッとひらめいたんです。
―――そうだ、原付きの免許を取ろう!
何とも単純な結論で、おかしいでしょ?でも、何であれ自分で行動し、それを一つずつ形にしたかったんですね。で、運転免許試験場へ行き、原付バイクの免許取得。次の年には、普通免許も取りました。
こんな単純なことでも、すごく満足感がありました。だれかに決められるのではなく、自分で考え自分で行動することの大切さを、身をもって知ったわけですね。
休日には電話をシャットアウト
仕事の面でも、そんな自分の考えを活かすことにしました。当時は、朝起きてから夜寝るまで、すべてスケジュールが決められていました。テレビスタジオ、ステージ、インタビュー・・・・と休むまもなく駆けずり回る毎日で、それは歌い手にかぎらず、タレントさん、役者さんも忙しくなった時にみんな通る道です。
でも、ふっと自分は何をしているんだろうと思うことがあります。ただ決められたスケジュールを消化しているだけじゃないの・・・・このままだと、自分自身を見失うところまで行っちゃう・・・・。
で、また決めたんです。
―――休みの日に、自分で何をやっていいのか分からない状態になるのはやめよう。
事務所に電話しました。
「オフの日、私に連絡が取れないかもしれません。緊急の場合は別にして、オフの日には電話をしないでください」
担当マネジャーはびっくりしてしまいました。無理もありません、それまではただスケジュール通りに動いていた私が突然そういったのですから。私の考えを聞いたマネジャーは、
「そうかァ、さゆりも大人になったんだなァ」
感心したようにいったものです。でも私のホンネは、大人になるため、まずオフだけでも自分でスケジュール管理をしてみよう、ということだったんですね。
こうして休みの日は完全に私のものになりましたが、といって別に何か立派なことをしようというわけじゃないんです。何をするにしても、またしないにしても、それが自分の意志によること、自分で決めて歩いてみたい。
で、実際に休みの日に何をしてたかというと、近くの多摩川を散歩したり、赤いバイクを乗り回したりと、実にたわいないんです。でも、そんなことをしながら、それがだれ
喜び悲しみ・・・歩いた道を語ります
いつのまにか年の瀬になってしまいましたが、この1997年は私にとって、一生忘れられない年になりそうです。
デビュー以来お世話になっていたホリプロから独立したのが年の初め、そして、4月にはデビュー25周年記念コンサートのスタート。
一年かけて全国を回る計画のこのコンサート、すでに70ヶ所以上を回りましたが、どこへ行っても、超満員のお客さまの温かい拍手や声援にむかえられ、改めてファンの皆さまのありがたさを身にしみて感じています。
中には、東京、名古屋、大阪、九州と行く先々に駆けつけてくれる方々も大勢いらっしゃいます。皆さん、昔からの私のファンで、ステージからお顔を拝見していると、どなたもついこの間までは若者だったのに、今やリッパな中年。
―――皆さんずいぶん年取っちゃったのねェ。
来年は40歳の大台に乗る自分自身をタナにあげ、そう思ったりしますが、同時に、
―――ああ、私は歌い手として、この人たちとともにずっと歩いてきたんだ。そうして、いつのまにか25年という歳月がながれたんだ・・・。
そんな思いが胸の奥からこみあげてきます。
「その歳月を書いてみませんか?」というお話をいただいた時、文章なんてろくに書いたことがありませんから、初めはとまどってしまいました。実際、お断りしようとも思いました。
でも、こうして書き始めたのは、作家の水上勉先生が以前おっしゃった言葉を思い出したからです。
♪ ♪
ご存じのように、水上先生はまだ少年の頃にお坊さんになられましたが、日々の修行のひとつに、高僧のあとについて、100人ほどのお坊さんがお経を唱えながら歩く行があったそうです。その行をしながら、少年の水上先生はふと気づきました。
―――大勢が一斉に声を出してもただ騒がしいだけで、まわりの人たちの心には届かない。一人がひとりに対してなにかを訴えてこそ、まわりの人も耳を傾ける。
この思いが、作家になってからも先生の心に宿り、
「だから、僕は小説を書く時、いつもひとりの人だけに向けて書いているんだよ。」
やさしい笑顔でそうおっしゃられた時、私はハッと胸をつかれたような気がしました。大勢のお客さんの前で歌う私は、ひとりの人の心の奥深くまで届くように歌っているのだろうか。みんなに受けるような歌い方をしているんじゃないだろうか・・・。
たったひとりの人に向けて歌う。歌い手としてはそれは、目がさめるような発見でしたが、この文章を書くにあたって思い出したのが、やはり水上先生のその言葉でした。
―――そうだ、文章がつたなくともいい。ひとりの読者、あなただけに向かって素直に語りかければいいんだ。そうすれば、私の本当の心が届くかもしれない・・・。
そう自分自身にいい聞かせながらペンをとったのです。
水上先生といえば、私には実は”宝物”があるんです。5年前の20周年の時、記念アルバムの題をご相談したところ、色紙に書いてくださったのは「道」という一文字。
その字を前に私、生意気にも口走ってしまったのです。
「先生、”道”って地味じゃないですか。”華”とか”雅”とかのほうが・・・・」
すると先生は静かにこうおっしゃったのです。
「私はあなたを花より、草にたとえたいな。草は花よりもっと土に根をおろし、強くたくましい、そして可憐だよね。あなたは20年、この道を歩いてきた、そしてこれからも歩いていくんでしょ。道には石ころが転がっていたり、花が咲いていたりいろんなことがあって、道草をを食うこともある。でも、それはとても素敵なことなんだよ」
これで”道”という言葉がすっかり好きになり、先生にいただいた色紙は私の大事な宝物になっています。
それから5年、今度は先生に「行」という字をいただきました。「道」を「行」く。うまずたゆまず、でも焦ることなく自分の道を一歩一歩行きなさい――そんな先生の励ましが字の奥から聞こえてくるようです。
♪ ♪
この25年、歌を通して様々な女性を表現してきました。耐える女、情念の女、愛らしい女・・・・でもそれは、別々の女性ではなく、私自身をふくめあらゆる女性が女性が内に秘めているものだとおもいます。
14歳でデビュー、順風ばかりではありませんでした。下積みも経験しましたし、私生活では結婚、出産、離婚と言葉にできないほどの喜びや悲しみを味わいました。そんなひとりの人間としての変化や成長が投影されたのが、私の歌かもしれません。その意味で私にとって、歌は人生そのもののような気がします。
この3月、25周年記念として、5枚のシングルを同時発売しました。5枚10曲、つまり10人の名だたる作詞家・作曲家の先生方が私のためにオリジナルをプレゼントして下さったのです。
詞も曲もまったく色合いが異なる10曲を歌う私は、10人の女を演じているともいえますし、自分の中の女の要素をすべてさらけ出しているともいえます。
たとえばメインで歌っている『歌麿』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)には、厳しい恋が描かれています。「火を抱いて闇の中」「刃を渡るきつい恋だから」・・・・そんなフレーズと切り結ぶように私も全身でぶつかって歌い、それを和楽器が劇的に仕上げています。すごく大きな歌で、私の代表作になるような予感もあるほどです。
もうすぐ年末、恒例の紅白歌合戦では、『歌麿』と同じ作詞・作曲家による名作『天城越え』を歌います。そして新しい年の3月いっぱいまで全国コンサートを続け、充実した25周年をしめくくりたいと思っています。
自分の道を歩いて得る友を「道友」と呼ぶのだそうです。25年の歳月を振り返りつつ歩くこの連載、あなたも「道友」になってくださいね。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-1
心一つに燃えた「天城越え」秘話
明けましておめでとうございます。よいお年を迎えられたこととおもいます。
私もこの一月末で40歳、不惑の年です。果たして惑うことなくやっていけるのかどうか・・・たとえ惑うことがあっても、自分の道を信じつつ歩いていこう、改めてそんな誓いを立てた元旦でした。
ところで、大晦日のNHK紅白歌合戦、ご覧になっていただけましたか?
私にとっては20回目の出場となる記念の舞台でしたが、いっしょにステージに立つ歌い手の皆さんがどんどん若くなっているのを、年毎に感じさせられます。年齢だけでなく、歌そのものもどんどん変わっていってます。
「歌は世につれ」といいますから、歌の世界の変化もやむをえないことでしょう。でも、どんなに時代が変わっても、そうたやすく変わらないものもあるはずです。
たとえば、人の心。親子の絆、夫婦愛、男と女の恋や別れ・・・・そこにこめられた喜びや悲しみ、いとおしさ、切なさ、つらさ、苦しさ、迷い、未練・・・・これらはいつになってもそう変わるものとは思えません。
ただ、歌という形をとるとき、その表現方法が時代や年齢に応じて変わってくるのではないでしょうか。その意味では、若い人たちの歌も、時代という枠の中で、自分たちの心を自分なりに表現しているのかもしれませんね。
♪
プロの芸を見せてくれよ!
20回目の紅白歌合戦で私は『天城越え』(吉岡治作詞・弦哲也作曲)を歌いました。11年前にも歌ったこの歌は、初出場のときの『津軽海峡・冬景色』と並んで、私の代表曲と呼ばれ、ファンの方たちにも最も親しまれています。
親しまれると同時に、『天城越え』についてよく耳にするのは「いざカラオケで歌うとなると、すごく難しい歌」という感想です。
そんな感想を聞くたび、私自身、「そうだろうなァ」と思います。というのも、この歌をいただいたとき、作詞の吉岡先生は、まず、こうおっしゃったのです。
「カラオケの人がとても歌えないような、これがプロの芸だ、というものを、この歌で見せてくれよ」
カラオケ好きの方には、ずいぶん意地悪な言葉かもしれませんが、先生の真意はもちろん、意地悪にあるわけではありません。
演歌がすこし元気のないこの時代、いままでにない歌を作ろう、そのために歌い手の私も、自分の持てる力を全部そそぎこめという意味です。
実際、この『天城越え』という歌にかける先生の意気込みはすごいものでしたが、それは吉岡先生だけじゃなく、作曲の弦先生、ディレクターの中村一好さん、みんな、同じでした。
歌の舞台になる伊豆の宿に皆さんでこもり、議論を重ね想いを練ったあげく、出た結論は、「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」―――なんともコワい話だったのです。
可愛想なのは、そんな”密約”を知る由もない私、できあがった歌詞を見せられ、呆然としてしまいました。
新しい歌詞をいただくたびに、それをバラバラにほぐしながら、自分なりに主人公の女性をイメージし、それを組み立てていくのが、私のやり方です。
ところが、目の前に突きつけられたのは、夫の不倫現場に踏み込み、修羅場を演じる妻がテーマの歌詞・・・・中でもあとですっかり有名になったフレーズ、「誰かにとられるくらいなら あなたを殺していいですか」
―――こんな言葉を口にする女性を、いったいどうイメージすればいいのだろう。とても私には歌えない・・・・
といって、プロの歌い手である以上、いただいた歌を投げ出すわけにはいきません。数え切れないほど歌詞を読み返しながら、懸命にその世界に入っていこうとしました。一方でそれは、女としての自分の無意識の部分、闇の領域に入り込むような作業・・・・
「紅白のトリ」をとらせるぞ
『天城越え』の歌詞と苦闘したのは、私だけではありませんでした。作曲の弦先生も同じだったのです。あとで知ったことですが、当時、作曲家に転身してまもなかった先生は、この歌に作曲家としてのご自身の将来をかけておられたのです。
中村ディレクターもまた、「この歌でさゆりに、初の紅白のトリをとらせてみせる」という意気込みに燃え、和楽器を取り入れるなど、工夫に工夫を重ねていました。
こういう全員の思いが結集してできあがったのが、昭和の名曲のひとつともいわれる『天城越え』だったのです。
いま思い出してみても、あのときの全員の熱い思い、それはすさまじいものでした。たがいに力を合わせる反面、これはギリギリの闘いです。最高の表現を得るために、それぞれがたがいに渾身の力をふり絞るのです。
ですから歌手にとって、作詞家、作曲家、ディレクター、さらに編曲の先生もふくめ、皆さん実に心強いチームメイトであると同時に、手強い闘い相手でもあるのです。
そういう相手に恵まれた私は、本当に幸せな歌い手、しみじみそう思います。
こんなプロセスを経て生まれた『天城越え』ですが、私自身は「カラオケの人が歌えないような」歌い方を意識して歌っているわけではありません。
ほかの歌も同じですが、自分の中のイメージをいっぱいにふくらませ、曲にこめらられた思いを聴いてくださる方に伝えようと、ひたすら念じて歌っています。
余談ですが、「『天城越え』を歌う会」というのがあるんです。女優の浅丘ルリ子さん、加賀まりこさんら、この歌が好きな方たちの集まりです。私も一度お招きいただきましたが、どなたもご自分の『天城越え』にしていらっしゃり、逆に教えられたものでした。
歌は世に出たときから、独り立ちします。あなたも、難しいなどと思わず、どうぞ、歌ってみてくださいね。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-2
島倉千代子さんにあこがれて・・・
ふるさと―――だれもが心に秘めている自分だけの”心のふるさと”。
地方から東京や大阪など大都会に出てきた人たちはもちろん、生まれ育った土地にずっと住む人にとっても、心のふるさとというものがあるのではないでしょうか。
幼いころの自分をつつんでいた自然や人との触れ合い、町のたたずまい、お母さんの手料理・・・・そういう何でもないものが、本人にとってはかけがえのない心のふるさと、そんな気がします。
私のふるさとは、熊本県飽託郡というところです。今はすっかり熊本市のベッドタウンになっていますが、当時は一面に田園が広がるのどかな農業地帯でした。野菜や果物の栽培が盛んで、「肥後でこ茄子」は今も全国的に知られる特産物です。
昭和33年(1958)1月30日、長女として生まれた私は、幼稚園のころまでは父の実家に住んでいました。
家の前がバスの停留所で、私の家でタバコやバスの切符を売っていました。その売り場というのが、テレビの画面のような小さな四角の窓口になっていたんです。
で、二、三歳の私がそこに立つと、ちょうど顔から胸のあたりまでが外から見えるわけです。つまり、テレビ画面に映っている感じですね。
この窓口が、私の歌手への道のスタートだったのです。
バス停前でミニコンサート
バスの発車時刻が近づき、目の前のバス停に人が並び始めると、店番をしている祖母が幼児の私を呼び、
「ほら、歌ってごらん」
といいます。司会ですね。呼ばれた私はとことこ歩いて窓口の前に立ち、胸を張って歌い出します。歌は決まって島倉千代子さんの「恋しているんだもン」。二、三歳の私にとって、これが最初から最後まで歌える唯一のレパートリーだったのです。
母が島倉さんの大ファン、しょっちゅうこの歌を口ずさんでいましたから、私もごく自然に覚えたのでしょう。やがて、祖母に教わった『カチューシャの唄』とか『船頭小唄』、『かえり舟』などがレパートリーに加わりました。
バスの発車時刻のたびに開かれるこのミニコンサート、いつしか近所の名物になってしまい、豆歌手の私が窓口に立つと、バスに乗らない人たちまで集まってきて、やんやの拍手喝采、リクエストやアンコールの声もかかり、私はいい気持ちになって歌いまくったものです。
とはいっても、実際のところ、このころの記憶はありません。記憶がないのに、そうして歌っている幼い自分自身が、まるで絵に描いたようにくっきりと見えるのです。
祖母や母に何度も聞かされているうち、そうなったのでしょうが、これが歌い手としての私の、いわゆる原風景といえるかもしれません。
小学校へ上がる時、母の実家の飽田町へ移りました。父は熊本市の交通局に勤めていましたが、母が実家の八百屋を継ぐことになったのです。
この母はとにかく元気な働き者、朝早くから車を運転し市場通いです。小学校3年生の時、私の下に弟が生まれてからは私が母親代わりで、毎朝ミルクをあげ、おむつを取り替えたりしたものです。
働き者の母は歌も大好きでレコードも沢山持っていました。幼児期の歌の”先生”が祖母なら、それ以後は母とでもいえるでしょうか。とくに小学2年の時、熊本市で開かれた島倉千代子さんのコンサートへ母に連れて行かれ、それが私にとって、歌との運命的な出会いとなったのです。
生まれて初めて見る歌謡ショー、幕が上がった瞬間から私の目はステージに釘付けになってしまいました。そこはまったく別世界でした。
色とりどりの鮮やかなライトにつつまれ、着物姿でマイク片手に立つ島倉さん。その紫色の着物をいまもはっきりと覚えているほどです。
―――私もあそこに立ち、ライトを浴びて歌いたい。
そんな思いが胸にきざしたのです。はたから見れば、子供っぽく他愛ないあこがれだったのでしょうが、幼いなりに私は真剣でした。「歌手になりたい」が、いつしか「歌手になる。きっとなる」という私だけの秘めた”決意”になっていったのです。
ふるさとは私の心の中に・・・
小学5年のとき、熊本から横浜に引っ越すことになりました。父の職場が縮小され、両親は私と弟を連れ、都会に出たのです。
大都会に出ることは、歌手を夢見ていた私にとって、その夢に一歩近つ`くような喜びでした。でも、一方では、自分を育んでくれたふるさととの別れという寂しさ、つらさもありました。
そのころの日本は、高度経済成長が始まり、何もかもがものすごい勢いで変貌していました。横浜という大都会に移ってみると、それをまざまざと目のあたりにします。
昼夜となく煙を吐く巨大な工場群、林立するビル、おびただしい車の洪水・・・・ついこのあいだまで、少女の私が犬を連れ走り回っていた熊本の田舎とくらべると、同じ日本とは思えないほどです。
私はふるさとが恋しくてしかたありませんでした。豊かな自然や静かな町のたたずまい、人との触れ合いのぬくもり・・・・失ったものの大きさに初めて気付かされる思いでした。
生まれ故郷を出てもう30年になりますが、7年ほど前、飽田町が熊本市に合併されるとき、私も記念イベントに招かれました。
その席で私は、
「町はなくなっても、煙突の立つ工場地帯にはなってほしくありません」
そんなお話をしました。故郷は心のふるさととして、今も私の中で生きています。
のちに、『20世紀の名曲たち』というシリーズで、過去のすばらしい歌を自分なりに歌い直す作業を始めたのも、日本人の心のふるさとを掘り起こし、それをきちんと残しておきたいという思いがあったからです。
日本の女性を歌うオリジナルと並び、このシリーズ、私のライフワークともなりそうです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-3
牛乳配達をしながら「歌の勉強」
小学5年生の時、故郷の熊本から横浜へ引っ越してきた私は、6年生になってから歌のレッスンに通うようになりました。
熊本で、母に連れられ島倉千代子さんのコンサートを見て以来歌手への夢がめばえ、年を追うごとにその夢がふくらんでいたのです。
当時、父は運送会社勤め、母は保母として働き、生活は楽とはいえませんでしたが、「歌を勉強したい」という私の願いを両親ともに許してくれました。母は「最後まで投げ出さずにがんばるのよ」と励ましてくれましたが、こう釘をさされたんです。
「塾の月謝は払ってあげるけど、歌の月謝はなんとか自分でやってみなさい」
で、中学生になってからアルバイトです。何のバイトか分かります?これがなんと牛乳配達。というのも、中学生ができるバイトというと、新聞配達か牛乳配達くらいで、新聞は日曜日も休みなしですが、牛乳だと土曜日に2本配れば日曜日が休めますから、歌のレッスンにも通えるというわけです。
でも牛乳って、毎朝5時には全部配り終えてなくちゃいけないんです。まだ真っ暗なうちに起き、牛乳瓶を40~50本も詰め込んだ布袋をかかえて、一軒一軒配るわけです。おまけに私の担当地域が団地、重い袋を引きずるように5階まで歩いて上がるのです。女子中学生には、けっこうハードな仕事です。
時には寝坊して、母に手伝ってもらったりしましたが、決して休みませんでした。これも歌のためと、最後までネをあげなかったんですから、われながらエライ!
そんなことをしながらレッスンに励んでいた私に、思いがけず歌手への道が開けたのは中学3年の時でした。
こども歌謡大会代打出場で優勝
その頃、フジテレビの夏休み企画に「こども歌謡選手権」という番組があり、私の歌友だちが応募していたんです。ところが大会が夏休み中で、彼女は田舎に帰るので出られないというのです。
「じゃ、私が代わりに」
と、テレビ局に出かけ、怖いもの知らず、彼女あての応募ハガキの宛名を消し、自分の名前を書き、受付に・・・・さすがにドキドキしましたが、なぜかすんなり通ってしまったのです。
それからあとは、もうあれよあれよという間、予選に合格し、チャンピオン大会に出場、『船頭小唄』を歌って優勝――司会者に「おめでとうございます!」といわれた時は、夢でも見ている感じ。
そこへ、今度はフジテレビの連続ドラマ出演の話です。今時のタレント志望の若い子なら跳び上がって喜ぶのでしょうが、その時の私は歌手しか頭にありません。
「ドラマ?私、歌手になりたいんです」
「だけど、ドラマはいろいろ勉強になるよ」
こうして、訳が分からないまま、石坂洋次郎原作・岡田太郎演出「光る海」にレギュラー出演しました。共演者は沖雅也さん、島田陽子さん、中野良子さん、芦田伸介さんなどすごい顔ぶれで、私は沖雅也さんの妹役でした。
14歳の芸能界デビュー、スタジオで見るもの聞くものすべて初めて、ひたすら言われるままに演じていましたが、果たして演じていたのか、地のままだったのか・・・・。
このドラマは半年間続きましたが、実はその間も例の牛乳配達をまだやっていたんです。で、いつものように団地で配っている時、ある家の奥さんが、
「あら、あなた、どこかで見たことあるわ。あ、テレビに出てるでしょ、あなた?」
別に悪いことじゃないのですから、「ハイ」と答えればいいものを、私は、
「い、いいえ、違います」
そういって、逃げ帰ったのです。恥ずかしいせいもありましたが、やはり女優じゃなく、歌手として認められたいという気持ちがあったんですね。それほど私の中で、歌手への夢は強かったのです。
森昌子や山口百恵と一緒に合宿
ちょうどその頃、歌の先生に紹介していただき、レコード会社へひとりで訪ねて行ったこともあります。あいにく紹介してもらった相手の方は留守、でも、そのまま帰るのがもったいなく、ひとり椅子に座って社内の雰囲気をうかがっていました。
昭和47年(1972)の当時、歌謡曲の全盛時代、壁には大勢の歌手の新曲ポスターがずらりと並び、沢山の社員の人たちが威勢のいい口調で電話をかけたり、忙しそうに走り回っったりしていました。さらには、テレビの歌番組でいつも見ている有名歌手の方が、「おはようございます」とにこやかに挨拶して通り過ぎたり・・・・。
―――そうかァ、こういうところで歌が作られてるんだ。ああ、私も早く歌手になりたい・・・・。
そんな思いにかられたものでした。
ホリプロからスカウトされたのは、ドラマ出演の最中でした。ホリプロといえば、歌謡界の大手プロダクション、願ってもない幸運です。
―――これで、私もあこがれの歌手になれる!
天にものぼるような気持ちでしたが、その半面、なんだか現実感がなく、ホントかなァ・・・・そんな感じ。長いあいだ夢見ていたものがいざ実現するとなると、かえって信じられないものなんですね。
無理もありません。私の娘がもうすぐ中学3年になりますが、その年頃です。大人のようで子供、子供のようで大人という微妙な年齢ですね。
こうしてホリプロに入った私は、デビューしたばかりの森昌子ちゃん、私のすぐあとに入ってきた山口百恵ちゃんたちと顔を合わせました。
みんな同じ年頃、海や山での合宿なんかの時は、みんなでふざけ回って遊んだり、感想文を書くのにたがいに頭をひねったものでした。
そして昭和48年3月、『かくれんぼ』(山上路夫作詞・猪俣公章作曲)で、いよいよ歌手デビューすることになったのです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-4
「スタ誕3人娘」に追いつくぞ!
生まれて初めていただいた自分の歌、詩も曲も私のために書かれた一生に一度の歌、それがデビュー曲です。
『かくれんぼ』の譜面を初めて手にした時の感動は、25年たった今も、鮮明に覚えています。
―――これが私の歌なんだ、歌手になったんだ・・・・!
胸の底から、そんな思いがこみあげてきたものでした。
この歌は、ほのぼのとした画風で有名な故谷内六郎さん、その絵の世界を歌に表現するという企画でつくられました。
レコード会社は日本コロムビアでしたが、当時デビューする新人歌手には、キャッチフレーズがつけられる習わしで、私についたのは「コロムビア・プリンセス」。
「コロムビア・プリンセス石川さゆり」と自分でつぶやいてみて、なんだかおかしくなりました。プリンセスがついこの間まで牛乳配達をしてたなんて・・・・。
喜びの半面、不安も大きいのがデビュー曲です。無事にレコーディングも終わり、発売は昭和48年(1973)3月25日と決まりましたが、それからが不安でした。その日に間違いなく自分のレコードがお店に並ぶのだろうか、ちょっと怖いような思いで、あと30日、あと25日・・・・と、カレンダーを塗りつぶしては待ち焦がれながらも、
―――もし、だれか会社の偉い人が「あのレコード、発売は止めにしよう」などといい出したら・・・・。
そんな空想をしては、15歳の胸を痛めたものでした。
そしてその日、ドキドキしながらレコード屋さんに入っていきました。私の目に真っ先に飛び込んできたのが、レコードジャケットの中、純白の帽子をかぶって笑う私の写真。
―――やった、やったァ!
まわりに人がいなければ、そう叫んで跳び上がりたい気持ちでした。
どうして私だけが置いてけぼり
デビューと同時に、キャンペーンが始まりました。まもなく東京の堀越学園高校に進学した私は、横浜の自宅から通うのは大変だからと、ホリプロの現在の副社長さんの家に住むことになりました。
はじめて両親のもとを離れ、他人の家で暮らすのは心細いものでしたが、これも歌のため、それに会社のほうもこんなに気使ってくれてるんだから・・・・そう、自分にいい聞かせたものでした。
当時ホリプロでは、同じ年の3人の新人を「ホリプロ3人娘」として売り出す計画を立てていました。森昌子ちゃん、私、山口百恵ちゃんの順です。いわば同じ事務所のライバルですが、みんなまだ14、15歳、ライバル意識より遊び仲間の気分でした。
計画通りにデビューしたものの、そこから少し様子が変わってきました。昌子ちゃんのデビュー曲が大ヒットし、その年の紅白歌合戦に最年少で初出場、翌年には百恵ちゃんも紅白出場。
同じころに、別の事務所から桜田淳子ちゃん、アグネス・チャンさんなどもデビューし、脚光をあびていました。
ところが、私のデビュー曲はある程度売れたものの、とても大ヒットとはいえません。「ホリプロ3人娘」に乗り遅れたばかりか、日本テレビでは「スタ誕3人娘」として、昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんがぐんぐん人気をあげていったのです。
私ひとり置いてけぼり・・・・「鬼の私はさがしてた」というフレーズが『かくれんぼ』にありますが、鬼ごっこをしているうち、私だけがはぐれてしまったような感じでした。
おまけに、当時はアイドル歌手が沢山出ていて、テレビのオーディションなどで、あまり歌が上手とは思えない新人が合格する、そんな光景を見ると、
―――芸能界は実力だけで動いてるんじゃないんだ・・・・。
15歳で気付くには残酷すぎる事実を思い知らされたものでした。でも、心の底から歌が好きな私は、一生懸命歌うしかありませんでした。
出席率バツグンの”劣等高校生”
2曲、3曲、4曲・・・・と、つぎつぎに出すレコードは、そこそこに売れても相変わらず大ヒットは出ません。
8曲目の『あなたの私』(千家和也作詞・市川昭介作曲)の時は、市川先生のお宅へレッスンに通い、初めてファルセット(裏声)を入れるなど、工夫もしましたが、やはり今ひとつです。
当時、音楽記者の方たちに「石川さゆりの歌唱力は申し分ないのだが・・・・」というような批評をよくされました。ヒット曲は上手下手とは別に、時代の風に乗ることが必要です。あのころの私は、それに乗りきれなかった、今になるとそれがよく理解できます。
いつのまにか、デビュー3年がたっていました。私の通っていた堀越学園高校芸能コースにはタレントや歌手が多く、生徒同士では出席率が悪い者ほど”優等生”視されていたものです。売れっ子ほど学校に来られないわけです。そんな中で私は出席率がよく、従って”劣等生”・・・・。
それでなくとも多感な青春期、いやでも落ち込み傷つく私をいつも支えてくれたのは母でした。
「あなたの歌のうまさは、だれより私が分かってる。大丈夫だよ、そのうちきっとみんな聴いてくれるから。必ずそうなるよ」
働き者で楽天的な母は、にこにこ笑いながらそういうのです。母はまた、洋裁が得意で、デビューしたてのころは一生懸命に衣裳を縫ってくれたりしました。こんな母にどれほど励まされたことか。
それと、スタッフも大きな支えでした。
「さゆりちゃんの歌は演歌っぽいから、本当のよさがなかなか分からない。でも、いつかみんな分かってくれる」
毎週のようにベストテン番組に出演し、新幹線のように突っ走る昌子ちゃん、百恵ちゃん、淳子ちゃんを横目に、ひとり自分にこう言い聞かせていたものでした。
「たとえ鈍行電車でも、いつか大ヒットを出すまではやめないゾ。大ヒットを出したら、歌手をやめてやる!」
こころの詩を・・・石川さゆりVol-5
新宿コマで初のワンマンショー
歌手にとって、デビューのつぎに晴れがましい舞台といえば、なんといってもワンマンショー。自分だけでお客さまを呼び、自分の歌を中心にステージを作る。新人歌手ならだれもが夢見るものです。
私の初めてのワンマンショーは昭和51年(1976)3月末、新宿コマ劇場でした。デビューして3年、まだ大ヒットもなく紅白歌合戦出場も果たしていませんでしたが、中ヒットはいくつかあり、それでワンマンショーを開いていただいたのです。
この晴れのステージには、同じホリプロの森昌子さん、山口百恵さんが友情出演してくださいましたが、なにより私が感激したのは島倉千代子さんの応援出演でした。小学年のとき、郷里の熊本で島倉さんのコンサートを見て歌手をめざすことになった私が、その島倉さんと同じステージに立つのです。
島倉さんは日本コロムビアの大先輩でもありますが、当時のコロムビアには、美空ひばりさん、島倉さん、都はるみさんをはじめ歌謡界のスターが歌手がそれこそキラ星のごとくいらっしゃいました。
そういう先輩の中でも島倉さんには、とくに妹のように可愛がっていただきました。歌手といってもまだ子供の私は、お化粧のしかたから教えていただいたものです。それだけじゃなく、
「つらいことがあっても、それを無駄にしないで自分の身につけていくのよ」
そんなふうに、歌と人生の先輩としてのアドバイスもいただきました。大ヒットが出ず悩んでいた私には、それがとても大きな励みでした。
島倉大先輩から振り袖の贈り物
島倉先輩にいただいたものといえば、ステージ衣裳の着物もあります。小学生のときに見た島倉さんの着物の美しさは今も覚えていますが、そんな話をした私に、「さゆりちゃん、よかったらこれ、着なさい」と素晴らしい振り袖をくださったのです。舞台で着てらしたものですが、あこがれだった大先輩の着物に袖を通すことができる、こんなうれしいことはありませんでした。
それに、着物ってすごく高価ですから新人のころはなかなかきることができません。私自身、最初のころはそうそう着物が作れなくて、ウールの安いものをずっと着てたりしてたんですね。そこに、あこがれの島倉さんから素晴らしいプレゼントだったのです。
話は、はるか後年に飛びますが、数年前私は「演歌ルネッサンス」というコンテストのゲストとして呼ばれたことがあります。これは吉岡治先生がまだ陽の当たらない新人の歌い手のために、瀬戸内海の小豆島で毎年開いている催しですが、一生懸命に歌う新人の皆さんを見ながら、ふと昔の自分が胸をよぎり、
―――私にできることは何だろう・・・・そうだ、着物をプレゼントしよう。
かって先輩にしていただいた喜びを、今度は後輩の方に差し上げたい、そう思ったのです。でも、自分の着物を差し上げるなど、変に思われないだろうかと吉岡先生にご相談したところ、「いやァ、それはいいね。励みになるよ」
というわけで、優勝者の方に着物をプレゼントさせていただきました。目録を差し上げながら、遠い日の自分自身の感激を思い出したりしたものでした。
歌い手も震える阿久悠先生の詞
話がずいぶん飛んでしまいましたが、私の初のワンマンショーは、島倉さんたちの応援もあって成功のうちに終わりました。
このワンマンショーの日、私は堀越学園高校を卒業しました。本当は大学へ進んでもっと勉強がしたく、実はいろんな大学の受験資料なども取り寄せていたんです。でも、周囲の事情でそれは無理、また私自身、歌手として中途半端なままでした。
「これが石川さゆりの歌」と呼ばれるような大きなヒット曲を出したい、そのためにはもう学生気分はふっ切らなくちゃ、そう思いながら社会人第一歩を踏み出したのです。
そして、卒業の翌日にリリースしたレコードが『十九の純情』(阿久悠作詞・三木たかし作曲)でした。この歌を皮切りに『あいあい傘』『花供養』と、阿久先生、三木先生のコンビによる歌が続きました。
阿久先生とはそれまで「スター誕生」などの番組でご一緒してましたが、私たち少女歌手にとっては”寡黙な怖いお父さん”っていう感じでしたから、とてもこちらから声をかけることなんてできませんでした。
当時から先生はいろんな歌い手に詞を書いてらっしゃいましたが、いつだったか岩崎宏美ちゃんが、
「阿久先生って、どうしてこんなに私たちのこと、よく分かるのかしら。レコーディングしながら私、思わず涙が出ちゃった」
そんなことをいったことがあります。実際、多感な少女の思いや胸のうちを、まるですぐ傍で見ていたような詞なんですね。それがろくにお喋りもしたことのない先生から生まれるのですから、フシギでしかたありませんでした。
私も素敵な詞を書いていただきました。最初のレコーディングの時、阿久先生は姿をお見せになりませんでしたが、それ以後もずっと同じです。「歌い手の現場には立ち会わない」、これが作詞家としての先生のスタイル、それでいて、どこからか時代や歌い手をじっと見すえている―――だからこそ私たち歌い手も驚いてしまう、そんな詞が生まれるんでしょうね。
一方、作曲の三木先生にはレコーディングにも必ず立ち会っていただき、細かくアドバイスしていただきました。それだけじゃなく、「こういうレコードがいいよ」など音楽のいろんなことを教えていただきました。
寡黙なままじっと歌い手や時代を見すえる阿久先生、いつも新しい音楽を志向する三木先生のお二人が、『津軽海峡・冬景色』をうみだしたのです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-6
「津軽海峡・冬景色」で紅白初出場
高校を卒業して名実ともにプロの歌い手として歩き出した昭和51年、その秋に大阪の新歌舞伎座でコンサートを開くことになりました。
早速、スタッフの方たちがステージの構成を練り始めたのですが、まだ大きなヒット曲がなく、コンサートを締めくくるエンディングにふさわしい曲がありませんでした。頭を悩ませながら考えこんでいたスタッフの一人が、
「あれはどうだろ、今度のアルバムの最後のあれ・・・・」
その頃私は、「365日恋もよう」というタイトルアルバムを出したばかりでした。阿久悠・三木たかし両先生によるオリジナル12曲で、ちょうど暦のように1月から12月までの歌がおさめられていました。スタッフがいう「あれ」はその12月の歌です。
「あ、あれ? 私もいいと思います。すごくいい歌」私もすぐに同意しました。
『津軽海峡・冬景色』というタイトルのその歌をレコーディングした時、いつもと違う感触があったのです。
―――これは聴いてほしい歌だなァ・・・・。
すでに十数枚のレコードを出していましたが、そんな思いがしたのは初めてでした。ヒットしてほしいいう願いとは別に、とにかく聴いてほしい・・・・。
そんな思いを起こさせる何かがその歌にはありました。歌詞を読み返すたびに、北の冬景色が鮮やかに目の前に広がり、その景色の中にひとりリンと立つ女性の姿が浮かび上がってくるのです。
阿久先生の詞の鮮やかさに加え、三連音符を駆使したメロディもすごく新鮮でした。作編曲ともに三木先生でしたが、まるで海鳴りのようなイントロからすでに最高の音――こちらがドキドキするほどの鮮烈なメロディでした。
「じゃ、エンディングはあれで行こう」
私もふくめスタッフ一同うなずきましたが、その「あれ」がどんな運命をもたらすことになるのか、だれ一人気付いていませんでした。
「聴いてほしい」の思いをこめて
初めて立つ新歌舞伎座のステージ。私はただひたすら「聴いてほしい」という思いをこめて『津軽海峡・冬景色』を歌いました。今でこそ、自分なりの歌の組み立て方を身につけていますが、その頃はただ歌にしがみついているという感じでした。まして、それまで歌ったことのない新しいタイプの曲、振り落とされないようしがみつくのが精一杯でした。
そんな状態ですから、会場のお客さまの反応もよく分からなかったというのが正直なところです。手応えがあったような、ないような・・・・。
ところが、次の日から事務所やレコード会社に電話が入り始めたのです。
「あの最後の歌、もう一度聴きたい」
「いつレコードになるんですか?」
連日のように問い合わせの電話があり、会社は急遽アルバムからシングルカットすることにしたのです。
こうして昭和52年1月1日、『津軽海峡・冬景色』が私の15枚目のレコードとしてリリースされました。
その前日の大晦日、紅白歌合戦では同期生の森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さんたちが華やかなステージに立っていました。コタツに入ってテレビの中の彼女たちを見る気持ち・・・・ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば嘘になります。
こんな思いも重なり、『津軽海峡・冬景色』のキャンペーンにはそれまでになく力が入りました。全国各地の放送局やレコード店さんを回りましたが、どこへ行っても「この歌はいいね。きっと大ヒットするよ」と励ましていただいたものでした。
たとえば、青森放送のディレクター西沢弘さんは、真っ先に私をラジオ番組のゲストに呼んでくれたばかりか、3週間でレコードがすり切れるほど『津軽海峡・冬景色』を毎日、何度も番組で流してくれたのです。歌い手として、こんなありがたいことはありません。そういう皆さんの応援にこたえなければと、私も行く先々で一生懸命に歌い続けました。
ベストテン番組に同時に3曲も
その年の冬は、東京でも例年になく雪が多かったのですが、そんな春先の寒い夜のことです。
自宅で遅くまで寝つけずにいた私は、ふと戸外の小さな歌声を耳にしました。聞くともなく聞いていると、
♪♪こごえそうな鴎見つめ泣いていました・・・・
そっとベランダに出て下を見ました。サラリーマンらしい中年男性が道の向こう側で立ち止まったまま歌を口ずさんでいましたが、よく見るとどうやらオシッコ・・・・やがて用を足した男性は歌い続けながら千鳥足で闇の中に消えていき、お世辞にも上手とはいえない『津軽海峡・冬景色』の歌だけが尾を引くように残りました。
胸の奥に何かがポッと灯ったような感じでした。
その小さなできごとがまるできっかけみたいに、3月に入ってから急にレコードが売れ出したのです。いったん売れ始めたかと思うと、あとはぐんぐん伸び、あっという間に50万枚、60万枚・・・・おまけに『津軽海峡・冬景色』に続いて出した『能登半島』『暖流』も発売と同時にすごい売れ行き、テレビのベストテン番組に3曲が同時に並んだのです。
いったい何がどうなってるのか訳が分かりません。私にとっては、自分の歌が大ヒットしているという実感より、突然嵐のような忙しさに巻き込まれた感じばかり。テレビ局からステージへ、ステージからテレビ局へと一日中駆け回る生活でした。
そんな地に足がついていない状態が続き、年末が近ずくにつれ、今度は音楽賞ラッシュです。テレビ各局の音楽賞はじめ、日本レコード大賞歌唱賞、日本歌謡大賞放送音楽賞・・・・。
まるで夢でも見ているようでしたが、最後のうれしい悲鳴が紅白歌合戦初出場決定の知らせでした。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-7
快挙を共に喜んでくれた人たち
デビュー5年目の『津軽海峡・冬景色』の大ヒット、数々の音楽賞受賞、そして紅白歌合戦初出場決定―――盆と正月がいっしょに来るといいますが、本当にそんな感じで、紅白出場決定のお知らせをいただいた時は、なんだか現実感がありませんでした。
その夜、わが家の食卓には母の手作りの赤飯や煮物が並びました。子供の頃からなじんだそのお祝い料理を前にして、やっと喜びがこみあげてきたものでした。
何よりうれしかったのは、まだ売れてない頃からずっと応援してくれていた方たちの祝福の言葉でした。とくに、キャンペーンで歩いては、いつも励ましていただいた地方の方たちから、
「ほらね、きっと大ヒットすると僕がいった通りになったでしょ」
「さゆりちゃんは、いつか必ず陽が当たると信じてたけど、本当によかった、よかったね」
そんな電話が次々に入り、温かい言葉に思わず胸がキュンとなったものでした。
そして、大晦日。どんな歌い手も初めての紅白歌合戦の舞台はひどく緊張するといいます。それだけ歌い手にとっては晴れの大舞台、まして5年目にして初めてそこに上がる私、さぞやガチガチに緊張と思うでしょ?
ところが私ときたら、まったく緊張感なし。何しろうれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、
―――お、これが紅白歌合戦のセットかァ・・・・!
要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまったのです。
不遇時代の苦労なんかなかった
紅白出場でようやく一人前の歌い手として認められ、新聞や雑誌の取材も一気に増えましたが、インタビューで必ず出たのが、「ヒットに恵まれないあいだ、苦労したでしょ?」という質問でした。
それに対して私は「ちっとも苦労したという思いはありません」と答えていましたが、別に負け惜しみをいってたわけじゃないんです。ずっと励ましてくれる方々もいましたし、それより何より、歌うことが好きで好きでしかたなかったんですもの。
たとえば、テレビの歌番組ではリハーサルがあります。売れっ子の歌い手さんはよく”本番飛び込み”といって、リハーサルには代役を立て、本番に駆けつけ歌うことが多かったのです。そんな時私は、自分から「私、歌いまーす」と代役を買って出たものでした。たとえ人の歌でも歌ってさえいれば幸せ、そのうえそれがずいぶん勉強になったんです。
勉強といえば、ヒット曲に出合う前にいろんなお稽古ごとをしました。でも、これは勉強というより私の癖で、何か素敵なものに出合うと、
「私にもできないかなァやってみたい」
という気持ちがムクムク頭をもたげてくるのです。そうやって三橋美智也さんに民謡を習い、さらに二葉百合子さんに浪曲まで習いました。
何かの役に立ててやろう計算してお稽古したわけではありませんが、そのどれもがあとになって活きたような気がします。生意気なようですが、不遇時代にこそ本当のしっかりしたものを身につけることができるのかも知れませんね。
「津軽海峡・・・」は女性の自立の歌
先日、NHKが行った「1000万投票 BS20世紀日本の歌」の発表がありましたが、その上位100曲の中に、『天城越え』とともに『津軽海峡・冬景色』も選んでいただきました。本当に歌手冥利につきます。
『津軽海峡・冬景色』が発売されてからもう21年たちますが、今でも冬になると、いろんな番組でかけていただいたりしています。そんな時ふっと、白いドレスを着て夢中で歌っていた当時の自分のことがよみがえってきます。
「あの歌で僕は、自立していく女性を書いたんだよ」
いつだったか作詞の阿久悠先生がそうおっしゃったことがありした。それまでの歌に登場していた女性像といえば「待つ、耐える、忍ぶ」、そういうイメージばかりでしたが、そこから抜け出て、自分の言葉や行動をもって生きていく女性を、阿久先生は雪景色の中に立たせました。
「さよなら あなた 私は帰ります」
このフレーズだけで、そういうリンとした女性像が浮かんできます。それは、同じ阿久悠・三木たかし両先生による『能登半島』『暖流』にも共通しています。これらの歌がヒットしていた頃、ファンの方々からいろんなお便りをいただきました。
「さゆりさんの歌、自分の言葉や思いを代弁してくれているようです」
「あの歌を聴きながら、一人で現地へ行ってきました」
女性自立という時代の風に揺れながらも、現実生活ではなかなか思い切れない、そのもどかしさが歌の中だと越えられる・・・・そういう思いで私の歌を聴いていただいていたのかも知れませんね。
歌というのは、本当にふしぎだナと思います。作詞・作曲の先生方から歌い手に渡され、歌い手から聴き手に届けられる、そこから先、聞き手の中でどう流れていくのか、それは予測しようもなく、だからこそ限りなく深い・・・・そう思えます。
ラジオから流れる21年前の自分の歌声を聴きながら、
―――ああ、あの頃は歌にしがみつき、必死で歌っていたんだなァ。
ふと、当時の自分自身がいとおしくなりなす。
最初に歌をいただいた時、どう表現するかなど考えるゆとりもなく、ただ無我夢中、聴いてほしい初めての歌にめぐりあえた、その思いだけで一杯でした。それ以後も歌い続け、のちに三木先生に、歌とともに年齢を刻み成長した代表例としてこの歌をあげていただいたことがあります。十代の終わりの年にそういう歌にめぐりあえたことは本当に幸せでしたが、まだまだ新しい出会いが私を待っていたのです。
こころの詩を・・・石川さゆりVol-8
「火の国へ」歌う心はふるさとへ
『津軽海峡・冬景色』が大ヒットしたのは昭和52年、その翌年には『火の国へ』を発表しました。火の国、つまり私のふるさと熊本を舞台にした歌です。この頃はずっと、私の歌の作詞は阿久悠先生、作曲が三木たかし先生のお二人で、『火の国へ』もそうでしたが、チョット面白いエピソードがあるんです。
阿久先生は最初に歌を書いていただいた時から、どうやら私を”石川県出身”と思っていらっしゃったようなのです。それで、『津軽海峡・冬景色』のあと、ふるさとの歌を書いてあげようということでできたのが『能登半島』だったらしいんですね。
なにかの時にそんな話になり、「私、石川というのは本名で、ふるさとは実は熊本なんです」ということをお話ししたところ、じゃ、改めてふるさとの歌をと、『火の国へ』を書いてくださったのです。
そんないきさつから生まれたこの『火の国へ』も大好きな歌のひとつで、コンサートでは今も歌っています。歌うたびに、心の中でふるさとへ帰るような気がします。
コンサートといえば、昨年4月にスタートしたデビュー25周年記念コンサートも、そろそろ終わりに近ずいてきました。そのコンサートと並び、もうひとつ私の歌を聞いてくださる皆さんに喜んでいただける事は・・・・と思い、行ったのが私の歌の中から新たにレコーディングをした39曲です。
全国のレコード屋さんやファンの方々からアンケートをいただき、私のこれまでのすべての歌の中から39曲を選びました。39というのは”サンキュー”、私からの感謝の気持ちをこめたものです。
デビュー曲『かくれんぼ』から昨年の『歌麿』までの曲の中には、もちろんこの『火の国へ』も入っています。こちらのほうも、ほぼ全部のレコーディングを終えましたが、1曲ごとに当時の自分自身や忘れていたいろんなことが、ふと思い出されたりしたものでした。
20歳を記念してバイクの免許を\plain
『火の国へ』を出した昭和53年(1978)、私は20歳になりました。人生で一番輝いている年齢でもあり、同時に一番悩みもかかえている年齢、それが20歳ではないでしょうか。
成人式当日、私はNHKの「青年の主張」にゲストとして招いていただき、自分自身の成人式には出席できませんでしたが、同じ年齢の方々が力強く将来の夢や抱負を語るのを聞きながら、ふと思ったものでした。
―――これから自分はどうやって大人になっていくんだろう・・・・歌が好きで今まで夢中になってやってきた。ヒット曲が出るまでは絶対やめないぞって頑張ってきて、『津軽海峡・冬景色』という大ヒットにめぐりあえた・・・・でも、これから先私は、何を見つけて、どうやって歌っていくんだろう・・・・。まぶしいほど輝いているようでいて、でも、まだよく見えない未来。それを前にした20歳の夢と不安を、私もかかえていたのです。
自分なりに考え、出した結論はこうでした。
―――歌を歌っていたせいであれができなかった、これもダメだったという言い訳はイヤだな。そんな言い訳を自分に残すことはしたくない。
そう思ったとき、パッとひらめいたんです。
―――そうだ、原付きの免許を取ろう!
何とも単純な結論で、おかしいでしょ?でも、何であれ自分で行動し、それを一つずつ形にしたかったんですね。で、運転免許試験場へ行き、原付バイクの免許取得。次の年には、普通免許も取りました。
こんな単純なことでも、すごく満足感がありました。だれかに決められるのではなく、自分で考え自分で行動することの大切さを、身をもって知ったわけですね。
休日には電話をシャットアウト
仕事の面でも、そんな自分の考えを活かすことにしました。当時は、朝起きてから夜寝るまで、すべてスケジュールが決められていました。テレビスタジオ、ステージ、インタビュー・・・・と休むまもなく駆けずり回る毎日で、それは歌い手にかぎらず、タレントさん、役者さんも忙しくなった時にみんな通る道です。
でも、ふっと自分は何をしているんだろうと思うことがあります。ただ決められたスケジュールを消化しているだけじゃないの・・・・このままだと、自分自身を見失うところまで行っちゃう・・・・。
で、また決めたんです。
―――休みの日に、自分で何をやっていいのか分からない状態になるのはやめよう。
事務所に電話しました。
「オフの日、私に連絡が取れないかもしれません。緊急の場合は別にして、オフの日には電話をしないでください」
担当マネジャーはびっくりしてしまいました。無理もありません、それまではただスケジュール通りに動いていた私が突然そういったのですから。私の考えを聞いたマネジャーは、
「そうかァ、さゆりも大人になったんだなァ」
感心したようにいったものです。でも私のホンネは、大人になるため、まずオフだけでも自分でスケジュール管理をしてみよう、ということだったんですね。
こうして休みの日は完全に私のものになりましたが、といって別に何か立派なことをしようというわけじゃないんです。何をするにしても、またしないにしても、それが自分の意志によること、自分で決めて歩いてみたい。
で、実際に休みの日に何をしてたかというと、近くの多摩川を散歩したり、赤いバイクを乗り回したりと、実にたわいないんです。でも、そんなことをしながら、それがだれ
全站熱搜
留言列表